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2月6日(木)
夕方、手を頭のうしろにまわして椅子にもたれかかってぼんやりしていたらスタッフのPさんと目があった。 「何をしているのですか?」 「えっ、ちょっと考えごとをしてた……」 「はあ? 人生についてですか」 「ううん、まっ、ね……」 (実は昨夜みたへんな夢のことを考えていたんだけど、そうもいえないじゃない) 新刊紹介をしたい。 小笠原眞著『詩人のポケット』(しじんのぽけっと)。 詩人小笠原眞による詩人論である。 著者の小笠原眞(おがさわらまこと)さんは、十和田市在住の詩人である。すでに五冊の詩集を刊行されておりそのうちの四冊はふらんす堂刊行である。(第二詩集『あいうえお氏ノ徘徊』』第三詩集『48歳のソネット』第四詩集『極楽とんぼのバラード』第五詩集『初めての扁桃腺摘出術』) この度の『詩人のポケット』は、「ちょっと私的な詩人論」と副題があるように小笠原さんの心にある詩人について語ったものである。「詩人のポケット」というタイトルのポケットは大切なものがしまわれている詩人だけが持っているポケットである。 そのポケットから小笠原さんはご自身にとって大事な詩人たちをそっと取り出して気持ちも籠めて語る。わたしの知っている詩人もいれば、この著書をとおしてはじめてその作品にふれた詩人もいる。どの詩人も詩人小笠原眞に少なからず影響をあたえた詩人である。わたしはこれまで何冊も小笠原さんの詩集を編ませてもらってきて、今回の詩論によってあらためて彼の作品がこういう詩人たちを通過して生み出されてきたのだということを知ることができたのが新鮮だった。 全部で11人の詩人がとりあげられている。 それぞれの詩人論のタイトルが面白いのでタイトルとともにとり上げられている詩人を紹介したい。 中村俊亮 「ぼくにとっての中村俊亮」 藤富保男 「藤富詩という風景」 山之口貘 「真理という奴が貘さんの詩に防腐剤を一つかみ投げ込んだのだ」 平田俊子 「ぐいぐい引き込まれる平田俊子の劇場詩」 天野忠 「年齢を詩の中に刻んだ天野忠」 圓子哲雄 「圓子さんの詩の本質は人間愛にある」 田村隆一 「田村隆一のかっこよさは半端じゃない」 泉谷明 「泉谷明は日本を代表する路上派の詩人なのだ」 金子光晴 「実は金子光晴こそ恐るべきリアリズム詩人なのだ」 井川博年 「凡そ詩らしくない詩それが井川博年の詩なのだ」 黒田三郎 「愛と死を見つめた詩人 黒田三郎」 いかがだろうか。荒地派の詩人もいれば、現役で活躍している詩人もいる。様々な現代詩人たちだ。 さて、どれか一人の詩人論の一節と詩を紹介したいが、だれにしようか……。 藤富保男はぼくの最も敬愛する詩人の一人である。という書き出しではじまる藤富保男(ふじとみやすお)論から紹介しよう。 藤富保男はぼくの最も敬愛する詩人の一人である。彼の詩の最大の魅力は何といっても、その確固たる独自性にあると言えよう。藤富詩はその出発の段階からして実験詩としての道を歩み、藤富ワールドと言える全く新たな詩的世界を構築した。言い換えれば、彼こそ偉大なる異端詩人と呼ぶに相応しい詩人なのだ。 と書き起こされ、 第九詩集『言語の面積』は、ハードカバーの函装詩集である。外函と詩集の扉には味わい深い西脇順三郎の装画が描かれている。そしてタイトルからしてこの詩集の特徴を明確に表しているのだが、藤富氏ほど言語に拘り、言語を慈しみ、言語の機能を最大限に活用して作詩した詩人は少ない。このことは、漢字やひらがなカタカナなどの極めて多彩な日本語という言語の特殊性に着目することであって、その利点を最大限に引き出すことでもあるのだ。次に藤富詩の中で、ぼくの最も好きな詩を紹介しよう。 喧嘩 屋根に女がのって夕日を 打ち眺めている 春か むこうに 烏が杭の上に腰をおろして いろはにほへ と散り行く葉を眺めている 窓から 男が呼んでいる蚊 のような 細い声を出して もう降りて恋よ と要求している 烏は夕日をめがけて 鳶去り 女は旗 と考え直して それから なんと無く どうにかして なんと泣く 二人は にらみ合って 恋を舌 雨のち雨 短いがこの詩には、藤富詩の種々の魔術が程よく満載されており、一幅の絵を見るような感動を覚える。最後の二行は西脇の詩篇「雨」を髣髴とさせ、律儀にも装画に対するお礼も忘れてはいないのである。(略)藤富詩の魅力を詩集中心に紹介してきたわけであるが、今回はあまりにも表層的で藤富詩ワールドの全体像を遠くから俯瞰しただけで終わったような一抹の不安がぼくにはある。詩集以外の仕事、例えばE・E・カミングス詩集やエリック・サティ詩集の翻訳や、童話、絵本、随想集、画集の執筆、北園克衛の紹介、海外での公演、国内での数限りない個展やグループ展とその業績の詳細の全てに言及してこそ、氏の仕事の全体像が見えてくるのではなかろうか。いずれにしろ、ぼくにとっての藤富氏は正に巨人なのである。藤富氏には、詩的マニュフェストともいうべき箴言集『一発』という書があるが、その中で「笑いとはなにか」という問いかけに答えて「緊張の糸」が「切れた瞬間が笑いではないだろうか。そしてその時こそ、真摯であった自己を意識するのである。」とある。諧謔の詩人でもある藤富氏ならではの名言である。 この著書をすこしつまんで紹介したにすぎないのであるが、この著書の魅力は、言及しているどの詩人に対しても、論じる小笠原さんの心の弾みが伝わってくることである。好きな詩人を語る人間の興奮と言ってもよい。だから読む側もつい引き込まれる。 詩を書いたり、詩書を読んだりと、詩が生活の一部になってから早いもので三十七年の歳月が流れました。 縁あって八戸市の圓子哲雄氏が主宰する同人誌「朔」の同人にしていただき、もう五年近くになります。当初は、詩だけを掲載するつもりでおりましたが、氏に評論を書くことを強く勧められ、拙いながらも毎号に詩人論を掲載させていただきました。ようやく十一人の詩人論を書き上げたところで、最近一冊にまとめてみたいと思うようになり、これまで掲載した評論に多少加筆訂正し、発表順に並べてみました。好きな詩人の評論を書くということは、その詩人の作品をもう一度深く堪能することであり、何故好きになったのかを再確認する作業でもあります。精読には勿論それ相応の時間を要する過程を経るわけではありますが、しかしそれはぼくにとって正に至福の時間でありました。 「あとがき」のことばにもあるように詩人について書くことは「至福の時間」であったと。この一書を読むことはその「至福の時間を共有する」ことであるとわたしは思う。 装丁は君嶋真理子さん。 第二詩集から第五詩集まで君嶋真理子さんの装丁によるものである。どれも諧謔味がある、こういう装丁もできる君嶋さんを多彩であると思う。 この度のものもユーモラスである。この一書を極めて親しみやすいものにしている。 インテレクチュアルな一冊となった。 今日はお一人お客さまがみえた。 俳人の酒井弘司氏である。 第八句集の刊行の相談にみえられたのだ。 酒井氏は俳誌「海程」(金子兜太主宰)の同人、みずからも俳誌「朱夏」を主宰しておられる。 ふらんす堂よりは、現代俳句文庫39『酒井弘司句集』、第六句集『地霊』を刊行しておられる。 現在は相模原市の根小屋という山里にお住まいで畑仕事をしながら晴耕雨読の充実した日々を送られているようだ。 「教職を定年退職してからもう15年も経ちました。怠けながらの農業です。雲雀の声に聞き惚れながら土を耕しているので手がとまってしまいますね」と酒井氏。 さて、yamaokaの風邪はよくなりつつあります。 咳がたまに出るくらいかな…… わたしのブログを読んだ君嶋真理子さんからメールが来た。 「インフルエンザA型と思ってメールしました。最初はあまり熱は出なくて、乾いた咳が残ります。だるい。結構うつります。マスクと手洗いを。(タオル分けたり)」 って、ええ、インフルエンザかなあ、でもお医者に行ったのよ。 インフルエンザとは言われなかったんだけど、 そうなのかなあ、 でも、大分よくなってほぼ治っていると思うよ、君嶋さん。 ご心配ありがとう。 さっ、誰に移そうかなあ、この風邪。 あはっ、 冗談よ。
by fragie777
| 2014-02-06 18:39
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