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5月8日(金) 旧暦3月20日
島国で生きる長閑さというものをこの城壁をみて改めて認識したのだった。 さて、今日も新刊紹介をしたい。 村上鞆彦句集『遅日の岸』(ちじつのきし。 著者の村上鞆彦(むらかみ・ともひこ)さんは、昭和54年(1979)年大分県宇佐市生まれ。1998年に「南風」に入会、鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事、2006年「南風賞」受賞、現在は「南風」編集長、そして津川絵理子さんとともに「南風」主宰である。「あとがき」によると、中学生のころより俳句を始めその後ずっと俳句を続けて来たとある。年齢は35歳と大変若いが句歴は20年に及び若いとはいえ、俳人として充分に熟成した自選第一句集である。 わたしはこの魅力ある句集をどう紹介しようかとしばし悩んだ。 若さのまぶしさもある、が、それ以上に落ち着いた静かな目線とたじろがない姿勢、そしてなによりも俳句という詩型を信頼する思いがこの句集には充ち満ちているのだ。 好きな句は数え切れないほどあるが、わたしはいくつかのキイワードでこの句集を紹介したいと思う。 まず、「手」である。手を詠んだ句の多いことに気づかされた。 ポケットのなかに握る手鳥渡る コート払ふ手の肌色の動きけり 裸木の貨車の響きに手を置けり 蟻ひとつ昼餉のあとの手に這はす 五月病草の匂ひの手を洗ふ 真清水にたくさんの手の記憶あり うしろより手が出て恋の歌かるた 後ろ手に良夜の芒提げてゆく 夕蟬や水より抜きし手のしづく 手相見のマスクの声のわが未来 じやんけんに負けし手が泣く空つ風 手の冷えて色なき海を見てゐたり ひらきたる手のどんぐりに風吹けり ここにはさまざまな「手」がある。総じて若き手を感じさせ、この「手」はまるで著者自身であるかのようだ。「手」を通して著者は季節や現実の手触りを感じ、あるいはこの世界に立つことの存在のの不確かさを手の感触で確かめているのかもしれない。力も愛憎も悲しみも不安も怒りもすべて手のものだ。世界と自分をつなぎとめている「手」なのである。 「裸木の貨車の響きに手を置けり」の「の」にも注目したい。この詠み方に一瞬たちどまり、貨車の響きを求めて一句の中を往復する間にああそういうことなのか、とあらためて裸木の手触りが感じるという仕組みがわたしにはとても面白く思えたのだった。シンプルな句に見えるが、視覚と聴覚と触覚とをフル動員させられる一句である。最後は手をとおして感じる裸木の存在感が圧倒的である。 キイワードは他にもたくさんある。全部は紹介したくない。あるいはわたしが気づかないだけでもっともっとあるのかもしれないがもうふたつあげると、「白」「水」。 まず「白」 月光に触れたる息の白さかな 栗の花雲中に日の白熱す 七月逝く夜も白雲の奔放に 冷やかに白波は沖ふりむかず 木犀の香の白壁のつづきけり 海を見にゆく白靴のおろしたて 蝶とまり蝶より白くシャツ乾く あらくさを離れて白し梅雨の蝶 半夏生水にふれつつ白蛾とぶ 鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白 「水」 噴水の力を解く高さかな 鴨撃つて揺るる日輪水にあり 三越の前も祭の水を打つ 鯉病めり雪はひたすら水に消え 乗り出して桜が冷ゆる水の上 水の面に蜂の垂り足触れにけり 真清水にたくさんの手の記憶あり 水音は宙をはしりて初桜 人ごゑに揺れ梅雨明けの水たまり 寒鯉のうしろしざりに水濁す 夕蟬や水より抜きし手のしづく 小鳥来る水にただしき木の容(かたち) 鴨過ぎてまた雪吊をうつす水 水走る音して寒の木賊かな 体内の水よこたへて朝寝かな ふちどれる水はりつめて浮葉かな 半夏生水にふれつつ白蛾とぶ 穂を解きし芒にひろき水面かな 寒月や踏みやぶりたる水たまり 照りわたる水に音なき蓬かな 日向水蝶の大きな影よぎる たくさんの「水」がある。実はもっとあったのだが抜粋した。 村上鞆彦における「水」は大きな意味を持つ、「手」と同様に、いやそれ以上だ。水に反応する身体。 この句集を一読してまず思ったことは、村上鞆彦という俳人は、水を湛えた身体を持つ俳人だと感じだ。小さな深く澄んだ湖とでも言うべきか。その水が外界の水と響き合うのだ。その湖面のさざ波は村上さんの感情であるごときだ。そして水はさまざまなものを映しだす。「日向水」を蝶の影が過ぎるとき、それは村上鞆彦の胸中にある水を蝶の影が同時に過ぎるのである。「体内の水よこたへて朝寝かな」の一句はこの身体の「水」の存在を証明している。 句集『遅日の岸』の豊かな詩情はすべてこの胸奥の「水」より生まれたものだ。 水尾の端遅日の岸に届きけり 句集名ととなった一句であるが、この「遅日の岸」とは著者自らがその体内に湛えている水べりのひそやかな「遅日の岸」でもあるとわたしは思う。 「遅日の岸」の題名は︑収録句〈水尾の端遅日の岸に届きけり〉より採った。この一句にと言うよりは「遅日の岸」の一語に以前より愛着があった。穏やかな春の夕暮れの空、その光を映した水が静かにたゆたう岸辺--。そんな情景を思い描くと、たちまち私の心には深い安息といくらかの憂愁とが生まれ、帰るべきところに帰ってきたような懐かしい気持ちになる。 「あとがき」の言葉である。 惹かれる句がたくさんあるがあえてテーマに絞って紹介した。語り過ぎてはいけない。 本句集の魅力を返って半減させてしまう。 装幀は村上さんのご希望で間村俊一さん。 間村さんご自身が撮られた写真を使って余韻ある出来上がりとなった。そこには力強さもある。さすがの出来上がりだ。 「遠さ」ということも語っている句集であるのだから。 この句集の担当はPさん。 帯の一句はPさんが選んだものであると聞いた。 沖群青外套の胸開けて立つ 青春の気魄に充ちた一句だ。 ふたたび「あとがき」より。 俳句を手放さずに、と書いたが実際は逆で、俳句の方が私に寄り添ってくれていたのに違いない。そういう意味では、この一巻は, 私の感謝を込めた、俳句へのささやかな捧げものである。 瑞々しい俳句への思いに溢れた「あとがき」である。 あをぞらをしづかにながす冬木かな 鞆彦
by fragie777
| 2015-05-08 22:03
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