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1月30日(木)
午後から雨となる。 仙川の商店街はそれでも賑わっている。 職業は「あかおに」で、名前は「おにへい」で、弱点は「豆」ですってさ…… よく見ると二人とも尼さんである。 ああ、 春はもうそこまで来ている。 「ふらんす堂通信139号」も出来上がり、そろそろ皆さんのお手元に届いていることと思う。 今回は目録がわりの広告を載せているのでかなりの厚さである。 感想などなんでもお聞かせいただければ嬉しいです。 「出版ニュース」1月号に、大石登世子著『奥の細道紀行』が紹介されている。 元禄2年3月、芭蕉は門人曾良とともに深川から、みちのくへの旅に出る。曾良の旅日記によれば日の出に深川出船とあり、隅田川を遡り千住から歩き始めている。そこで著者も深川で和船に乗り、その頃の絵図や浮世絵から現代の風景に当時の風景に当時の風景を頭のなかで二重写しに描き、深川旅立ちの句である。「行春や鳥啼魚の目は泪」等から〈漂白へのあこがれを持ち続けていくかぎり、ひとは舟に身を任せて旅を続けなければならない〉という芭蕉の思いを感じとりながら奥の細道を辿る旅に出る。本書は、その旅の記録で、峠を越え、四季の花を愛で、風に吹かれながら街道を歩く楽しみを教えてくれる。 昨日のお客さまは、大井恒行さん。俳人で、昨年まで約4年間にわたって出版社文学の森で仕事をしておられたが、昨年退職し、いまは「主夫をやってます」とニッコリされた。大井さんの退職後に出た俳句同人誌「豈」は、大井さんがもっぱら編集のちからを注いだためか、総合誌並みの充実度と読み応えだった。 「一度是非に新しいふらんす堂へ遊びにいらっしゃいませよ」と申しあげていたのだが、昨日ひょっこりと姿を見せたのだった。大井さんとは長い付き合いだ。ふらんす堂をはじめるにあたって、取次店を紹介してもらったり力になってもらった。少し兄さんだが、ほぼ同世代で同じ時代の風景をみてきた、そんな気安さがある。山口県出身ということもよく知っている。かつての職場を基盤に組合運動の闘士として頑張っていたことも。そういうわたしたちの同世代が退職をし、その後どういう生き方をしていくか、人ごとでなく大いに関心のあるところだ。自分の人生をどういう方向へもっていくのか……。 目の前の大井さんは、とてもゆったりして自分の人生を楽しんでいるようにみえる。 しかしやっぱり話は俳句のこととなる。 大井恒行さんは、高柳重信や三橋敏雄などの新興俳句系列に連なる俳人の傍らで彼らを見あげながら俳句を書いてきた俳人だ。 「若い頃、一番最初に読んだのが中村草田男の『俳句入門』だったんだよね、それには俳句は季語を入れて詠まなくてはならないと書いてあって、その後10年くらいそのことが頭から離れなかった」と言う。10代後半のことである。そして最初に読んだ句集が虚子であったということだ。(そうなんだ……知らなかった) 「もの凄く退屈で退屈で読むのに時間がかかった」ということ。「若かったからね、ちょうど70年安保闘争やら大学紛争の渦中が青春時代だったから、虚子の句はピンとこなかった」と大井さんは言う。わたしもまた同じ時代の空気を吸ってきた人間だ。その時代に感性が培われたと言っても過言ではない。しかし、わたしのまわりは詩を読み作ったりしている人間は結構いたが、俳句を読んだり作ったりする人間はいなかった。10代で虚子を読むとは、大井さんはやはり俳句に関心があったのである。 「俳句と季語の関係から自由になるのに10年かかったかなあ」と大井さんはつぶやいた。 それを聞きとめたわたしは、 「何かのきっかけがあったわけ?」と聞く。 「高柳重信に出会って、彼が、俳句は一句のなかに言葉と言葉の関係をつくり出すことだ、って言ったんですよ。それがきっかけかなあ……」 この後、それがなにゆえ一行詩でもなく俳句なのか、興味深い話が展開されたのであるが、きっと大井さんはこの開眼についてどこかに書かれると思う。興味のある方はそれを待たれよ。 話をしていて、圧倒的に高柳重信の名前がどの俳人よりもおおく大井さんの口をついて出てきた。 それがわたしには印象的だった。 夕方までゆっくりされて、 「夕飯の支度をしなくっちゃ……。」とおもむろに帰り支度をはじめたので、 「夕飯は何?」と聞けば、 すこしの間があって、 「鍋かな……」とにっこりして帰って行かれたのだった。
by fragie777
| 2014-01-30 18:59
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