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6月27日(金)
この巻き方は左巻き、右巻きそれぞれあるという。 これは左巻きということかしら? 今日は金色の靴をはいて出社した。 なにか特別なことがあるのかって。 特にない。 下駄箱をあけてふっとかたすみにおかれた金色の靴に目がいったのである。 (おお、わたしは金色の靴を持っていたのだ……) と自分がそういう色の靴を持っていることになにか新鮮なものをおぼえ、一年に一度くらいしか履かないそれをとりだしたのだった。 う~~ん。 わたしの精神性にはすこし繊細すぎてしかもゴージャス。 一瞬ためらったけど下駄箱にもどすと、きっとこの靴は悲しむだろうっておもった。 すこし恥らいつつわたしは金色の靴に自分の足をそっと入れたのだった。 うん、これでいいでしょう。 でもね、今日一日あるくたびに(わたしは金色の靴を履いている)っておもってた。 新刊句集を紹介したい。 山口木浦木句集『林檎』(りんご)。 前句集『追憶』に次ぐ第四句集である平成19年から25年までの作品を収録。著者の山口木浦木さんは、橋間石が創刊した「白燕」に昭和60年に同人として参加、間石亡きあとの現在は「白燕」系列の「子燕」(赤松勝代表)にされている。宮崎県生まれで現在も宮崎市にお住まいである。 句集名の「林檎」について、著者は以下のように「あとがき」で記している。 ところで、題名の「林檎」は赤いリンゴが念頭にある。あと数か月で私は還暦を迎える。還暦といえばシンボルカラーは赤だろう。六〇歳の節目にこの句集を出版したのも事実だ。もちろんリンゴという果物が好きなことは言うまでもない。学生時代、リンゴ一個をよく朝食として食べていたものだ。その後の人生にもリンゴは欠かせない。五月に出版する句集のタイトルが秋の季語の「林檎」であろうと構わない。 訳ありの林檎おいしく召し上がれ 集中にある「林檎」の句である。「訳あり」とはいったいどんなと気になるところだが、食べ物としての林檎そのものになにかいけない訳があるわけでななく、「訳あり」という言い方にはどちらかというとやはり否定的なイメージを抱いてしまうけど、きっとたとえばこの林檎が手許にくるまでのいきさつのなかにちょっと話しにくいエピソードなどがあって、しかし林檎本体にはケチがついているわけではない、だから「おいしく召し上がれ」ということであろう。白雪姫が食べたような「訳あり」ではないことは確か。 いやいや、「林檎」というものは、なかなかしたたかな果物でかつてイブにそそのかされたアダムが食べたのも林檎だったのではないか。真っ赤な色をして食べられることを欲している林檎はじつはその果肉のうちのおおいなる「訳あり」を秘めているのかもしれない。「おいしく召し上がれ」といわれてほいほいと食指をのばしてはいけないのである。 この「おいしく召し上がれ」は実は要注意なのである。 山口木浦木さんの俳句は、やさしい顔をしているけれどどこか不思議さをまとっている。 いくつか紹介したい。 夏の果て足跡すべて濡れている 寝たままの春を見るため横になる 上からの目線をよけて泳ぎ切れ 顔面の余白を埋めるパセリかな 天上の秘密が漏れる春の水 芋虫が去って始まる政治学 人形を持たされている春の暮 夕顔の生きてる君をほめてやる 身を捨ててこそ水仙の美しき れんげ田を転がるうちに異端児に 冴返るすべての者は前のめり どの句もおもしろい。「寝たままの春」の句なんて、ヘンな句だとおもうが、なんだかわかる。春という季節を五七五であらわすとこういうことになると思わせてしまう。好きな句である。飄逸感あり、世界に対する磊落さが魅力だ。「水仙」の句はナルキッソスへの批評を含んでいるのだろうか。 白燕句会に参加するようになって、そして継続的に句作するようになって、丸三〇年が経過した。当初、俳句との関係がこれほど続くとは思いも及ばなかった。今では俳句は私の一部となった感がある。句作を止めようと思えばいつでも止められるのに、いまだ止めようと思ったことがない。不思議である。 第一から第四句集までの俳句総数は一〇〇〇句余りである。『林檎』出版を機に私の句づくりがもっと変化することを期待している。 ふたたび「あとがき」の言葉を引用した。 この句集の装幀はひさしぶりの登場となるが山田朝子さん。 きわめてシンプルである。しかし。堂々としている。 林檎の赤が効いた装幀ではあるが、帯と見返しの渋さによって落ち着いた一冊となった。 この句集の担当は千絵さん。 天上のガラスが割れて春の雪 「雪ではないのですが、先日ふらんす堂の周辺を、すごい勢いの雹が襲いました。激しく窓ガラスに打ち付ける雹にみな驚いたのですが、まさに、天上のガラスが割れた破片のように感じました。 天上に薄いガラスが張られていて、それが細かに砕けて雪になる様子を想像し、とても美しく感じましたので、この句を選ばせて頂きました。」と千絵さん。 そう、先日の雹体験はまさに天上の大きなガラスが割れたという感じだった。 すべり台きれいにすべり梅雨に入る わたしはこの句がすきだ。さきほど紹介した俳句にくらべると分かりすい句かもしれない。すうっと胸にはいってくる句だ。梅雨の季節は水が豊かに大地をうるおす。 今日は京都からお客さまがひとりお見えになった。 藤田千鶴さん。 すこしまえに短歌と童話の作品集『白へ』を刊行された歌人である。 「短歌と童話を収録するにあたってはずいぶん迷いました。短歌のみにしたほうがいいとアドバイスしてくださる方も何人かいて、そうしようかともおもったり。でも思い切って一冊に収録してみて良かったと思います。いい本ができたといろんな方がおっしゃってくださって。自分もこれでよかったと納得しています。装幀がすばらしいって皆に褒められました。」と藤田千鶴さん。 「知らない方が書店でこの本をみつけて買ってくださった、という連絡をもらったりして世界がひろがりました」 これからはどちらにウエイトを置かれるのですか、と尋ねたところ、 「まずは短歌になると思いますが、童話も時間をみつけて書いていきたいです」と藤田さん。 藤田千鶴さんは、短歌誌「塔」の編集委員をされていて忙しい日々をおくられているということである。 校正作業は、永田和宏さんのお家でみなが集まってするということ。 「わたしたちがうかがうと、永田和宏先生と永田淳さんがお家を掃除しておられるんですよ」って嬉しそうに語られたのだった。 あたたかな歌人のまじわりである。 「仙川っていいところですねえ」とやっぱりおっしゃったので、わたしはおもわず胸をはって、「そうでしょう!」ってお答えしたのだった。 藤田千鶴さま、 今日は遠いところをご来社くださいまして、ありがとうございました。 さっ、金色の靴を履いてかえりましょ。
by fragie777
| 2014-06-27 19:47
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Comments(2)
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岩田由美
at 2014-06-28 22:44
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いつも編集日記を楽しみに読んでいます。山岡さまの生き生きした心の動きに刺激されます。でも今回は「緩和ケア」の定義に引っかかってしまいました。高校時代の友人が「初期からの緩和ケア」の普及を目指して頑張っています。終末期の痛みを軽減するだけでなく、治療のすべての局面で、患者の生活の質を少しでも高める努力をするケアと理解しています。患者と医師と看護師と薬剤師、患者の家族も含むチームで、その人らしい暮らしを目指すようです。治療だから痛いのも苦しいのも当たり前、ではなく、病気と戦う心の力を維持するためにも、軽減できる痛みは積極的に軽減する。そのために専門知識を磨いているのに、緩和ケアを紹介された患者が、もう治る見込みがないと誤解してしまうのが辛いそうです。緩和ケア=終末医療ではない、ということを私も言いたくなりました。友人は「緩和ケア医の日々所感」というブログを書いていますので、良かったらご覧ください。長文でごめんなさい。
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fragie777 at 2014-06-28 23:41
岩田由美さま
コメントをありがとうございます! 「緩和ケア医の日々所感」のブログを拝見しました。 先入観によるイメージが先行してしまうのは、こわいことであると思いました。そうなのですね。こんな風に医療に取り組んでおられる方」がいて、それが「緩和ケア医療」の現在なのですね。 「知らない」ということは恥ずかしいことですね。 「初期からの緩和ケア」ということ、そういうことなのですね。 緩和ケア=終末医療、ではない、 こころしておきたいと思います。 ありがとうございました。 (yamaoka)
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