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鳥居万由実インタビュー
この度あたらしい詩集『07.03.15.00』を上梓された詩人の鳥居万由実さんにインタビューをしました。それぞれの01からはじまり062まで数字のつけられた断片によってなる詩集について、語っていただきました。 匿名的なわたし ◯まず、これを詩集と呼んでいいわけですか? はい。詩集というかたちにまとめようと思いました。 ◯どのくらいの期間で書き上げたのですか。 一番古い断片が2009年、一番新しいのが2011年くらいでしょうか。3年間ですね。 ◯こういう詩集のかたち、文章の断片をあつめて、ひとつの形にする、こういう形で詩を書こうと思いたった契機はあるのですか?前詩集『遠さについて』とは違うかたちですよね。 ウーン。最初は自分の個人的なレッスンというか、毎日ひたすらノートに断片を書いてたんです。働きながらだったので隙間時間に書くから断片的になっちゃうという理由もあるんですが、それよりもコンセプトとして「匿名的なわたし」を書きたかったんですよね。名前がついて社会のなかで生きている個人ではなく、その下にあるもっと誰にも共通する土台としての匿名的な場所というか。 ◯それはペルソナを矧いでしまったような人間ということですか ウーン、ペルソナの土台になっている場所を書きたかったですよね。 自分の個人的な人生の体験とか思いとかを全面に出そうという気はしなかった。小説とかなにかしら物語のフィクションができるためには、土台として匿名な場所が必要になってくる。小説を書こうとしても現実に存在している作者の自分や性に縛られていると多分書けない。 ◯でも小説とか物語を書くという前提で書いていたわけじゃないでしょう。 そうですね。匿名の存在というのが、コンセプトでそれを常に頭にいれてどういう文章が書けるかなっていう実験です。 ◯この詩集に言葉を寄せられた野村喜和夫さんの言うところの「一歩手前の未分化的状態に置く」ということですか。 はい。登場人物も出てくるんですが、完璧な物語には発展しないで、「遠さについて」のあとがきで「それぞれの消息が世界に存在していることを書きたい」と書いたのですが、その路線をもっと敷衍してみました。 動物のようななにか未分化な場所への憧れ ◯今回の作品を読んでいると場面の展開に裏切られるというか、登場人物が変容してしまうというか、たとえば最初の方に登場する支配人と召使い、この2人突如が大きくなったり小さくなったり、変容しますよね、そういうのは書いていてどんどんイメージが膨らんで来たんですか。 あれはイメージがぽんぽん出てきちゃったんです。ちょっと話がずれますが、ああいう主人と奴隷のような地位的なものが必然的に出てきてしまったのは、なんだろう、人間の世界はそれとして存在するためにはなにか上下関係ですか、権力関係みたいなものがないと人間界は成立しづらいのかなと思いました。原始的な共同体にしろ家族にしろやはりどこかしら上下関係があるし、上下関係と言わなくても人間の世界を離れたら道具と目的、道具とそれを使う人間がいて、その両者がないと世の中は立ち上がってきにくいのかもしれません。 ◯「一歩手前の未分化的状態に置く」と野村さんは書いてますが、それにしては登場人物がけっこう活き活きとしてトリビアルな部分までよく書かれていて面白いとわたしは思いました。 「遠さについて」のあとがきで、夕方に道ばたで若い夫婦とすれ違ってその夫婦と自分の間にものすごい距離があって、何を考えているかわからないし、彼らになりかわることもできない。その絶対的な距離に安心する。自分じゃないものがちゃんと存在することに安心するって書いたんですけど、今回も自分じゃない他人、で絶対近づけない遠くにあるものたちを書きたかったですが、その近づきがたさみたいなものを、かもしだすにはある程度クリアに描写されていたほうがいいのかなと思いました。 ◯具体的なものが立ち現れるんだけど、どこか浮薄というか捉えられないというか、それがありますね。ちょっともどかしいような感じで読んだんですが。この作品のなかには物語の断片のようなものがあって、それが戯画化されていたり一種権力社会を風刺していたり、このこと自体は鳥居さんの今回の作品の主旨ではないと思うんですけど、しかし局面もあったりまたちょっと淡いラブストーリーみたいなものもあったり、たくさんの物語の断片が浮遊しているように思えました。それは書いているうちに自然とそういう方向に導かれたものなのか、それともあらかじめの構想のなかにあったものなんですか。 書くうちに、そちらに引っ張られていました。主人と奴隷的なものに対してはすごく違和があるのですが、そういう要素って人間社会に出て来ちゃうんですよね。主人と奴隷のような関係。世界をまとめるための引力、あるいは重力としてそういうものがあって、一方淡い恋物語的なものもあって…。主人と奴隷的なものってある意味人格が立ち上がる場所でもあるような気がするんですよ。人間がひとり存在して目的意識をもっていろんな道具を使って世界を築いていくっていうのは、その道具が奴隷であるかもしれないんですが、人格とそういう力というものは結構密接な位置にあると思うんです。ジャック・デリダ(1930-2004)などを読んでいると、「我」と自分を把握するのは、人間と呼ばれる存在が特権的に持っている力なんじゃないかって言っていて、わたしをわたしという存在であると自覚してその自分が感じている五感でみたり味わったり匂いを嗅いだりした感覚とか、また自分の意識と将来の目標とか全部を統合して一つの人格としてわたしであると声を発する力というのは、動物に認められていないのではないかみたいなことを言うんですよ。なのでわたしが発声するときの特権的なわたしというものを行使する力というんですか、そういうのが人間にはある。ただそれもありつつやはり動物のようななにか未分化な場所への憧れというか、まだ生まれる前に持っていたような、わたしが立ち上がる前のそのいろんなものと溶け合っていたときの記憶みたいなものを無意識のうちに誰しも持っているんじゃないかっていう気がしていて。 ◯それがさっきの匿名的なわたしにつながっていく、、、、 そうですね、そういう場所を書きたかったというのと、いろんな位相の場所が結構重層的に存在している、というのを書きたかったのかもしれない。 他の人の目で世界を見るっていうのは文学の基本的な、みんなが文学に引かれる大きな理由の一つだと思うんですが、いつもは自分の体に閉じ込められているのでそこから出て、ほかの人の視点から世界をちがった風に解釈できるというのが文学の大事なとこかなと思うんです。 世界は終わってしまっている。 ◯この詩集のはじまりにおかれた、(話すことの終わり)(話すことのはじまりについて)という言葉にはどんな意味が籠められていますか。 そうですねえ、ウーン、今って、いろんなことが語られ尽くしているってよく言われて、もうそんなに表現することは何もないような、ある意味行き詰まりにきているような感じってあるじゃないですか。詩の世界だけでなく現代社会そのものが爛熟しちゃっている、文学ももう古くからあるメディアなのでこれ以上何を新しくするのか、何をこれ以上つけ加えることがあるのだろうっていう気もしてしまうこともあるんですけど、まあ、才能がある人ならそうは思わないのかもしれないけど。わたしはフランツ・カフカ(1883-1924)やサミュエル・ベケット(1906-1989)の世界に割と引かれるんですが、世界はとっくに終わってしまっていてもう何もすることがないし、何も語ることもないんだけど、それでもなにかずっと終われないで何かしらぶつぶつとそれは無意味に聞こえたりもするんだけどずっと話しつづけている。っていう不思議な、時間がもう止まっちゃっているような、ものすごくゆっくり進んでいくような、普段の生きている世界とは違う時間が流れていて、そういう場所でもう終わってしまったあとでも話しつづけなければいけない、いけなくはないのかもしれないのだけど、なにか話していることでその不安定な場所が存在し続けられるようなことをちらっと考えていたような気がします。 ◯確かにこの作品のなかにもそのことは語られていますね。「世界は終わってしまっているかもしれないけど、話しつづけていかなくてはいけない」って。 この箇所も面白いとおもったのですが、「わたしはあの人に話かけなかった。かつて一度も。でも本当にそんなことが大切なんだろうか。わたしがあの人の姿を見た、それだけで対話はもう成立しているんじゃないだろうか。」(49番、81頁) 対話ってじっさい会って話して意味を交換することだと定義されていると思うんですが、「対話」の意味をもっと拡張してもいいような気がするんです。単純にラジオで人の声を聞いたりテレビで誰かの映像を見たり誰かの文章を読むっていうことでもいいんですが、それによって物理的に人の身体が変化するっていうこともあると思うんです。感動した時って脈がはやくなったり血のめぐりがよくなったりしますよね、もっと言いますとたとえば食べたり、葉っぱにさわるというのもそれもある意味で対話というか。言葉を介さなくても対話は成立すると思うのです。 ◯神が出てきますよね。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のことなどにからめて、鳥居さんは「神」というものをどういう風に考えていますか。 未分化状態の万物を浸していた海みたいな原初の場所があって、そういう場所がある意味、神的な場所なのかなあ、と。今ってなんとなくみんな神とか超越的なものについて言わないんですけど、実はみんなそういうものを前提として生きているのではないかっていう気がして。ホントにそういうものを一欠片も持っていなかったら、やっぱ生きるのって難しいような気がするのですけど。特定の信仰があるわけじゃないんですけど、誰しもなにかそういうのを持ってないとどこか壊れていくような気がする。 ◯しかし、もっと強烈な神に支配されている人たちがいますよね、鳥居さんの神はその神とは違うわけですか。 それともつながっちゃうと思うんですが、多分そういう狂信的な人の場合って、高村光太郎なんか調べていて思ったのですが、高村光太郎は最初はロダンの影響をうけて、自然をすごく大切にしていたんですね。万物は統べている宇宙の根本原因である自然というものがあって、芸術家の仕事はその自然に耳をすましてその自然を忠実に写しとることだ、ある意味ものすごく神的な存在として捉えられています。それが第二次世界大戦の時期になるとその自然という神的な場所の上に、大日本帝国が来ちゃうんですよ(笑)。序列としてまず大日本帝国が上にあってそこに付属する神的なもの自然というかそういうものになっちゃうんですよ。イデオロギーが上に来ていてそこにぶら下がるようなかたちで宗教的なもの、未分化な何でも包括する自然とかそういう概念みたいなものが来ちゃうと結構ファナティックな排外主義的なところに行っちゃうと思うんです。そうなっちゃうと大日本帝国というものが自然という属性をもって最大限に肯定されちゃうから、ほかの文明はその下になっちゃう。 ◯その神は絶対者なる神とは違うんですか。つまり人を絶対的に支配していくたとえばイスラム教やキリスト教の神とは。 神という、世俗を超えた場所にあるべき場所が、特定の世俗のイデオロギーと結びついちゃって、なにか現世のイデオロギーを肯定するために未分化の場所が存在している順序になっちゃった時が危険なのだと思います。 ◯ということは鳥居さんにとって「神」というものは人間に直接的に働きかける能動的なものではない、わけですね。 私が考えたのは、神秘体験とかする人が味わうような融即的な状態に近いのかもしれませんね。例えば、ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)とかも、若い時は凄く熱心なクリスチャンだったんです。成長してからも神秘体験をもとめるんですが、その時に最初はキリストのイメージを浮かべつつ最後にはそれを抛棄して、未分化の状態そのものを味わう。自分が消えてしまってなにか大きいものと一つになっている状態そのもののなかにいる。そのとき自我もなくなってしまう。 ◯それが神であると言っているわけですか? 微妙ですが神とは言っていないかもしれません。自我と一緒に神もなくなってしまうような場所で、「動物の場所」という風な言い方をしていたかもしれません。今回の詩集でも引用したのですが、動物は「波のなかの波のように存在している」。動物は、ほかの仲間とほかの個体と一緒に融けて存在している、ということを言っています。 ◯以下のところも「匿名性のわれ」について語っているところなのでしょうか。作品中の025の「MとTの対話」のところで「人間に共通点に共通点なんてないし、それどころか「人間」と呼べるものすら本当にいないんだ。文明化された「人間」なんてものは約束ごとに過ぎないよ。(略)本当に僕らには二足歩行する仲間くらいの共通点しかなくて、一枚仮面を剥げば、蝶のさなぎの中みたいにドロドロ渾沌なんだ。」(25番、43頁) あまり意識していなかったんですが、そこの箇所も動物の世界と変わらないということかもしれないですね。誰もが人間だっていう前提のもとに生きているけれども実は動物との距離は大差ないかもしれない。他の人を理解できないという点では、そういうところもあるのかなあ、という気がしたり。 ◯「救いはない、救いの可能性は無数にある」(フランツ・カフカ)という言葉が一頁の真ん中に置かれてますね。(45頁) つまりもう全てが終わっているんですが、終わっていて無意味な会話がずうっと続いているんだけども、その継続性自体にほのかな希望もあったりするのかなと。 ◯実は全部終わっている、ということをこの現実社会のなかで鳥居さん自身もひしと感じることはあるのですか?それとも哲学的な考察のなかでそう思うっていうことですか。 個人的な体質もあるかもしれません。それと、すべてが終わっているとは思わないんですけど、やっぱり今の世の中の状況をみても相当どこへ向かってしまうんだろうという、いまは第二次世界大戦前の雰囲気とよく似ているよねと言われてますが、そのことに対するどうしようもなさというのはやっぱりあるかもしれません。希望はまったくないとは思ってないんですけど。 ◯明るい希望のある社会なんていうのは出てこないんですね。 う~ん。例えばカフカは、「ぼくたちには希望がもうないね」と友人と話していて「いや希望はある、希望は沢山あるんだけど、ただぼくたちの為にはないんだよ」って(笑)。いまここに存在していない他者がいるとしてその人たちのためには希望があるかもしれないっていうニュアンスの言葉なんですけど、なにかそういう希望がある場所への想像力というか、もしかしらこの詩を書くことにそういうものを求めていたかもしれないですね。 ◯「現実がぶっ壊れてしまった。世界は爆発して、ぐにゃぐにゃにひしゃげた鉄骨の骨組みだけだ。世界の裏側が露呈されてしまった。」(53番、84頁)というところ。ここに野村喜和夫さんの「解説」の末尾に書かれた文章を引用します。まさにこの詩集の世界を掬い取っていると思うんですが。 「全体として、いや全体もなにもない。ただ無限にひらかれているようなフラグメントの宇宙が渦巻いている。しかもそれが奇妙に透明で、「遠さ」においてきわだち、つまり「宇宙に吹きさらされた無意味さ」とも通じてしまっている。」 読者をこの吹きさらされた無意味さに漂わせようとしているのでしょうか。 そうですね、無意味さと共にみずみずしさも。海の浅瀬の波がたぷたぷしているのをずっとカメラで撮っているとか、木々の梢が揺れているのをずっとカメラで撮っているような。 ◯この詩集につけられた数字01、02,03にある文章は世界のひとつの断片ということでもあるのですか。 数字ってひとつひとつは断片なんですけど、匿名的で無限に繋がっていくものですね。映画とかでよく、コンピュータプログラミング言語みたいなのが、大きいスクリーンに映し出されてダアーッと流れていくような場面がありますね。なんかよく分からない記号の羅列のようなものが無限に流れていって、それが実は意味を持っているかもしれないんだけど、多分見る人によって解釈が違ってくる。記号で何かを訴えかけているのかもしれないけど何も言ってないような感じもある。それが匿名的な場所のイメージとしてありました。 ◯それがタイトルに繋がっていくのでしょうか。あるいはそれは別にそのタイトルでなくてもいいのでしょうか。 そうですね。数字ってどんなようにもその人の世界観で解釈できる存在で。 ◯で、あらためて伺うと、この「07.03.15.00」という詩集のタイトルにどういう意味づけをしたのでしょうか? とても興味のあるところです。 一番最後に海のイメージが出てきますね。これと関係があるのでしょうか。 「――こういう、多島海みたいな、すべてが同じ霧の中でゆっくりと流動していくような、そういう記憶をずっと眺めていたい、そういうものを。あるいは暮らしたい。トポスとしてのそういうもの。時間の泉?時間の舟?」(62番、92頁) あれは瀬戸内海のイメージなんですね。多島海に行きたいな、という思いがあって、実は「尾道」という町があるんですけど、そこに行こうということで、このタイトルは「尾道に行こう」という意味なんです。 「07.03」は「尾道」で「15.00」は「行こう」となるんです。 実はこの詩集もある意味多島海のイメージもありました。一個一個の断片が島々で、その島々がたぷたぷとした大きな海のゆったりとした広がりのなかに浮いている。というイメージです。 おおきな時間への憧れ ◯次の詩集に向けてのビジョンは? 今回は書き方をさぐる詩集でもあったと思います。 色々と温めてはいるのですが、まだ発表できるまでには時間がかかりそうです。動機としましては…、個人的な感覚かもしれませんが、とくにこういう都会に住んでいるとリアルタイムしかなくて、大きな時間との途切れちゃう気がして、大きな時間というのは、太古から続いているような、微生物がいて三葉虫がいてだんだん進化して人間が出来て、自分たちの祖先がいてそしていまここに自分がいるっていうそうつながりが、欲しいんです。母方はたとえば北海道の名寄(なよろ)というところに住んでいて熊が隣人だったとかそういう話を聞くと何か大きい時間とのつながりを感じられたりするのですが、人が生きていて動物がいて生活をしていていうそういう時間の堆積としての大きい時間みたいなもの、つながりを確かめたかったかもしれない。大きいものに規定される存在として自分がある、そういうのがいいなあ。始めて瀬戸内海をみたときになにかそこに神話的な、ギリシャのエーゲ海も貝殻からヴィーナスが生まれるような、そういう太古の時間に想像力が向かわせられるような空気が流れていたんですよね。海からちょうど今陸があがってきましたっていうような。そういう多島海のイメージと大きい時間の流れが関わっているかもしれません。 震災の時は、すごく無力さを感じました。文学の言葉って何の役にも立たない、現実に対して何の作用もできないなあって。 それは別にしても現代は、やっぱりどうしても文学的な言葉が先細りしていると感じてしまいます。 ◯痩せてきているっていうこと? というより世間で求められていない。世間で求められることはどんどんなくなってきているんだなあって ◯文学の役割が狭められているっていうことですか? う~ん、もちろん文学を読む人がいてそれを書く人がいるかぎり文学は死なないと思います。個人に大きな影響を及ぼすということもあるという意味で強い力があるとは思うのですが、全体として見たときに文学に接する人っていうのはやっぱりどんどん減っていくんだろうなあっていう感じがあります。語弊があるかもしれませんが、いま思うのはフェイスブックやツイッターに較べて文学に飛び抜けた価値はない、そこでの写真と日記や投稿などの言葉と較べて、文学の言葉を特権視する必要はないと思うんです、権威をもったものとして。フェイスブックとかで身近な友だちの投稿とか全然無名な人の言葉とか面白いものもありますし、今はカメラ技術も優れてますから素人でも素敵な写真が撮れますし。そういう写真やその人たちが日ごろ感じている何気ない一言なんか、おろそかにできない、心に響いてくることがあります。フェイスブックとかは生身の人間とリンクされていてそこに強さがある。現実に生きている人の声が聞けて会おうと思えば会いに行ける。ネットという環境もある意味匿名的な場所かもしれません。ネットって身体と離れたところで自分のイメージを構成できちゃうじゃないですか。フィクションとして。ネットをよく使う人は自分のリアルな身体があるとして、それとは別にネットの中の身体を持っている、と思うんです。面白さとコワイ部分があると思うんですけど、そういうスリリングさって人を引きつけるものだと思うのです。 ◯そうですね、いまは自己表現の場が多用になってきていますね。言葉があふれ情報があふれ、さまざまな表現のツールがあってどれを選択して他者とつながっていくか。選択肢がたくさんあって目がまわりそうなほど。 それが良いとか悪いとかではなくそういう状況で生きているということを強く思います。 今日は長い時間にわたり、有り難うございました。 鳥居万由実という表現者が今後どう発展していくかとても楽しみです。 目が離せないですね。 鳥居万由実(とりい・まゆみ) 1980年生まれ。現在学生に戻って色々迷い、もとい考え中。 第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂刊) (2015年12月18日 於ふらんす堂 聞き手・yamaoka kimiko 写真・yokoo ayaki)
by fragie777
| 2016-02-06 18:13
| インタビュー
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