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9月11日(金) 二百二十日 旧暦7月29日
もうすっかり秋の空だ。 仕事場に行って、すぐにスタッフの文己さんに、 「お家、大丈夫だった?」と聞いたところ、 「ええ、大丈夫でした。水は玄関までで止まりました」ということ。 「わたし、昨日のブログで床上浸水って書いてしまったけど」と言うと、 「玄関ちょこっと浸水でした」とにっこり。 しかし、給食室に樹木が倒れ込んだ小学校は、文己さんの通った小学校であるということだった。 新刊紹介をしたい。 杉山久子句集『泉』(いずみ)』。 著者の杉山久子(すぎやま・ひさこ)さんは、1966年山口県生れの山口市在住。1989年に作句を開始し、俳誌「星」を経て、現在は「藍生」「いつき組」「ku+」所属。1997年第3回藍生新人賞受賞、1997年第2回芝不器男俳句新人賞受賞、2013年度山口県芸術文化振興奨励賞を受賞されている。本句集は『春の柩』、句集『鳥と歩く』に次ぐ第3句集である。10年間の作品を収録した。 告げぬこと多し真昼の薔薇に雨 日輪や切れてはげしき蜥蜴の尾 日盛や足音のしてもうはるか くちなはのくびすぢ浄き鞍馬かな 夏風邪や鶏冠ざらりと起ちあがり 国歌斉唱浮人形のぬれどほし 枇杷の種吐く一日を生きのびて ⅠからⅧまでに分けられた本文よりⅠに収められた作品をいくつか拾ってみたが、天性の俳句の上手さがある人だと思う。俳句のなかに、時間の流れを呼び込むのが上手いとでも言おうか。一句における切れが深く、そこからしなやかでのびのある世界が立上がってくる。 読んでいくとつくづくと魅了されてしまう。 本句集はそんな杉山久子さんの魅力があますことなく発揮されたものだ。 作品を紹介しようと思えば、つぎつぎと紹介したくなるのだが、いくつかにとどめたい。 綿虫の一匹を希望と名付け 風花や恋も死も映画の中に わが杖となる木に雪の記憶あり 永眠も不眠もあはれ鳥雲に 吊られゐて潜水服の中おぼろ にはとりもにはとり肉も春の昼 雨粒を背負ひて蟻の立ちあがり 夏帽子たれのものでもなくなりぬ 小鳥来る旅の荷は日にあたゝまり 露の世にたふれふすともハイヒール 真白な秋思の皿をひきよする さゝやかな十一月の力瘤 菫咲く連弾のさみしさに似て 背鰭あるものが過ぎゆくシクラメン わが血継ぐものなししやぼん玉吹かな 豌豆の筋取る明日も生きるはず 捨てられしバナナの皮と本の帯 視点が自在でどんな角度からも俳句にしてみせる。季語の据え方も無理がない。 「露の世にたふれふすともハイヒール」には女の心意気があっていい。わたしにはこれほどの意気地はないけれど。「捨てられしバナナの皮と本の帯」には笑った。叙情性の強い作品の多いなかでこういう句も詠めるというところが杉山さんの力だ。 俳句を作っているから気づくことがあります。別に気づかなくても生きていけるし、どうでもいいことも、いや、むしろどうでもいいことの方が多いのかもしれませんが、そんなことに気づきながら生きてゆくことは、私に喜びをもたらしてくれます その「どうでもいいこと」に立ち止まりそれを見事に俳句にしてみせてくれるのが杉山久子さんである。 死へむかふ火蛾るいるいと降りつもり 緑陰にきしむあはれをパイプ椅子 退屈な蠅取りリボンの奥に海 提灯をたゝむ蟬しぐれをたゝむ りつしんべんさびしオクラの蔕を取る 消費税率あがるらし餅のばし喰ふ うたゝねの手袋の指組まれあり よき人の影のあふるゝ春障子 三月の羊をさとす男かな どんなに心許ないかすかな泉であってもそこに目を凝らし耳を澄ませる、そんな日々でありたいとも思っております。 「あとがき」にあるように「目を凝らし耳を澄ませる」ことから生まれてきた句集『泉』である。 和兎さんが用意したラフイメージのなかで、杉山さんは、草木を咥えた鹿の図版を選んだ。 生きてゐる冬の泉を聴くために どこかに淋しさを秘めている句集『泉』だが、この句はどうだろう。 ひたむきな強さと厳しさを感じさせる一句だ。 「生きてゐる」という言葉が腹の底にひびいてくる。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、石田郷子句集『草の王』より。 大風や金魚もつともひるがへり 石田郷子 美しい大きな金魚だろう。水槽のガラスの向こうで、みごとな鰭や脇腹を翻しては方向転換を繰り返している。外界に風が吹こうが吹くまいが、かかわりのない金魚の行動だが、まるで大空を吹く風に翻るかのよう。句集『草の王」から。
by fragie777
| 2015-09-11 19:07
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