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7月28日(火) 土潤辱暑(つちうるおうてむしあつし) 旧暦6月13日
新年の季語である。「新葉が開いてから古い葉が落ちるのでこの名を得た」と歳時記にある。 お財布の入った鞄をどこかに置いてきてしまった。 蒼くなって捜しに行くと、思いもかけないところに見つかったのであるが、お財布のお金は抜き取られカードもすべてなくなっていた。わたしはさらに蒼くなって震える声でまずは銀行にカード支払いをストップするように電話をかけたが、電話に出た女性がまるでトンチンカンなのだ。 「ああ、どうしよう。会社のお金が使われてしまう」と叫びそうになって、目が覚めた。 ああ、夢だったのか。。。。。。 ふと気づくとわたしはガッシと歯を食いしばっていたのだった。 これよ、 わたしの歯痛の原因は。。。。 どうもわたしはこんな風にさまざまなストレスを背負って、賢明に歯を食いしばって寝ているらしいのだ。 本当に哀れで可哀想なyamaokaである。 死後20年を経て刊行された『野澤節子全句集』についてもうすこし紹介をしておきたい。 この全句集の魅力は、節子の既刊句集がすべて読めることのみならず、鮮烈な俳壇デビューを果たした句集『未明音』を読めることも大きい。その定本『未明音』に寄せた山本健吉の文章は野澤節子という俳人の本来的にもっていた詩質を見事に掬いあげたものだとわたしは思う。 野澤さんの句の特色は、一言で言ひよいやうで、言ひにくい。私は現代俳句を読んでゐて、ただ作者の趣味の如何を知らされるやうな俳句には、ほとほと飽きてゐる。一人々々の趣味嗜好とおつきあひしなければならないほど、私は物好きでも閑人でもないのである。だが、私が野澤さんの句から受取るものは、趣味嗜好ではなく、いのちの志すところである。感覚的にも実に鋭くて新鮮であるが、それは単に末梢の感覚の鋭さではなく、結局はそのいのち、同時に野性であり、対象にきりりと噛みつく女の糸切歯のなまなましさを具へた、猛獣のやうな原初のいのちの志向である。 節子は病身として俳句の出発を果たしたわけであるが、そしてそのことは野澤節子という俳人を大きく決定づけたかもしれないが、この一文は作者が病身であろうともなかろうとも本来的にもっている作者の美質に迫っている。そしてやがて人工に膾炙することになる句をいくつもあげてそのたぐいまれなる才華を証明している。 枯野中行けるわが紅(こう)のみうごく 音(ね)短かに一度々々の鉦叩 深秋のおのが吐息と雲ありぬ 曼珠沙華忘れゐるとも野に赤し 刃を入るる隙なく林檎紅潮す 夏蝶や布裁ち糸巻くこと切に 善悪はや虫音一途にかき消され 天地(あめつち)の息合ひて激し雪降らす 哄ひゐるこころの底のきりぎりす けもの来て何噛みくだく夜の落葉 小春日や生毛(うぶげ)まみれの虻とあり 枯れし萱枯れし萱へと猫没す はこべらに物干す影の吹かれ飛び 桜五弁はも指頭はも血色さす いちはやき秋風男の眉めだつ 耳鼻科の灯路上に歴矣(くき)と冬の石 朝はたれもしづかなこゑに寒卵 春灯にひとりの奈落ありて坐す 春暁の雨淡泊にこぼれ止む 散り果てて梅なほ白き翳に充つ 長く病床にあつた野澤さんが、このやうな強靱な自然凝視、自己凝視をひとり黙々と積み重ねて来られたといふことは、驚異に価する。すでに健康を回復された野澤さんには、さらに新しい視野の拡りが期待されるが、私はこの『未明音』の一巻は、一見矛盾するやうだが、その清純なたけだけしさ、野性あふるる繊細さによつて、長く伝ふるに足る一人の女性の生のあかしだと思へるのである。 まさに句集『未明音』は、「清純なたけだけしさ、野性あふるる繊細さ」によって世に登場したのである。この度の全句集の刊行はこの『未明音』の息吹とその輝きにふれることがふたたび出来ることも大きな意味をもつ。 『未明音』以後もすぐれた句集を刊行し、讀賣文学賞、蛇笏賞など次々と受賞し押しも押されぬ俳人となった野澤節子であるが、やはり原点は『未明音』だとわたしは思う。『全句集』すべてを読み通せなくてもこの『未明音』を繰り返し読むことは、野澤節子という俳人の核にふれることができるのではないか。 処女句集にはその作家のすべてがあり、誰も処女句集を超えることはできない、と言われることがあるが、わたしは野澤節子にはそのことが当てはまるように思えるのだ。 野澤節子の特質のひとつに、俳句への開眼が芭蕉七部集を読破したことによる、ということもある。そのときのことを節子は文章に残しているので一部省略して紹介したい。 私と俳句との出合いは病中である。一人の読者として芭蕉の七部集を手にしたことは、浦野芳雄著『ブルーノ・タウトの回想』という随想集の中で、この優れた世界的な建築家が東洋の芸術の粋として『芭蕉七部集』を絶賛していたことによる。まったく俳句や連句の予備知識もなくて、いきなり『七部集』にとりついたときの戸惑いは、いま思い出しても微笑ましい。そのときは、芭蕉の句の佳さはほとんど分からなかった。むしろ、私の好きであったのは凡兆の句で、 時雨るるや黒木つむ屋の窓あかり 凡兆 ながながと川一筋や雪の原 〃 鷲の巣の樟の枯枝に日は入りぬ 〃 といった印象鮮明、気合いの充実した凜々しい大柄な句に惹かれた。去来の 秋風やしら木の弓に弦はらん 去来 などの気概も、少女期から病床にあった私の鬱々として解放しきれぬ孤独感を高揚させてくれるに充分であった。私がまず俳句に惹かれた一つは、この十七音の短い詩型にこめられた精神の凜々たる気魄であったといえる。 節子は「芭蕉にはむしろ連句の中の作品に惹かれた」と記し、連句の作品を列挙し、 この気どりのない町人気質のおもしろさなど、その作品と同時に、一座に集う連衆との連帯感の温みのようなものが、芭蕉の人間像として先ず私をとらえていったことになる。その上であらためて芭蕉の俳句の、 病鴈のよさむに落て旅ね哉 芭蕉 此秋は何で年よる雲に鳥 〃 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 〃 是らを見直し、心にしっかと憶えることが出来るようになった。いま改めてこれらの作品を見ると、やはり長病んでいた一人の人間の心に共感を覚え、その孤独感に訴えてくるに充分な芭蕉という作家の孤影が浮かび上がってくる。 「俳句研究」(昭和59年9月号)に「わが来し方」と題して寄せられた文章の前半の一部を紹介した。野澤節子という女性俳人の出発が孤独に根ざした文学的出発であったということがよくわかる文章である。それはこの時代のほかの女性俳人とおおきく異なるところであり、野澤節子を野澤節子たらしめるものだ。 昭和十六年にふと手にした「芭蕉七部集」がいたく節子の心をゆさぶったのである。「芭蕉の求心的情熱に心ひかる」と節子はかいているが、病を得て八年、宗教に救いを求め得ず、俳句に自分の生きる道を見出したというのも、又神の啓示であったかも知れないのである。節子の句の格調の正しさもそうした基礎の上にきずかれたものであって、二十歳前後の若い女性が「芭蕉七部集」に心を打たれ、それを味読したという事実は、節子の詩人的素質のゆたかさを証明するものであると思う。 この一文は、桂信子が句集『雪しろ』に寄せた解説の一部である。 同時代を生きた桂信子と野澤節子。 かつて東に野澤節子、西に桂信子あり、と言われた二人の女性俳人の全句集の刊行が叶ったことがわたしには何よりも嬉しい。 この『野澤節子全句集』の装幀は君嶋真理子さん。 『桂信子全句集』もまた君嶋さんの装幀だった。 桂先生の本はできるだけモダンさをこころがけてもらった。野澤先生の本は日本的な優美さに。 やはり装幀はその人となりについてを一番思う。 野澤節子先生はいつお目にかかっても美しい和服姿であった。それも柔らかな友禅のあるいは紅型の華やかな極みのものをお召しになっていた。紬や絣を召された姿は一度も見たことがない。 君嶋さんにお願いして出来上がったものがこちらである。 「野澤先生、とうとう全句集の刊行がかないましたね」とわたしはこころの中で申し上げた。 松浦加古主宰をはじめ「蘭」の方々のご努力を野澤先生は心から喜んでおられると思う。 この本の出来上がりも、「まあ、きれいだわ」っておっしゃって下さっていると思う。きっと…… ほかに『未明音』より。 荒涼たる星を見守る息白く われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず 黄塵に息浅くして魚のごとし 指輪なき指を浸せり夏の水 秋風が眼(まなこ)ふかくに来て吹けり 信ずればマルメロも掌に重き実や 袷愛す終生病む身つつむとも 善きことのみ告げられ万緑を訪はるる身 夜の蝉とび来てあたる男の胸 白桃を剥くうしろより日暮れきぬ 初蝉仰ぐ恋しきものへ寄るごとく 蕗の薹ひらき若き日何をか急(せ) く 蛇を見て光りし眼もちあるく 蝉高音飲食(おんじき)に手はよごれそむ 読み返せば読み返すたびに新鮮な句に出会える『未明音』である。
by fragie777
| 2015-07-28 20:02
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