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7月12日(土)
![]() 百合は美しい花である。芳香もつよく、あたりを支配する。 この花の前にたつといつも「負けた」って思う。 花と勝負をするなどおろかなこととおもうかもしれないが、別に勝負をしようとおもっているわけではないのだが、「負けた」って思わされてしまう花なのである。 百合はとおくで見て賛嘆し、あるいはこの写真のように通りすがりに仰いでほめたたえ、お近づきにはならなくてもいい花なのだ。わたしにはちょっと苦手な花なのである。もし自分の家の庭に百合が植えてあったりしたらすごく落ち着かなくなると思うし、開花期には毎日とおくから「負けたわよ!」って叫ぶことになるかもしれない。 ヘンかな、 わたし。 新刊句集を紹介したい。 佐藤博美句集『想(そう)。 46判フランス装表紙カバー装。「白のシリーズ」である。 著者の佐藤博美(さとう・ひろみ)さんは、俳誌「狩」(鷹羽狩行主宰)同人。句集『想』は四冊目の句集となる。帯文を鷹羽狩行主宰、栞を高田正子さんが寄せている。 一行と離れてよりの花野かな 仲間と離れて一人となってからの花野は、まるで別世界のように美しかった。吟行の場面を超えて、人生のドラマの一駒を思わせる広がりと深みがある。「知」や「情」を経て、集名「想」の世界に至ったのである。 鷹羽狩行主宰の帯文である。 この句を以て「想」の世界に至ったと帯文に書かれているが、確かにひとり花野をゆく著者は一人であることを楽しみ味わっているような姿を彷彿させる。そして一人になって考えたいことに身をまかせ、秋草にふれながらしみじみと人生に思いをめぐらしているようにも思える。 わたしはこの句集を拝読しながら、「途上の人」という言葉をおもったのである。佐藤博美さんという人は此岸から彼岸へとつづく道を歩いていることをつねに認識しながら、日常のくらしの小さなことを大切に生きている人ではないか、そんな姿が作品をとおして浮かびあがってきたのだ。日々はつねに彼岸への「途上」なのである。「一行」は「此岸」であり、「花野」は「彼岸」であるとも深読みをしたくなるような、著者は此岸と彼岸を自在に往来しながら「彼岸」をめざす途上の人なのだ。 ちちははの世へ一歩づつ遅桜 彼の世にて揃ふちちはは初昔 祈りめく冬の泉に手を浸し 白梅に近づくせめて手を洗ひ いつせいといふさみしさよ花のころ 箱庭のどこかが違ふ一夜明け てのひらを熱くもどりぬ葛の花 ひとびとにゆきわたりたる桜かな 鬼灯の花や隣家の住み替はり 湯たんぽを抱へ二階へゆくところ 平穏な日々に褪せゆく金魚玉 土塊となるまでのこと蚯蚓鳴く 湯気立ててなすべきことをひとつづつ 寒林の何も聞こえぬところまで あらためて家族はふたり草の餅 子規の忌と思ふ畳を拭きをりて これからの月日と秋の金魚かな 門どれも裏門めきて暮の秋 枯野もう引き返すこと考へず そのあとにつづくものなし鳥雲に 星涼し死後に逢ひたき人ふたり 仮の世と思へばやすし返り花 栞を書かれた高田正子さんは、「深く蔵する力」と題して、著者の「此の世の日常」をいろいろな角度から掬い上げてみせる。 寒雀市のはづれといふところ 寒明の未明は人を逝かしむる 春愁や白線にある内と外 あのころの時はゆつくり日向水 手花火のはじめは土の匂ひかな 梧桐や勉強部屋のありしころ さみしさに慣るるにちから冬木の芽 ちちははの世へ一歩づつ遅桜 〈ちから〉の文字のある前句より、後句のほうに私はちからを感じます。博美さんは本当は「ちからなんて私とは無縁なのよねぇ」と仰りたいのではないかとすら思います。後句のちからは無論〈一歩づつ〉にあります。〈ちちははの世〉となった〈彼の世〉は〈彼の〉というほど遠くなく、また茫漠としたおそろしさを感じるものでもないはず。立ち止まるのでも飛んでゆくのでもなく〈一歩づつ〉。〈遅桜〉の〈遅〉にほのかな含羞を感じつつ、〈桜〉を季語に選び取った博美さんに、心から共鳴します。 栞より引用した。著者の佐藤さんとは句座をともにすることもあるようで、著者の作品の魅力を熟知しておられるようだ。「博美さんは小さな生きものにふっと目が行く、いえ、ふっと目をやったところに小さな命が動いている、そういう人であるのかもしれません。」とも書かれている。 『想』は、『七夕』『私』『空のかたち』に次ぐ第四句集である。平成十八年春から約八年間の作品より自選し、三百十六句を収めた。これまでどうしても詠みたい想い、詠まなければならない想いを俳句にすることで私はカタルシスを得て来た。今後もこの姿勢は変わることはないと思いタイトルを「想」にした。 「あとがき」の文章である。簡潔なことばのなかにきっぱりとした著者の想いがつたわってくる一文だ。 わたしはは「途上」ということばのほかに、この句集に「間(あはい)」あるいは「間(ま)」の面白さのようなものを思った。それば場所の「間」でもあり、時の「間」でもある。物と物との人と人との時間と時間とのとらえがたいような何かあるもの、それを「間」と呼んでいいのかわからないのだけど、著者が意識するとしないとに関わらずそれにふれている。ものとものとの関係性の奥義とでもいうとちょっとオーバーかもしれないけど、そういうものが詠まれているのが興味深かった。 春月やそびらはいつも空けておき 柳散る午前と午後のあはひかな さきほどと違ふ明るさ秋さうび さざ波のつづきのごとく寒雀 引越しの荷やおしろいの花に触れ 吾亦紅午後にやうやく影生まれ 明るさの昼顔ほどでよかりけり ギヤマンの影重ならぬやうに置く 綿虫に触れたるほどのことなれど クリスマスツリーの後ろにもまはる 満開ののちの日数や八重桜 さて、この句集は「白のシリーズ」によって、和兎さん。 ツイッター上で、「和兎さんてどんな人」って話題にする人がいて、調べたらしい。すると「アル中で女装好きのバツいちのおっさん」という紹介があり、ますます興味をもたれたようす。 ということで和兎さん、装丁は美しい女子が好きらしくエレガントな装丁となった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 時間の一瞬を切り取ったものであることが、この『想』という句集の世界と照応している。 現在地なんどたしかめても枯野 好きな句だ。 あっけらかんとしたところがいい。おもしろがっているように思えるのもいい。 やはり著者の心根は此岸と彼岸との間(あはひ)の「途上」にあり、と思ってしまうのだった。 今日の「増殖する歳時記」は、今井肖子さんによって光部美千代さんの句集『流砂』より。 背泳の背のすべりゆく蒼き星 かつて個人メドレーの日本記録を持っていたという知人と、スポーツジムのプールで遭遇したことがある。その時四十代であった彼はその歳なりの体型であったが、水に入った瞬間、これが同じ水かと思うほど水が彼を受け入れ、まさにすべるような流れるような滑らかさで、ほとんど手足を動かさないまま二十五メートルのプールを往復した。掲出句はその時の感動を思い出させる。あの背泳ぎならそのまま海へ、満天の星を仰ぎながらやがて海とひとつになりこの惑星の一部になってしまいそうだ。〈いつまでもてのひら濡れて蛍狩〉〈海底に火山の眠る夏銀河〉。ときに繊細にときに大胆に、惹きつけられる句の多いこの句集が遺句集とはあらためて残念に思う、合掌。『流砂』(2013)所収。 この遺句集『流砂』は、亡くなるときに光部美千代さんが所属した「汀」の主宰・井上弘美さんと遺族の方のご尽力で世に出されたものであるが、光部美千代さんは、ながく「鷹」にも在籍しておられた。この度「鷹」の50周年記念として刊行された『季語別鷹俳句集』には、光部美千代さんの作品が少なからず収録されている。この一書をひもといて、そこに連なっている名前のなかにあらためて亡き人をしのんでいただければと思う。
by fragie777
| 2014-07-12 19:30
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