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4月27日(月) 旧暦3月9日
名栗に咲いていた額卯木。 夏の近いことを感じる。 さすがに疲れたせいか今朝はちょっと朦朧としていた。 ゆっくりと支度をしペットボトルを回収に出して庭の木々が緑を増していくのを眺めて、そうして仕事場に向かったのだった。 およそ一時間ほどの遅刻である。 まっ、許されよ。 昨日の後藤比奈夫先生のお話をもうすこし紹介したい。 「昨日はお疲れになりませんでしたか?」 いやあ、昨日はもう握手握手で200人くらいの人と握手しました。こっちの手(左手)はもう動かなくて両方ともしびれていますからね。左手はヘルペスをやってもう大分よくなってきたんですが、もうどうにも字が書けなくなってしまって……しかし100歳近くまで生きるとは思いませんでした。昨日の会で僕の横に稲畑廣太郎さんが座っておられたんですけどね、廣太郎さんが生まれて四ヶ月か五ヶ月の頃にね、虚子先生が芦屋にいらしたんですよ。(高濱)年尾先生のお宅にね立子先生を連れてね、その時句会があったわけですけれども(稲畑)汀子さんが廣太郎さんを抱いてね秋雨の日で傘をさしてね、虚子先生に廣太郎さんを見せに来られたわけですね。初まみえというか、虚子先生が覗いてわたしも一緒に覗かせてもらって、廣太郎さんのそんな小さな時を知っているのは今日の会ではわたし以外に誰もいないでしょうって言ったら、廣太郎さんがええそうですか!って喜んでおられました。 小さな頃はどんなお子さんだったんですか? わたしは音痴で音楽だけ9点(10点満点の)だったんです。ほかは全部10点なんですが、9点で音痴でも音が好きでリズムが好きなものですから小学校で先生がピアノやオルガンを弾いたりするのを見て家に帰ってオルガンを買ってくれと言ったらオルガンは買えないので母親が大正琴を買ってくれました。だから小学校の時に大正琴を弾いてたんですよ。小さくて割に誰でも弾けるんです。中学に入ったらハーモニカが流行っていたのでハーモニカを吹きました。アルルの女なんて好きな曲だって今日の挨拶で言おうと思って言うのを忘れました。高校のときはクラッシックを良く聴きました。レコードを集めたりしてね。ベートーヴェンが好きだったかな。運動は好きで小学校の頃は100メートル走の代表で甲子園に出たりしました。幅跳びと短距離が得意でした。中学校では庭球(テニス)をやってね、軟式ですがテニス部のキャプテンで試合であちこちの学校に遠征に行きました。勝って帰ったおぼえはあんまりないんだけどね。(笑)。高等学校はボートですね。シックスというずんぐりしたボートの選手になって墨田川とか利根川とか荒川の放水路とかあのへんで全部練習しました。それから軍隊に入って身体を鍛えて、小学校の時は卒業まで持たないと言われたのにだんだん強くなってきて、軍隊の思い出では、水戸の陸軍飛行学校にいたんですよ、ある時夜間行軍があって鉄砲をかついでね、水戸の先から東京まで行くんです、食事もなんにもしないで途中に雨が降ってきてね池袋あたりに着いたんですけど、そん時に水虫になって風邪は引かなかったけれど水虫になってそれがいまだに足の爪にあるんです。 音楽に興味を持ち、スポーツをやりながら弁論部にもいましてね、演説をしたりして若い時は充実した時間を過ごしました。優等生ですからね、何をやってもまあうまいこといって、まあ楽しかったですね。(笑) 「大きな試練のようなものに遭われたことはありますか?」 試練?ないですね。ただ東大に行くのに無理して航空学科を受けたんですがその年に新しくできたんですが、百何十人人以上受けて9人しか採らなかったんです。で、寮で「誰か受けて見るか」って言われてじゃ私が行こうということにして受けてみたのは良かったんですが落ちてしまって、いままで落ちたことなどなかったのでそれは始めての経験でした。それで戦争にとられるといけないからと言うんでどこか二次募集やっているところを見たら大阪大学の数学科が二次募集をやっていて、翌る年は東大をもういっぺん受けて戻ろうと思ってこっち(神戸)に帰ってきたんですけどね、ちょうどその年六甲山が崩れて大水が出たんですよこの辺いったい全部、わたしの住んでいたところの住吉川も水が溢れて家にも押し寄せてきてそれを片付けると再び川が溢れて水や砂が押し寄せてきてその繰り返しで片付いたのはもう年末になってしまって勉強している暇などなかったですね。それで阪大にいようかなと思い、数学科にいたんですけど数学ではメシを食えないから物理学科に変わったんです。その頃阪大の物理は良かったんです。そこで大阪に残ったということが結局俳句をはじめるきっかけになったのです。だから一生というところから見たらまあまあ良かったのかもしれません。東京に行って学校の先生になっていても、まあまあということでしょう。運が向いていたのかもしれません。こういうことはお話したことがないから(笑) わたしが俳句を始めたのは戦後です。父親は俳句ばかりやっていておふくろは「お父さん、俳句ばかりやっていて」と嘆いている。だからわたしは「俳句はせん」と決めていたんですよ。俳句は好きだけどせんと。まあ、親父がいまの「諷詠」のはじめの「花鳥集」というのを出し始めて少しヨタヨタしているので手伝おうかと。しかし俳句をやるためには俳句をやるための会社をつくらにゃいかんということで、それで俳句の為というわけではないけれど、ま、会社を立てて従業員にはここは電気会社だけど俳句会社でもあると言って月給に俳句の部分も入っているから働いてくれよと言って、「諷詠」の発送なども会社でやったんですね。 大分長いことそれが続いて、本を配ったりするのも会社の営業マンがあちこち走ってくれたりしてわたしが句会に出かけたりするときも会社の車のどれかで乗せていってくれたりずいぶん助かりました。 「夜半先生はずいぶん喜ばれたんではないですか」 あの人は傍観しているだけです。ただ静かに俳句を作っているだけです。僕にいろんなことをさせて傍観しているだけなんです。自分で動かないで僕にさせるだけなんです。(笑い) あの人の句集もほとんど僕がいろいろと手伝ってつくり、親父の世話はずいぶんしました(笑)。 「いい息子さんだったんですね。」 そりゃ優等生ですから(笑) 「不良になったことはないんですか?(笑)」 不良になったことはないですね。不良をとりしまる方はしましたけどね。だから堅い人間になってしまって遊びごとは何にも知らない。 「俳句はやわらかいですよね」 親父の俳句がしゃんとした俳句ですから、堅い俳句はやめようと柔らかい俳句で、それとまあすこし物理学的な背景を心のなかに入れてつくろうとはじめのうちはそういうことをやっていました。 「俳句を始めるときはやはり後藤夜半をものすごく意識しておられたのですか?」 ぼくはやっぱり親父の俳句とか阿波野青畝さんの俳句とか日野草城の俳句とか山口誓子のはじめの方の俳句とかね、そういのが俳句をしないうちから好きでしたからね、そういうのが基本に入っていてそこから外れないようにはしてました。ただ親父が僕が始めるときに、人の後を追うたらイカンから自分だけ違うものをつくれ、人と違うものをつくりなさいうことをまず言いました。 「諷詠」という俳誌は最初はタブロイド版だったんですが、それではあまりうまくなく雑誌のかたちにしたんです。でもお金がないから表紙に画家の絵とか入れられず、それで表紙に親父の俳句を並べたんです。それが今に至っているわけです。(笑)あれはあれで特色があっていいんですが、実は俳句を並べるのが恥ずかしいんですよね。親父の時はなんともなかったんですけど自分の句になると恥ずかしいですね。 僕は怒ったことがないんです。怒らないから長生きなのかもしれません。(笑)軍隊なんかでもよく並んでビンタをされましたが、僕は人を叩いたことがないですね。 「先生は連句はなさらないのですか」? 連句? 連句はしません。「連句をしたら俳句がなまる」と親父が言いまして「連句はやめておけ」と言われその言葉を守っています。連句は楽しいかもしれませんが。 「先生は俳句をやるために捨てられたものはありますか?」 会社を捨てました。ちょうど30年やって。子供たちも大きくなって取引先の会社にも挨拶にいかず「おまえんとこの社長何やってんだ」と言われたりして、それで一本立てでいこうと思って会社を捨てました。 賭け事はいっさいしません。パチンコ、麻雀はしない、将棋や碁はせがれに教えたけどせがれに負けるようになって止めました。株もやらず生命保険も賭け事ですからやらず、ある意味変わった人間かもしれません。そしてけんかはしない。 「「俳句を学ぶ人あるいは「諷詠」の方々ににおっしゃりたいことありますか?」 昨日の会の挨拶で最後に言おうと思ったんだけど、俳句をいろいろと拝見していると全般的に俳句の仕上がりをきれいにしてくれと、言いたいですね。推敲ということでもないのですが、言葉の問題リズムの問題もあるしいろいろあるのですが、せっかくつくった俳句をほっぽらかしで出してくるのが多いんですよね。だから最後まで気を留めてわたしに直されないように心がけて欲しい、と昨日最後に言おうと思って言えなかったんです。カルチュアをやるようになってから直してあげることが多くなって通信講座でもあちこち添削をしましたが、俳句を見ているとちょっとまずいというところがいっぱいあるんですね。だから私が見ている雑詠みたいなものでもこの頃はかなり直してあげて二重丸をつけてあげたりして、そうなるとよくなるんですよ。ちょっと気をつければよくなるんで。俳句は仕上げが大事だから仕上げを大事にやって欲しいですね。 「諷詠」の方へは800号以後「諷詠」を仕上げるつもりできれいにしてください、と言って終わろうとおもって時間が来て挨拶を終えてしまいました。(笑) もっともっとたくさんお話くださったのですが、 ここに記しきれないのが残念です。 記憶力がすばらしくお話も途絶えることもなく淡々とお話されたのでした。 ここには具体的に記しませんが、ご子息の立夫主宰を思いやる父親としての思いやご息女への気持などがお話の合間合間にかいま見え、比奈夫先生も人の親であることを改めて思わされたのでした。 後藤比奈夫先生、有り難うございました。 あらためて白寿、おめでとうございます。
by fragie777
| 2015-04-27 21:04
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