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2月14日(日) 魚上氷(うおこおりをいずる) バレンタインデー 旧暦1月7日 旧七草
![]() 今日は全身が春を感じる一日となった。 わたしは冬のコートを脱ぎすて、薄手のコートに薄桃色のスカーフをして出かけた。 スカーフもわたしも柔らかな風を喜んだのだった。 しかし、いつものことながら、出かける前がたいへん。 靴を履いてから、ドアを開けて鍵をしめ、そしてふたたび家にもどるということを何度もくりかえし、わたしはすっかり疲れてしまった。 傘をわすれてもどり、スカーフをとりにもどり、車の鍵を忘れたともどり、結局は鍵はわすれておらず、自分に呆れることはいつものこと。 春になったからね、と季節のせいにすることにした。 午後は仕事場で仕事。 「深見けん二俳句集成」の最終ゲラに目を通す。 深見けん二氏には二人の師がいる。 高濱虚子と山口青邨。第一句集『父子唱和』には、虚子は序句、青邨が序文を寄せている。かなり長い序文なのだが、この序文がいいのだ。 どういいのかというと、もちろん名文であることもそうだが、そしてあたたかな心根で弟子を見ていることもそうだが、なによりも師と弟子の間に流れる時間のありようがいいのだ。たとえば、一句一句を丁寧にとり上げ鑑賞をしながら、こんな風に書く。 じつとものを見つめてゐる、何かの動き、何かの作用が起るまでは動かないといふ態度である。(略) かういふ作句態度であるからけん二君の句は概して地味である、鑑賞者の方も句に対してじつと眺めてゐなければ面白さが出て来ない、にじみ出てくるまで対決しなければならないといふやうな場合が多い、これは一つの特徴である。 時間をかけてじっくり作った俳句である、しかし、その俳句は一見地味だ。鑑賞者も時間をかけなければその面白みが分からないという。弟子の句にじっくりと時間をかけてつきあおうというのである。この弟子に向き合う態度は、驚嘆に値するものだ。こういう師と巡り会うのは、奇跡に近いのではないか。そんなことをふっと思ってしまう。 いや、その時代を流れる時間の感覚が今と違うのかも知れない。 いまはそんなに丹念に時間をかけて人間と人間とが向き合うことが少なくなっているのかもしれない。性急に結果をもとめ、師も忙しく弟子も待てない。 この序文を読みながら、良き師に恵まれた深見けん二氏の幸福をわたしはまず思った。 師と弟子の高潔な精神にもとづく信頼関係がこの序文を一貫して流れているのだ。 三月に刊行される予定の「深見けん二俳句集成」の作品一句一句には、たっぷりとした時間が注ぎ込まれている。だから読者のわたしたちもたっぷりと時間を使って一句一句を読み込んでいかなくてはその作品のもつ深い味わいまで到達しえない。 きっと、そうだ。 だんだんに見上げ一輪梅早し けん二 昨日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、大木明子句集『休日』より。 虎のごと猫の立ち去る枯野かな 大木明子 猫にふと甦る野性の面影。猫を飼っている人なら、その瞬間をよく知っている。この句は枯野を悠然とあとにするところ。近所の猫だったかもしれないが、「立ち去る」といえば、さながら剣客のようではないか。句集『休日』から。 ![]() これはわが家の猫のうしろ姿。。。 どちらかというと人間に近いかも。。。
by fragie777
| 2016-02-14 18:40
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