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2月15日(月) 旧暦1月8日
「春の水」である。 今日も何度か玄関を出たり入ったりと忙しかった。 外に出てからこんなに寒いとは気付かなかった。 まずスカーフをマフラーに変え、コートを冬のコートに戻した。 (それをいっぺんにやればいいのだが、そうできないのが段取りの悪いyamaokaである) 「三寒四温」を実感する日々。 さて、 新刊紹介をしたい。 宇津木俊子句集『凛として』(りんとして)。 著者の宇津木俊子(うつぎ・としこ)さんは、昭和29年(1954)埼玉県秩父市生まれ、現在は埼玉県日高市在住、俳句は祖母や義父の影響で身近にあったが、平成10年(1998)に俳誌「堅香子」に入会、主宰・野崎ゆり香に俳句を学ぶ。平成22年(2010)「堅香子」同人。平成26年(2014)「堅香子」終刊。現在は「かわせみ」の会所属し句友とともに俳句を楽しんでいる。 本句集には、「かわせみ」の会の仲間の三宅照一氏が序文を寄せ、著者が取締役をつとめる(株)龍言の女将小幡と志氏が跋文を寄せている。本句集は還暦の記念として刊行されたものである。 夜長しチェロに聴きゐる母の笑み 雉鳴きて畑の夫に昼を告ぐ 天の川娘の乳のほとばしる 幼子の握りしめたる姫りんご 木犀の香りの先に我家あり 大いなる父の背中に冬日さす 薹の立つ蕗のお浸しそれも良し 本句集の著者からいただいた句稿は平成十年から平成二十六年までの十七年間に作られた四百三十三句であった。通読してまず感じたのは、あたかも著者の半生記が記されているようだということである。 日々の生活で目撃したこと感じたことがまるで日記のように、力まず、淡々と詠まれている。そこには家族を見守る主婦として、親・夫・子・孫に対する温かい眼差しがあふれている。 三宅氏の序文より紹介。 日々の生活のことが日記のように俳句で書かれている。著者にとってはかけがえのない日々である。 実は宇津木俊子さんは、わたしの従妹である。母の妹である伯母の一男三女の次女である。 小さい頃はなにかと交流があったが、長じてからはほとんどその生活も消息も知らなかった。亡くなった母をとおして結婚してどこに住んでいるとか、その位のことを教えて貰っていたような気もするが、母が亡くなった今、ほとんど交流がないままだった。昨年突然電話を貰い、ふらんす堂に来社、久しぶりに会い、句集上梓となったのである。ふらんす堂を心にかけてくださったのだ。 少女時代しか知らなかった「俊子ちゃん」の来し方を私は句集をとおして改めて知ることになったのである。 秩父路やまだら模様の野焼き後 早朝の秩父おろしが肌をさす 霧の奥秩父連山墨絵かな 著者の故郷の秩父はわたしの故郷でもある。 この秩父のことを俳句によく詠んでいる。 しかし、わたしは「秩父の野焼き」を知らない。高校生まで秩父にいたのだが、ほとんど家を出ず、スタンダールやロマン・ロラン、あるいはドストエフスキーを読んだりして、そこに登場するわたしにはえらくカッコよく見える青年たちに、たとえばジュリアン・ソレルだったり、そういう男どもに少女の夢を羽ばたかせていたのである。「野焼き」よりも「パリの街角の匂い」の方がわたしには現実に思えたのだった。 だから、「俊子ちゃん」によって詠まれた故郷はわたしにはかえって新鮮である。 俊子ちゃんは、ちゃんと秩父で生きて息をして生活をしていたんだなあ……って。 この句集によって改めてわたしは「俊子ちゃん」に出会ったのだ。 古里の夕日は遠く地蔵盆 秋寒や武甲の山の裸岩 冬枯の古里の山我を呼ぶ 武甲山採掘すすむ余寒かな 母訪ねからつ風吹く奥秩父 宇津木さんの故郷秩父は山間の小盆地で土地が瘦せていたため、米作には不向きで代りに養蚕が栄えた。養蚕は蚕の世話や糸紡ぎ、機織りなど女性の仕事が多く、結果として男女平等の気風が強いと言われる。しかし著者は、句風のとおりいつもにこやかで︑誰に対しても優しく、芯の強さは内に秘めている。句集名『凜として』はそうした著者の句風、生き方を的確に表している。 三宅さんが序文に書かれているとおり、秩父は養蚕が盛んだった。かつては秩父銘仙が一世を風靡した。俊子ちゃんの実家も大きな機屋さん、わたしの祖父も機屋さん、わたしの実家は呉服屋である。そして男女平等というよりも女が強い。「かかあ天下と空っ風」である。 そういう気風のなかで、わたしは一種「はぐれもの」だったが、俊子ちゃんは立派な女性として成長し、嫁ぎ先の実業を身体の弱い夫を支えながら働いている。 その生きてきた証としての本句集である。 雪残る道の両側層重ね 年玉の札より玉を喜ばれ 俊子さんは多忙を極める日々にも拘わらず、俳句にも打ち込まれ、この句集には俊子さんの幾多のご努力が結実されたものと拝見しました。優しく強く可憐に詠み込まれた一句一句と感じ入りました。素敵な還暦道を華やかにお進み下さいませ。 旅館「龍言」の女将小幡と志さんの跋文である。跋文によると、かつて父親と行った旅館「龍言」が縁となって先代の社長の息子である現社長宇都木省一さんと結婚されたということである。今はその取締役として頑張っている俊子ちゃんだ。 雪降りて影絵のごとき住宅地 黄菖蒲や三代に続く祝膳 嫁ぎ来て二十五年や春近し 花嫁の衣装合はせや春の雪 萩うねり雀の出入り忙しき 水仙や讃岐うどんの腰強き 抜けてなほ葉先離れぬ蟬のから 節分や鬼になつたり福になつたり 顔見世の音立てて開く襖かな 風鈴を六つ並べて母一人 自動ドア急ぎ飛び出す七五三 土手に散る赤き椿に夕日さす 叱られて鉛筆にぎる春隣 卒業や和服のままに胴上げす ハァーエ 鳥も渡るかあの山越えて…… ハァーエ 主(ぬし)のためなら賃機(ちんばた)夜機(よばた)…… と秩父音頭でも唄われた機屋(はたや)の娘として私は生まれました。機屋は手形の商売なので、良い時も悪い時もあった様ですが、私自身は苦労知らずの世間知らずで育った様な気がします。社会経験としては大学病院の薬剤師として少し勤務しただけの箱入り娘でした。嫁いで三十数年、色々な事が押し寄せ、人並みに苦労して、人並みに乗り越えてきました。(略) これからも日々移ろい行く自然をみつめ、家族の成長と営みを私の目線で俳句として表現していきたいと思います。私が還暦に出した句集『凜として』が天国に届くならば、俳句の本を託してくれた祖母、句会へ誘ってくれた義父、私をいつも励ましてくれた父は、〝俊子も六十才になったのか……〟と思わず微笑むかもしれません。 「あとがき」の一部を紹介した。 装画は著者のご長女の秋枝さんによるもの。この秋枝さんによる装画は口絵として本文中に六枚使われている。 題字はご友人の岩嵜愛美さん。装丁は和兎さん。 美人でしょ。わたしにちっとも似ていないって。yamaokaを知っている人は皆そう思う。 だから言ってるでしょ。わたしの従妹は全員美人なんだって。わたしはそうじゃなかったから、愚にもつかない夢ばかり追う、はぐれ者になったのよ。 「凜として」という句集名がぴったりの一冊となった。 雉鳴きて亡き父我を呼ぶごとし 俊子ちゃんのお父さん、わたしはよく知っている叔父さまだ。 わたしの実家はいろんな人がよく来る家だった。 俊子ちゃんのお父さんもよく来ていた。大きな身体の存在感のある人で、わたしはちょっとこわかった。実業家でいつもいろんな事業の話を父や母としていた。わたしはお客さまがどちらかというと苦手で、そんなときは退散しわたしだけの夢想の世界に逃げ込んだのだった。 この句、父恋の句だ。俊子ちゃんにはあの叔父さまがこのように映っていたのかと、目を洗われる思いがする。そしてよく知っている叔父さまの笑顔を思いせつなくなる。 本句集『凜として』は、具体的ないろんな人の顔がうかび、やはりいろいろな思いが胸をよぎる句集である。母の妹の八重子伯母さまの顔が浮かぶ。大きな家で風鈴を六個つるして一人でいる伯母だ。今でも充分美しい人だ。先日電話をくださった。本句集の出来上りをとても喜んでおられたのが嬉しい。 還暦をむかえた俊子ちゃん、 どうぞこれからも仕事に俳句に頑張ってますます美しく輝かれますように。。。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、 益岡茱萸句集『汽水』より。 支へ合ひ今風花を見る二人 益岡茱萸 時を経たものには相応の深みがある。建築や絵や茶碗のような物だけでなく人もまた同じ。世界の片隅でひっそりと生きてきた二人にちがいない。もう決して若くない。「支へ合ひ」とはそうした生き方を表している。句集『汽水から。 同じく毎日新聞の坪内稔典さんにより「季語刻々」は、秋山泰句集『流星に刺青』より。 ひとひらの岩田明朝春の雪 「岩田明朝」は日本語の書体。活字の時代、読むための文字として書籍の本文に広く使われていた。現在はイワタ明朝と呼ばれている。今日の句、ちらついた春の雪は、まるで岩田明朝体のようだ、と言っている。活字の本に親しんだ世代だとこの感じを納得できるのではないか。ちなみに作者は1954年生まれ、長く出版社に勤めた。
by fragie777
| 2016-02-15 20:17
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