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10月13日(火) 菊花開(きっかひらく) 旧暦9月1日
今日はこれからお客さまが見えるのでブログをはやく書いてしまおう。 山口百恵の歌うイミテーションゴールドという歌が好きなのだが、そして歌詞を全部おぼえていたはずなのだが、どういうわけか今朝それを思い出せない。 ♪西日のあたる部屋の片隅♪ だったけかな、あれっ、 ♪彼が窓辺ではなしかけるわ♪ が一番だったけ?あとどうつづくんだったかしらん? ♪彼が冷蔵庫パタンと閉じる♪ だっけ、ああ、その後出て来ない、う~んと、♪ わたしは軽い目眩を感じ♪だっけ、といった感じで今朝からずっとイミテーションゴールドをなんども口ずさんでは行き詰まっている。 なんでイミテーションゴールドかっていうと先日のクラス会で二次会はカラオケに行って、それは好きな人たちは大いに歌ったのであるが、わたしは声をうしなったカナリアのごとくただひたすら聞いていた。歌えといわれるとツライがそんな野暮なことをいう友人たちではないので、彼らの歌う歌はほとんど知っているので聞くだけで充分楽しかったが、しかし、わたしはこういうときにせめて百恵ちゃんの「イミテーションゴールド」や「プレイバック part2」などをかっこよく歌えたらなあって思う。 でもね、ここだけの話だけど、ひどい音痴なの。ミの音を出したくても出せないのよ。 で、今朝はせめて誰もいない時に猫たちだけに聞かせようとおもって「イミテーションゴールド」を歌いだそうとしたら、はた歌詞が出てこずに焦ったというわけ。 まさかイミテーションゴールドを忘れるなんて、わたしはどんどん精神の青春性を失いつつあるんだろうか、いいや、単なる物忘れが激しくなっているだけって、それもおおいにツライ。 8日付の京都新聞に南うみをさんが、井上綾子句集『綾子』を紹介してくださった。 『綾子』(ふらんす堂)は井上綾子の第一句集で、平成十三年から二十六年までの句をおさめる。カルチャー教室を経て、平成十三年「運河」に入会、茨木和生に師事し現在に至る。 田遊びの牛に耳打ちして行けり 国誉めの祝詞短く穂懸かな 綾子(あやっこ)の朱色に汗の光かな すれすれに来る鵜篝に身を反らす 下駄鳴らす一揆の唄の踊かな ぬいぐるみの「牛に耳打ち」に「田遊び」神事芸能のリアルさが、また、「祝詞短く」に「穂懸け」神事の素朴さが伝わる。「綾子」は作者の名ではなく、宮参りの魔除け呪いのこと。「鵜篝(うかがり)」の炎をすれすれに躱し、「下駄鳴らす」唄に「一揆」の当時が想い起こされる。神事や行事のいずれも人物の声や動きまで想像させ、手触りのある世界を見せる。 袋菓子食べちらかせる鹿火屋かな 松茸の汚れ前掛にて拭ふ 数へ上げたり涅槃図の爬虫類 懸葵以外は造花賀茂祭 生牡蠣をよもつへぐひのごと厭ふ 「袋菓子」が「鹿火屋守(かびやもり)の暮らしの一端を、「前掛」が松茸の汚れを拭くぞんざいさに山暮らしのリアルさを見せる。「涅槃図の爬虫類」にまた賀茂祭行列の「造花」にこだわる、真摯な眼が捉えた世界に納得する。「よもつへぐひ」は黄泉の国の竈で煮炊きしたものを食べること。「生牡蠣」嫌いを見事に露わにする。作者の真っ直ぐな眼と心が作る世界である。昭和十四年生まれ。大和郡山市在住。 「週刊俳句 Haiku Weekly」の5日「月曜日の一句」では、相子智恵さんが、椎野順子句集『間夜』より一句鑑賞している。 月の夜の降りくるものを待つ海底 椎野順子 光を降らせ続ける月と、降ってくるものをひたすら待ち続ける海底。月光が届く浅瀬にも海底はあるが、私はこの句に深海を、光が届かない暗闇の世界を想像した。〈降りくるもの〉を静かに、けれども焦がれて待つ海底とは、魚や海藻で賑やかな浅瀬の海底ではなく、わずかな生物しか住むことのできない、深く静かな、淋しくも安らかな深海の海底ではないかと思うのだ。 月が降らせ続けても、海底が待ち続けても、月と海底とが光によって結ばれることは永久にないのだろう。けれども、海底には上から何かが降ってくる。砂粒かもしれないし、死んだ魚の欠片かもしれない。その〈降りくるもの〉は、光を知っているかもしれない。海底はそれを待ち続ける。海底が知らない光の物語を。 月から始まり海底で終わる語順によって、読者の心は無理なく上空から海底へ、明から暗へと誘われる。静かに何かを恋う気持ちが湧いてくる。雪・月・花という季語に含まれる「君を憶ふ」という心も、ここに思われてくる。 おなじく「週刊俳句 Haiku Weekly」の7日の『水曜日一句」は、関悦史さんが、石田郷子句集『草の王』より一句紹介している。 蛾を食べて小玉鼠も冬ごもり 石田郷子 「小玉鼠」は妖怪の名でもあるようで、検索するとそちらばかり出てくるのだが、ヤマネの別名らしい。蛾は実際に食べるという。 実在の生物と確定できる「ヤマネ」ではなく、妖怪とも動物ともつかない「小玉鼠」という呼び方(「むじな」のようだ)をしていることで一句は共同幻想の領域をも含み込む。 妖怪としての「小玉鼠」は、山中で人に出会うと体を破裂させ、山からの警告としてマタギたちのおそれの対象となったという(この辺全部ウィキペディア情報なのだが、一応出典は明記されている)。 つまり山の霊威を背負っているわけだが、見た目は小さく可憐な齧歯類である。冬ごもりに入るとなればなおさらだ。「ヤマネ」と呼ぶにせよ「小玉鼠」と呼ぶにせよ、「小玉鼠も冬ごもり」の中七下五は、自然のうちの慕わしく快適な面しか見せておらず、ほとんどぬいぐるみに近い。 「蛾を食べて」といういささかぎょっとする出だしが、それに実在感と生命感を与える。同じ作者の知られた句《春の山たたいてここへ坐れよと》《掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ》の「たたいて」「掌をあてて」と同じような機能を「蛾を食べて」が果たしているのである。 この句は、いま現在「蛾を食べて」いるという形では書かれていない。蛾はすでに胃の腑におさまり、小玉鼠は冬眠に入ろうとしている。見た目はかわいいかもしれないが、冬眠は動物にとってそれなりに過酷な時間だろう。長い眠りの中で、蛾は次第に消化されてゆき、その生命は小玉鼠へと溶融し、移っていく。そうした生命の受け渡しを、小玉鼠に見入ることで語り手も追体験している。 しかし「たた」くにせよ「掌をあて」るにせよ、いずれも強い共感を示しつつ、かえって接触面を際立たせ、語り手が山や木の外側にいることをあきらかにしてしまう動作である。この語り手の強固な等身大性が、生命主義という一般論性への没入の歯止めになっているともいえる。 「蛾を食べ」た「小玉鼠」への寄り添い方もそれに近いといえば近い。しかし語り手の姿や動作が少なくとも表面上は消えている分、小玉鼠の充足感が底光りしてくるようだ。 山口百恵の歌でいえば、「いい日旅立ち」とか「秋桜」という歌はわたしは好きではない。 やはり阿木燿子さんの作詞したものが断然いい。 山口百恵が三白眼の眼で、けだるくややはすっぱに歌うと、う~ん、グッときちゃう。 イミテーションゴールド、 絶対思い出すんだ。
by fragie777
| 2015-10-13 18:14
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Comments(2)
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Daxiongmao
at 2015-10-14 12:43
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yamaokaさまが 音痴だなんて...ご謙遜?
今度、李香蘭(古い!?)の中国語の歌でも お教えいたしましょう。 yamaokaさんのお声に合うと思いますので。 今、ランチ時間。朝刊を読んでいたら、 天声人語に深見けん二先生のお名前を見つけ、 嬉しくなりました。
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fragie777 at 2015-10-14 14:29
玲玲さま
「天声人語」! 気づきませんでした。 ありがとうございます。 いま深見先生にお電話しましたら、先生はご存じでした。 わたしは家に帰ってから読みましょう。 歌は猫前では歌うけれど、人前ではけっして歌わないことにしております。 (yaomaoka)
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