カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
6月13日(金)
この道には桑の実がたくさん落ちていた。 わたしたちは熟した桑の実を枝ごとひっぱって夢中で食べたのだった。 近くで鳥が抗議するかのように激しく鳴いていた。 昨日の小川軽舟さんの「俳句日記」の日記文に 鷹創刊50周年を記念して出版する『藤田湘子の百句』(小川軽舟著)、『飯島晴子の百句』(奥坂まや著)の見本がふらんす堂から届いた。 『藤田湘子の百句』の表紙は私の希望で宗達の鹿をあしらってもらった。『飯島晴子の百句』は抱一の葛の花。湘子、晴子それぞれを偲ぶにふさわしい表紙になった。 と書かれてあったが、この二冊はまだ見本の段階で発売はしていない。 ふらんす堂にも見本がとどいたのでここにちょっと書影を紹介させていただく。 二冊ともなかなか趣のあるものが出来上がった。 装丁は和兎さんであるが、いろんなパターンを用意した。当初は若冲の鹿などもあったのだが、ご希望をいかしてこのように。 藤田湘子、飯島晴子への入門書でもあり、更なる発見のある一書である。 ひさしぶりに本屋さんをのぞく。 ここ数年は書店に行くことがめっきり減ってしまった。 講談社文芸文庫より塚本邦雄の『百句燦燦』が出ているのを知って購入。解説が橋本治というのも気に入った。その解説のしょっぱなに書かれていた文章を読んで更に気に入った。 ちょっと引用してみたい。 私が書店の棚にある『百句燦燦』を見たのは、二十六歳の秋だった。買おうかどうかを、少しの間ためらった。私には、現代俳句への関心もなかったし、知識もなかった。その後に作家などというものになろうとも思っていなかったので、この本と自分との間にどのような接点があるのかが、分からなかった。その本の装幀が政田岑生のものであったら、迷わずに買っていたかもしれない。その頃の私は、本の中身よりも装幀の方に関心があった。 私が二十代の頃、装幀の美しい本は、それに見合うだけの中身を持っていた。政田岑生の装幀による塚本邦雄の本は、そのことを私に教えてくれていた。「なぜこの本の装幀は政田岑生ではないのだろう?」と思い、しかし、江戸時代の天文図を使った杉浦康平の装幀は魅力的だった。「『百句燦燦』とはこのような世界を表すものでもあろうか」と思って、現代俳句への関心をまったく持たない私は、『百句燦燦』を買った。既に私は、「塚本邦雄」という名の中に、「学ぶべきもの」を実感していた。 本の装幀というものが、いかに人間のこころをとらえる力をもっているか、装幀の美しさに捕らえられた二十代の橋本青年のこころがいい。本は読めればいい、などと思っている人間の対極に橋本青年はいる。「中身よりも装幀の方に関心があった」「装幀の美しい本は、それに見合うだけの中身を持っていた」、こんな風に橋本治青年は思っていたのか、新鮮だ。 自分の作品をどういう装幀や造本で世に出すか……、 それは大切なことである。 その一冊目からあなたの物語は始まるのだ。 この一週間は風邪から脱却できずにちょっとオーバーに言えば、息もたえだえにどうにかやってきた。 来週こそはこのうっとおしいマスクをはずしたいものである。 今日はもうこれで帰ろう。 楽しくやすらかな週末を迎えたいものである。
by fragie777
| 2014-06-13 18:46
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||