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7月31日(木)
もっともっとそばに寄って撮りたいところだが、わたしのカメラではこれが限界。 これでもかなり接写して撮ったもの。(近寄りすぎたら蜂に刺されてしまう) 6月に刊行した『桂信子文集』ではあるが、すでに品切れとなってしまったのは申し訳ない。 再版も考えたいところであるが、なにしろ大冊であるのでなかなか決心がつかない。 在庫をかかえるということば、倉庫代、管理費、そして在庫すべてが税金の対象となるために版元にとってはなかなか苦しい状況となるのだ。またたく間に売れてしまえば問題がないのだけれど……。 読みたいお客さまにお応えできないのは残念である。 『桂信子文集』の刊行によって、ふたたび『桂信子全句集』が動き出したのは嬉しい。 けっして安くはない本であるが、『文集』を読んだ方が『全句集』も読んでみたいと思って下さったのなら、天上の桂先生もそれはお喜びであると思う。 『桂信子全句集』は、一冊の本としてもそれは美しい本である。 菊判上製箱入り。 この厚さもまた桂信子のものだ。 工芸品のような美しさだ。 菊判の本も最近はなかなか作らなくなった。 菊判サイズの用紙がどんどんなくなっているのである。 こういう形をもったものとして本が残っていくというのも、わたしは大切なことにおもっている。 萩原朔太郎展を見たとき、処女詩集からはじまって彼の詩集が飾られていたが、その詩集がどういう造本でどういう装丁のものかということもまた、作者の表現行為にかかわるものであり、詩人の物語をかたちづくっていくものとなるのだ、ということを強くおもったのである。 物としての本、それは作者の世界にふれることのできるまず最初であり、最後ともなるものだ。 わたしはそう思っている。 この『桂信子全句集』は、桂信子の世界へのはじまりであり、最後の手触りとなるものだ。 (この猛禽類のような眼にまずやられてしまう) 冬麗や草に一本づつの影 桂 信子 今日の「増殖する歳時記」は、三宅やよいさんによって小池康生句集『旧の渚』より。 家族とは濡れし水着の一緒くた 小池康生 確かに。もう行くことはなくなったけど家族で海水浴やプールに出かけてぐしょぐしょになった水着を一緒くたにビニール袋に入れて持ち帰った。からんだ水着をほぐして洗濯機に入れて洗うのが主婦である私の仕事だった。びしょぬれになった水着の絡まり具合は「家族」と定義するのにふさわしい。家族の間で交錯する感情の絡みとごたごたを象徴していると言ってもいい。物々しい出だしに対して「一緒くた」とくだけた物言いで収めたことで句の親近感がぐっと増す。一緒くたになった水着を一枚ずつほぐして洗い、洗い上がった水着を形を整えながら干してゆくこと。遠い夏の日には何とも思わなかった作業が、水の匂いと共に懐かしく思い出される。『旧の渚』(2012)所収。 今日はお昼休みに近くの書店に行って、女性週刊誌をふくめ5冊の週刊誌を立ち読みし、その後店内にはいり、三冊も本を購入してしまった。 いったいいつ読める時間があるというの?って自問自答をしながら。 本を買うときって、限りなく時間があるような気がして、この一冊を読み終えたら素敵にわたしがバージョンアップされるような思いになるんだけど、そうはいかないのよね、ともかく、あのリクライニングチェアでぐにゃぐにゃとなったトドと変身してつまんないテレビを見て痴呆的に笑っている時間を返上すればなんとかなるっていうもの。 でもねえ、そういう時間も必要なのよ。
by fragie777
| 2014-07-31 19:25
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