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7月7日 小暑 七夕 旧暦6月3日
カメラが山梨より戻った。 (保坂敏子さん、ありがとうございます!) ここにはもはや誰も住んでおられないという。 「今」編集部の前で。 お世話になりました! 今日は新刊句集を紹介したい。 四六判ハードカバー装。204ページ。 著者の常澤俶子(つねざわ・あつこ)さんは、昭和18(1943)年兵庫県生まれ、神戸市在住。平成元年(1989)に俳誌「天狼」入会、平成7年(1995)俳誌「狩」入会、平成20年(2008)狩同人となる。本句集は、平成7年(1996)より平成27年(2015)までの327句を収録した第1句集である。鷹羽狩行主宰が序句、帯文、鑑賞5句を寄せ、「狩」の先輩の藤本朝海さんが跋文を寄せている。 狩行主宰の帯文と鑑賞5句からいくつか紹介したい。 野を焼いて来て物音に敏くなる 野焼きで緊張が続き、ちょっとした物音にも敏感になっているのだろう。 雪しんしん山家ずんずん沈み行く 雪に埋没するような恐怖が「しんしん……ずんずん」の調べにも出ている。 緑蔭の風を女神と思ひけり 暑い日、汗を流しながら大きな緑蔭に入ると、ほっとする。風でもあれば、まさに都会のオアシス。この句「緑蔭の風を女神」と把握したところが新鮮で、手垢のついていない表現とは、こういう句を言うのだろう。 木も岩も歩き退場聖夜劇 キリストの降誕を祝っての子供の劇である。たぶん幼稚園だろう。キリストや子羊はもちろん、「木も岩も歩き退場」という意表をつく大胆な上五・中七が秀抜。すべてがかわいらしい子供たちの聖夜劇。 苗字の一字と句集名を詠み込んだもの。 跋文を寄せられた藤本朝海さんは、「俶子さんは毎月、吟行を欠かさず、多作を実践しています。どの作品を見ても発見があり描写が確かです。」と著者を紹介し、たくさんの句をあげて鑑賞をしておられる。いくつか紹介したい。 六甲を楯となす村稲の秋 と格調高く詠んでいますように、俶子さん一家は、三世代で六甲山麓に住み、稲作、貸農園、園芸など手広く営んでおり、句作の環境は羨ましいほど恵まれています。 人数の割に賑やか梅探る 三・四人の女性ばかりの探梅を想像します。彼女たちは、話をしたり笑ったりしながら山径を辿って行きます。その声は、静かな山中では一層賑やかに聞こえるのです。「探梅のこころもとなき人数かな 後藤夜半」とは逆方向の明るい句を詠んでいます。 常澤俶子さんは、平成元年に「天狼」に入会し山口誓子の下で俳句をはじめるが、誓子が逝去したことにより「狩」に入会して俳句を鷹羽狩行に学ぶ。本句集には、「天狼」で学んだ7年間の句は収録せず、「狩」時代のものだけを収めた。 「あとがき」を紹介したい。 平成元年に「天狼」に入会して、私の俳句作りが始まりましたが、「天狼」終刊、山口誓子先生ご逝去により、かねてから憧れていた鷹羽狩行先生に、平成七年よりご指導を仰ぎ、不器用な私を厳しく優しく導いていただきました。まだまだ志半ばにて、山野に入って梅を探す心意気で精進を重ねたく思っております。 ほかに、 両袖を翼の如く七五三 田水張り村は光を取り戻す 照らされて火の粉となりぬ牡丹雪 陽花の藍のしたたる切通し 香水を濃くつけ老いを近寄せず 長堤を女だてらに焼き払ふ 大泣きの子に合ふピント初写真 思ひ草ひしめき合ひて影持たず つひに子を背負ひたるまま踊り出す 蚕豆のはちきれさうな青さかな 草笛の上手な母に育てられ 鬼の子が空の広さに驚けり 寒と言ふ見えざる物を身に纏ふ 水底は静まりゐたり春一番 稲妻を見し夜のまぶた乾きけり 夫に編むセーターだんだん重くなる 久々の雨読となりぬ水中花 鋸の目立て屋が来る蝶連れて 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 カバーの梅の花は、辻が花模様のような味わいがある。 君嶋さんの本領が十全に発揮された装幀となった。 ちょうど白梅のような色である。 文字は金箔押し。 牡丹雪母のことばのやうに降る 牡丹雪は水気をたっぷり含み重さのある雪である。冷たい雪であるというよりも春の温かさをその内に宿している。大粒であるから存在感もある。やさしく地面を濡らしてすぐに解けてしまう。「母のことばのやうに」という比喩の卓抜さによって、「母のことばのやう」が読み手のなかで増幅し繰り返される。牡丹雪以上に。牡丹雪は母のことばであり、また母そのもののぬくもりでもあり、母の気配に満ち満ちたものである。母のことばは慈愛と化し、やさしく降りつづく。 今朝出かけようと思ったら、門扉のところに回覧板がかけてある。 隣組に入っているので回覧板はよく回ってくるが、ほとんど目を通さずにお隣にまわしてしまう。(スミマセン) 今日はその中身を覗いてみた。 盆踊りの練習会のお知らせだった。 あら、いいわね。 夏になると近くの神社で盆踊り大会が開かれることは知っている。 盆踊りにはこれまであまり興味をもっていなかったが、踊りくるうエクスタシーには興味を持ちはじめている。柳田國男の書いたものなどを読むと、それぞれの村落で伝承された女たちによる「踊り」を彼が熱心に尋ね歩いていることがわかる。そして「踊り」のもつ不思議さに触れている。 「踊る」ということがもつエクスタシーにわたしも触れてみたい。ふっと脳裏をかすめた、。いやいや(そんなことは)とブルブルブルと頭をふってすぐに打ち消した。 「踊る」ということはつまらない自意識から解放されなければならないのだが、わたしはそれがダメ。その自意識から解放されてがんがん踊り狂うことができたらどんなにいいだろうかと思ったりするのだけれど。。。
by fragie777
| 2016-07-07 19:44
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