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4月12日(火) 旧暦3月6日
ふらんす堂は「ふらんす堂通信148号」編集期間へと突入した。 今日はスタッフの愛さんも来て、一所懸命に校正をしてくれている。 「コラム、編集後記、編集室から、お願いします」と昨夕から言われ、わたしも仕事時間の合間になんとか書き上げた。 「ふらんす堂通信」の編集は、スタッフがそれぞれ仕事をしながらの編集作業になるのでこの期間はたいへんである。それでも何とかやって来られたのは、チームワークのよろしさか。。。。 ふらんす堂は、わたしたち編集スタッフ以外に、実は優秀な校正スタッフがいて、すばらしい仕事をしてくれるのである。わたしのような大雑把でいい加減な人間にアイソをつかさないでいい仕事をしてくれている貴重な人たちだ。つくづくと恵まれているふらんす堂およびyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 四六判薄表紙カバー装 194ページ。赤のシリーズ。 著者の如月のら(きさらぎ・のら)さんは、1953(昭和28)年、長野県生れ、長野県飯田市在住。1995(平成7)年「白露」入会、「白露」同人を経て、現在「郭公」同人。2015(平成25)年に第一回郭公賞を受賞されている。本句集は第一句集で、1995年から2013年の19年間の作品を収録。廣瀬直人(白露)主宰による「鑑賞四句」、井上康明主宰が「鑑賞一句」と序文をよせておられる。また、栞は神野紗希さんが書いてくださった。 一寸の実生まつたき紅葉かな この「実生」が具体的に何であるかは何も言っていないが、それが何であれ、土からわずかに一寸ほど伸びて季節の推移に従って紅葉している生きものの生命を確実に見ている把握である。大きいものはともかく、小さなものに「まつたき紅葉」の姿を見ている感性から生まれるきびしさと豊かさを読みとりたい。 廣瀬直人(白露)主宰の鑑賞文より紹介した。句集名となった一句でもある。 どの命もこの広い時空間の奇跡の一滴と思う。 これは、のらさんの俳句に対する、というよりは芸術一般、人生に対する見方であり、この度の句集にも貫かれている。 井上康明主宰の序文だ。そして、 遠郭公明けゆく空の無一物 ものの芽のひとしく日射し分かちをり 凍土をつかんでゐたる大樹の根 あらためて命の根源に立ち返ったかのような句である。初めの句、遠く聞こえる郭公の声にまっさらな夜明けの空が明けてくる。次の句、並ぶものの芽に、日射しがあまねく当たっている。こまやかに生命の生長の一瞬を描く。三句目、凍て土に張る根の、その力を寒気のなかに感じさせる情景である。 俳諧師絵師酔蕪村春の闇 句集最後の作、微醺を帯びた蕪村と春の闇が、俳諧と絵画と不思議な物語へ読者を誘う。その春の闇に通う生命感は、「奇跡の一滴」と言った命の燃焼の幸福に通底するだろう。 この「奇跡の一滴」とは、まさに「一寸の実生」のことでもある。 神野紗希さんは、「のらさんは、気配を詠む人だ。」と書き、句の背後にひそむ「気配」を嗅ぎ取る。それは栞のタイトルともなった「命の気配」だ。 ひぐらしに水の匂ひのつく日かな 紫陽花に香のなきことのよかりけり 紙の香の花の香めきし寒夜かな 落日の匂ひなりけりくわりんの実 いずれも、匂いという感覚を通して、目には見えないけれどたしかにそこに在る、気配を句にまとわせている。 そして、〈一寸の実生まつたき紅葉かな〉についても「一寸でも「まつたき」。ここにもたしかに、懸命に生きる命の気配が。」と。いつもながら、鑑賞の切り口がするどい。 すべては「一寸の実生」にはじまり「一寸の実生」につきる句集である。 千の芍薬千の夢開きをり 倒木にまだ魂のある雪解風 如月に何の予感の胸が鳴る 大西日卒塔婆たふさむばかりなり 何してもひとりの音の秋の昼 山つつじ川音笑ひ合ふやうに 濡れてゐて春待つ寺となりにけり 露の戸の開け閉て失せしもの多し 秋草を活けてちひさく棲みにけり 鶯のこゑ思惟仏の思惟のなか 如月や泣きだしさうに野のひかり やはらかく意地をとほせり更衣 夕涼やシテ方水のごとく出づ 雫よりちひさき梅の蕾かな 泣き足りぬいろしてゐたり梅雨の月 ゆふぐれの流れてきたる春の川 月の夜は水面に出でよ深海魚 もうひとり生まれるといふ日向ぼこ 穴まどひひかりあまさず浴びにけり 初蝶の来し父棲まぬ父の家 冬日向翅あるものになきものに 句集名は「一寸の実生まつたき紅葉かな」の一句から「実生」とした。その句が生まれた情景をいまもありありと思い起こすことが出来る。一寸の小さな木もちゃんと紅葉する!と思った時、感動と目の前の木に対する慈しみの感情が込み上げた。即吟ではなかったが、この一句が生まれたことは私にとって励みになった。 二十余年という歳月を経て、俳句の種はどれほど成長したのだろう。いまだ一寸の実生のようなものかも知れない。自分の中で育てているこの小さな木を枯らさぬよう、この先も年輪を重ねる努力をしてゆきたい。 「あとがき」の言葉である。 装幀は和兎さんであるが、如月のらさんのご希望によってグラフィックデザイナーの今村由男氏の装画を用いた。如月さんは今村氏との共著『THE FOUR SEASONS』を2013年に上梓されている。今回もそのご縁を生かしたものとなった。 表紙。 樹の声のあふるるえごの盛りなり 如月のら わたしの家にもえごの木があるが、すでに若葉が出はじめていて月明かりに緑が美しい。えごの花は大好きな花のひとつである。えごの盛りのときは、まさに「樹の声のあふるる」という感じがよくわかる。白い小さな星のような花なのでたくさん咲いても清潔さが失われることがない。まさに咲くことの喜びに充ちた花である。 担当のPさんに聞いたのであるが、如月のらさんの「のら」という俳号は、「野良猫」の「のら」なんだそうである。ということはやはり猫好きらしい。 今日はお客さまがおひとり見えられた。 俳人の上野一孝さんである。 新句集を上梓するご予定があって、今日は句稿と装幀に使用する予定の装画をもっていらっしゃった。 句稿は、タイトルをまよっておられることと、もうすこし詰めて考えてみたいということで今日はいただけなかった。 装画は、俳人で画家であった須加卉九男さん。須加さんは、俳誌「杉」の同人であったが、すでに故人となられてしまった。 「すばらしい俳人であったのに、句集ひとつ残さず亡くなってしまいました。」と無念そうにお話される上野一孝さんだった。 森澄雄を師とし、「杉」編集長を10年なさったという上野一孝氏。 いまは俳誌「梓」の代表をされている。 今度の句集は、第2句集『李白』につぐ第3句集となる。 今日の増殖する歳時記は、土肥あき子さんによって 山本三樹夫句集『手を繋ぐ』より。 花の昼刺されしままの畳針 山本三樹夫 桜の花どきが日本列島をゆっくりと北上する。畳屋の店先に出された青畳に、太い畳針が刺されたままになっている景色。鋭い先端を深々と収めるおそろしげな光りは、のどかな桜の午後に似つかわしくないもののようにも思われる。しかし、満開の桜が持つ張り詰めた緊張感と、無造作に刺されたままになっている畳針には奇妙な一致も感じられる。おそらく、一方は美しすぎることから、もう一方は危ないものとして、どちらも「そこにあってはいけないもの」であるとみなす人間が抱く危機感のような気がする。そう思うと咲き満ちる桜を見上げるときに感じる、美しいものを見る感動の片隅にわき起こる心騒ぐ思いにふと合点がいくのである。〈石置けば小鳥の墓よ曼珠沙華〉〈ふるさとへ帰りたき日を鳥渡る〉『手を繋ぐ』(2015)所収。 まだみんな仕事をしている。↑どういうわけか大きな字になっちゃった。 意図したわけではないのだけど。 わたしもこのブログを書き終えたら、「通信」の仕事をして帰るつもりである。 もうすこし、頑張ろうっと。。。。
by fragie777
| 2016-04-12 20:22
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