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12月19日(土) 旧暦11月9日
今日は昼間は大事な用事があって出かけ、夜は久しぶりにすき焼きを囲んだ。 そしていま、わたしは仕事場に来て仕事をし、こうしてブログを書きはじめた。 すき焼きの味はもうすでに遠くの山の向こうに消え失せてしまい、土曜の夜をひとりキイボードの音をさみしく聞きながら指をはしらせている。 午前中の出かける前に爪を切ったのだが、深爪をしてしまったらしくキイボードを打つたびに右手の中指の先がイタい。 まっ、いいや、先を急ごう。 新刊紹介をしたい。 益岡茱萸句集『汽水』(きすい)。 真っ白な本である。美しい仕上がりとなった。 著者の益岡茱萸(ますおか・ぐみ)さんは、1957年8月生れ。専業はコピーライターである。略歴によればフリーランスのコピーライター・ディレクター・プロデューサーとして、主にラジオCM・TVCMの規格演出を手がける。とある。ご本人は恥じらいのある方ではっきりとおっしゃらないがコピーライターとして賞を何度も受賞され審査員をされるほどの業界では有名な方らしい。ふらんす堂にも何度も足を運んでくださり、とびきりの美人であられるがあまりにも気取らないさっぱりした方なのでそんなに有名な方ともつゆ知らなかったyamaokaである。俳句歴は2003年に「玉藻」主宰の星野高士氏の指導の句会「風の会」に参加してよりの出発。その後2011年に日本橋倶楽部「日本橋句会」に参加され、現在「玉藻」の同人。本句集には星野髙士氏と広告業界のご友人でかつ俳句のお仲間の檀太郎氏と中島信也氏が栞文を寄せている。 白魚の汽水を恋うて囚はるる 句集名となった一句である。著者にはこの「汽水」という言葉には拘りがあって「あとがき」で次のように書く。 「汽水」という言葉を覚えたのは、多分子どもの頃だったと思う。淡水と海水が交じりあう場所に、なぜか神秘的なものを感じ、魚の王国の国境を思い浮かべた。好きな言葉は、ずっと心の中に在って、今回の句集名とさせていただいた。 本句集は全体を三つに分けてそれぞれに四季を配している。句の置き方、並べ方など当初からきっちりとこだわりをみせた益岡茱萸さんだった。 青簾下ろしてしんと昼の底 おでん煮る空間にあるまろきもの 奈良までは夏服ふたつ傘ひとつ 囀にある金の色銀の色 阿と吽の間(あはひ)を抜けし春埃 もともと「風の会」は広告関係の方々が多く彼女もその業界では何度も賞を受賞する優秀なクリエイターだったのだが、私はそんな背景を聞き俳句の面白さ、奥深さを語り合い乍ら、更に中味の濃い俳句仲間になっていったのだった。 感性と知性が共存してゆくのは大変に難しいことなのであるが、茱萸さんは句会をする度に新しい感性と知性を作品として見せてくれるので座を共にするのが楽しみなのである。 星野高士氏の栞より紹介した。タイトルは「風の中で」。 エッセイストでCMプロデューサーの檀太郎氏の栞のタイトルは「汽水域の人」。 春雷や唇ピアスも空仰ぐ フクシマもカタカナにして原爆忌 黒板を見ずに見てゐる冬の山 茱萸さんの初句集『汽水』には、茱萸さんの情念が込められている。汽水とは、淡水と海水が交わる水。塩水でもなく真水でもない、極めてファジーなる水。この水域を求め、多くの動植物が棲み着いたり餌を啄みに訪れる。そう考えながら、はたと気がついた。茱萸さんの俳句は、伝統俳句であり現代俳句でもあることに……。 そしてやはり広告業界で活躍するCMディレクターの中島信也氏の栞文は関西ことばでつづる味わいのあるものだ。タイトルは「やはらかきナイフ2」。 立子忌やあのやはらかきナイフ欲し よう考えてみると、茱萸さんの本職の、ラジオCM作家としての作品はそれはそれは文学的で、なかなかかもしだすことができへん品性にあふれてる。音声だけでそこに描かれている空間は美しく、他の追随を許さない世界を作ってます。そうか、あの作品を生み出す原動力は茱萸さんの知性やってんな、と読まれへん漢字を前に立ちすくみつつ納得してますねん。 そやからこの句集の中で好きなん選んでええ言われたら、とにかく国語挫折したぼくんとこにすぅーっと入ってくださるものになります。(略)ナイフが要る。やはらかきナイフが要る。ぼくを遥か高校時代の挫折へといざなうのは、茱萸さんが既に手にしているナイフの仕業やったんです。 さみしさを飼ひならしつつ暖かし コンソメの底でゆれてるはるひかり いぬふぐり肩の力を抜けばいい 霧の中大人の位置を忘れけり 十六夜や曖昧なるを尊びて やや寒や性内気にて場慣れせず 雪だるま子どもは知らぬ夜の顔 上座など知らぬことよと梅の花 枇杷の種捨つるに惜しき光あり スカーフを結びほどいて秋さみし 水澄んで又平凡をよしとする つぶ貝のみづみづしさや春を待つ 春時雨そは甘えたき言葉なり 花衣またひとつ買ひ足るを知らず 青嵐や己の心すら見えず 挨拶の度に畳めり秋日傘 一本は日向に曲がる糸瓜かな (子規庵) 肩掛けに守られてゐる弱気かな 嚔する座右の銘も無き女 初旅の弁当小さき夫婦かな 初雪や繋ぎたき手のそこに在る 益岡茱萸さんは、コピーライターとして言葉を武器として広告業界を生き抜いてきた方だ。コピーは俳句とはちがう。どんなにすぐれたコピーであってもそれは営業戦略のひとつの武器としての言葉であり商品へかしづくものである。しかし俳句はちがう。わたしは益岡茱萸さんの俳句を読んでいて、資本主義の厳しい現実に生きる人間が俳句という定型に武装解除をしてゆったりとくつろいでいる心持ちを感じるのだ。季語に心をあずけニュートラルになった自身を存分にくつろがせているような、だから本心がふっと見える。強気に仕事の現場で頑張って、俳句でふっと弱さを見せる。しかし、益岡さんには言葉をもちいて戦う社会があり、そことの緊張関係はつねにある。俳句とコピーのことば、その二つを生きている、だから「汽水」なんだろうとも。 「あとがき」で著者もまたこのように書く。 広告の言葉と、俳句の言葉。今いる場所が汽水域だとすれば、これから、川を離れて広い海に向かうのか、それとも海から戻り源流へと遡るのか、どちらなのだろうと、ふと想像しながら。 広告業界の先輩にお誘いいただき、句会「風の会」に参加したのが、平成十五年の暮れ。その夜の句が、「白障子ビルに翳りて褪せもせず」。その後、「日本橋句会」にも参加させていただいた。現場で出される兼題に、指定の文字を組み合わせて、一時間余で五句を詠む。「板」という文字が与えられなければ、「黒板を見ずに見てゐる冬の山」という句は、生まれなかった。「嘘ついた舌で転がす山椒の実」は、「風の会」の故木村恭子さんに、とても褒めていただいた。ページを繰れば、三百十三句のそれぞれに、忘れられない想い出がある。至らない点も多々あるが、汽水を出て、また次へ向かおうと思う。 「あとがき」の言葉より紹介した。 沢蟹を恐れつつ噛む男かな 筍を清げに咀嚼する男 嘘ついた舌で転がす山椒の実 口論の後の鱈鍋味気なく 本句集には食べ物の句がかなり詠まれている。食べることを大切にし、食を通しての人間関係を大事にしている方と見た。食べることをとおして豊かな人間関係を育んで来た方なんだろう。 この句集の装丁は和兎さん。 益岡茱萸さんのたつてのご希望による。 「白い美しい本を」というのが益岡さんのご希望。 清潔な白が似合う方でもある。 泊押し。 白の気品に満ちて。この美しさは実際に手にとってもらわないと分からないと思う。 霜柱立ち上がりたき想ひかな 足元に煌めく霜柱。それを見つめる著者。立ち上がりたき想いを霜柱に投影させながら著者の切実ななにかが伝わってくる。 立ち止まってしまった一句だ。 もう真夜中になりつつある。 ブログを書いているときにスタッフのPさんが立ち寄った。 今日は夕方から出版のお祝いの会に呼ばれていてそこに出席した帰りだった。 お祝いの会は、11月にふらんす堂より詩集『九月十九日』を上梓された森水陽一郎さんのお招きによるものである。帯のことばを寄せられた詩人の河津聖恵さん、装画を提供された玉川麻衣さんもいらっしゃって楽しいひとときであったようだ。 そのことはまた改めてご紹介したいと思う。
by fragie777
| 2015-12-19 00:12
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