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7月12日(火) 蓮始開(はすはじめてひらく) 旧暦6月9日
左手に見えるのが有名な神谷バー。 今日のふらんす堂編集部は、「ふらんす堂通信」の編集を中心に一日が始まった。 助っ人スタッフの愛さんが今日は朝から来て、校正をしている。 愛さんはいま都内の某書店でパート勤務をしているので、わたしは愛さんが来るときまって、 「愛さん、いま何が一番売れてるの?」と聞く。すると、愛さんは校正の手をとめて、 「そうですねえ、」と言ってあれこれと売れているものを教えてくれるのだ。 彼女が勤めている書店は、高級住宅地の一角にあるので、こんな高い本売れるのかなあというものが売れて行くという。リッチなお年寄りも多く、俳句関係の本も注文があるという。 「そういえば、先日山頭火全集が売れました」と愛さん。 そうか、山頭火は相変わらず人気があるのか。 わたしは、豪邸に住むマダムがフランス窓の傍で山頭火を読む風景なんぞを思い描いたりしてしまったのだった。 新刊紹介をしたい。 「なめらかな世界の肉」とは、句集のタイトルとしてはなんとも印象的なタイトルである。 このタイトルをつけたのはもちろん著者であるが、このタイトル同様本句集は徹底的に著者のこだわりを演出、具現化したものである。著者の意識の上に構築された世界である。 著者の岡野泰輔(おかの・たいすけ)さんは、1945年埼玉生まれ、千葉県我孫子市在住。2004年に「船団の会」に入会、現在「船団の会」の会員。本句集に代表の坪内稔典さんが、帯文を寄せている。 本句集を読み解いていく(?)には、まず、「あとがき」の冒頭の部分を紹介するのがいいと思う。 この世界を自他の区別があらかじめ失われた、方向も、厚みも、重さもないものとして想像してみる、まるで生まれたての自分が包まれたように。その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつを俳句と呼ぶのならその関係の全体を「なめらかな世界の肉」と呼んでも差し支えないだろう。 今あとがきを書いている時点からふり返ってみると、この言葉ひとつで急に句集が具体的にできるなと思ったのが去年のことだ。その前年に注目の現代画家 五木田智央氏の大規模な個展「THE GREAT CIRCUS」(川村美術館)を観たことも影響しているかもしれない。(同氏の作品を表紙にできたことは望外のことであった。)句集タイトルが決まってしまえば句はあるのだ。 まず、タイトルありき、である。そこからこの句集の世界ははじまり、そして装画にもちいた五木田智央さんの作品によって句集のイメージは徹底的なものとなった。 本句集は著者のこだわりの世界であると書いたが、1945年生まれの人間が今日までのその心と身体に焼き付けられたものがこの句集に動員されている。だから読者はこの句集のなかにある著者の文脈に雁字搦めになってしまいそうに一瞬なる。 目次を紹介したい。 「なめらかな世界の肉」という言葉が呪文のように本句集では繰り返される。 しかし、坪内稔典さんは帯にこう書く。 分ろうとしない。前から順に読まない。退屈なとき、とても贅沢な気分のとき、なんだか泣きたいとき、ぱらっと何ページ目かを開く。すると、そこにある言葉が話しかけてくるだろう。以上がこの句集のほぼ唯一、そして屈強の読み方だ。私はさっき、花烏賊の笑い声を聞いた。15ページの「崖が見え空が見え花烏賊のゆく」の花烏賊の愉快そうな声だ。 本句集の武装をさわやかに解いてくれる。わたしは著者より後に生まれたものであるけれど、近い世代なので岡野泰輔さんのこだわりを共有できる部分が随分ある。しかし、わからない人にはわからないのではないか。たとえば彼がこだわっている戦後の英語の教科書「Jack and Betty」のこと(兄が使っていた)、あるいはトリュフォー監督のフランス映画「アメリカの夜」という映画(ジャックリーヌ・ビセットが抜群に美しかった!)のこと、萩尾望都の「ポーの一族」(少女漫画に連載の時に読んでいた)のことなどなど、岡野さんの世界の一部をなしているものが俳句の作品群を浸ししているのだ。ある意味作品とともに様々な声や気配を感じとることになる。だが、本句集の呪縛(?)を爽やかに蹴飛ばしてみせるのが坪内さんの言葉だ。 つまり、どこから読んでもいいのである。ということ。 著者に敷かれた文脈をたどらなくてもいいのであるということ。 (もっちろん著者の構築した世界を楽しむということもあるけど) で、 わたしは坪内さんの読みにしたがって、ふっと気持が止まった句を紹介したいと思う。(岡野さんは不本意かもしれなけれど、)しかし、結構、共通項としてわかる句もあってああ、この句、あの映画を下敷きにしてるんだなあ、とか、岡野さんもあの本を読んでいたのかとか、でもそういう句はなるべく選ばない。 裏山に水の流るる春炬燵 引く波のなかあかるけれ鰆東風 シュルレアリスム展みなあたたかし手のしごと みつしりと肉の詰れる冷蔵庫 空よりもみづうみ青く秋をはる よく晴れた日は刈萱にふれてゆく 仰向けのからだ懐かし糸瓜棚 海鼠かむそちらも青い空ですか 鰯雲白ヤギさんたら黒ヤギ襲ふ 抱き締めて芯のありけり雪女 夏薊遠い太鼓が来る道の 蜩やむらさきの森ぬけてゆく もはや戦後ではなくはない蝉の声 ビー玉のあらぬ方へとレノンの忌 冷奴それでも神はゐないと言ふ 人乗せぬ馬こそよけれ今朝の秋 サーカスの帰りは秋の風がふく セーターの脱いだかたちがすでに負け 老嬢のマフラー赤き神楽坂 新雪に倒れるならば仰向け派 壜に口つけて鳴らしぬ万愚節 花冷えや脳の写真のはづかしく 大久保にもののあはれの春の雨 チューリップ上手に咲かせみんな留守 500句ちかい収録作品のなかから抜いてみた。 これはほんの一部である。 もっともっといろんな作品がある。 わたしは著者が見た風景とわりと近いところにいた所為か、この句集を読んでいるとあるノスタルジーのようなものを強く感じた。 そして、 十一人なかの一人の春愁 という句、これはすぐに萩尾望都の作品「11人いる」を思い出させた。 「春愁」という季語もその登場人物などを思い出して面白くおもった。(「11人いる」は萩尾望都の作品のなかでもとびきり好きだ)あるいは関係ないかもしれないが、岡野さんの萩尾望都好きを思えば、きっとそうであろう。 つまりはそういう句集なのである。しかし、それを知らなくてもいいのである。 そのまま読んでもいいし、あるいは感傷をおなじくしてもいいのである。 そういう装置が1句1句に施されているのかもしれない。 そして、著者の岡野さんは、そのこだわりのために本句集を編まれたのかもしれない。 それもまた、すばらしく贅沢な心意気と思う。 萩尾望都さんに了解をいただき、「ポーの一族」のエドガーの目を岡野さんご自身が似せて描いたもの。「ポーの一族」と題した俳句8句とともに。 装幀は、装画は五木田智央さん、挿絵は岡野泰輔さん、装幀は和兎サンであるが、徹底して岡野さんのこだわりをデザイン化したものである。 「あとがき」でこう書く岡野泰輔さんである。 咲くたびに年寄るこども大花火 たしかにそうである。人間は確実に一刻一刻と死に向っているのである。子どもと言えどもそれは免れない。花火を無邪気に喜んでいるのは子どもだが、大人は花火の美しいはかなさを充分に知っている。花火を見入る子どもに「年寄る」という言葉がその現実感を増す。 今日はお客さまがひとり見えられた。 この度句集をつくられる吉田敏子さんのご息女の吉田知寿子さん。 体調をくずされておられるお母さまの代わりに打ち合せにいらして下さったのである。 吉田敏子さんは、短歌をずっと作られて来られたのであるが、ご高齢になってから俳句を始められたという。 そして作りためた作品を一冊にしておこうとお決めになられたのだった。 「どこにお願いするかは、わたしが本屋さんに行って、いろんな句集をみて、ふらんす堂さんがいいと思い、母にすすめたのです」と吉田知津子さん。 「それはとても嬉しいです」とわたしは担当スタッフの文己さんと顔を見合わせて思わずにっこりとしたのであった。 音楽家であり、作曲を中心にお仕事をされ、教室をもち音楽家を育てられているという。 亡くなったお父さまが音楽好きでいつも家ではレコードから音が響いていたということである。 「母は文学好き、わたしは音楽の方へいきました。」と知寿子さん。 お母さまのために、猛暑のなかをご来社くださったのだった。
by fragie777
| 2016-07-12 21:17
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