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2月23日(日)
まんさくや焦点どこに結びても 津川絵理子 先日のこと、並木製本の高橋さんと電話で話しているときに、 「yamaokaさん、週刊新潮にふらんす堂さんの本がよく紹介されているの知っているでしょ?」って言われた。 「いいえ!全然知らなかったです。昔はよく紹介されていたことは知ってましたけど」と言うと、 「よく紹介されていますよ。いまのにも出てますよ」ということでファックスをして下さった。 嵐山光三郎さんが、柳沼新次句集『無事』より一句を紹介をして下さった。 無事の日や妻に水仙ひとバケツ 老々介護の句ですね。柳沼さんは1939年生まれで、妻の介護をしている。水仙の句をばけつに入れて妻に見せ、今日一日が無事の日であったことをたしかめる。ステキな夫婦だなあ。句集『無事』には妻のベッドを花咲く窓辺へ移したり、夕方の虹を見せたり、遠花火が見える橋まで車椅子で連れていくシーンがあり、仲のよい夫婦であることがわかる。こんな夫に見守られて、妻は幸せです。 本が出来上がったときに、柳沼新次さんにお電話をして、 「ご本を奥さまはお喜びになったことでしょう」と申し上げたところ、一瞬沈黙があり、 「いや、もう、妻はそういうことはわからないのです」と柳沼さんはすこし悲しそうにおっしゃったのだった。 わたしはハッとして、もうそれ以上何も申しあげることができなかったのである。 しかし、この句集『無事』には、ひとりの男がさまざまな思いをつくして病気の妻に手をさしのべいたわり愛情をそそいだその愛のかたちが詠まれていることは事実だ。 愛のかたちとは何か、それはたとえば、バケツいっぱいの水仙なのだ。 男の思いはバケツいっぱいの水仙の向こうにあってなにも語られていない。 「愛と言わず愛を見せる」と解説で池田澄子さんがいみじくも語っているように、男の行為がすなわち愛のかたちなのだ。愛は語るものではなく、行為のなかにあるものだ。 そう、それはイエス・キリストの十字架の奥義に触れるものであると、わたしはふっと思ったりするのだ。 おっと、 えらい飛躍だって、 いいえ、 そうではないのね、 わたしのなかでは。
by fragie777
| 2014-02-23 18:20
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