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1月8日(水)
![]() 今日は燃えないゴミの回収日だ。 台所の奥の棚の下方、金輪際ひかりのとどかないところに息をひそめていたフライパンを、それがまとっている闇を払うようにして取りだした。 いったいこのモノのいつよりここにあり、使われなくなってどれだけの時が経ったのか。 わたしには皆目分からなかった。 あわれな様を呈しているそのモノは、忘れ去られてしまったことを恨んでいるかのような鈍い光をはなっていた。 「さよなら」と言って、わたしはそれを紫色の燃えないゴミ専用袋にいれて我が家の傍らに置いたのだった。 俳誌「天為」1月号で、高柳克弘さんが岸本尚毅著『高濱虚子の百句』の書評をしているが、とても面白く読んだ。この一書で著者の岸本尚毅が意図したことをきっちりと掬いあげ虚子理解をとおしての俳人岸本尚毅の俳句の方向性をも示唆している、読み応えのある書評だ。タイトルは「近さの詩学」。いずれ「ふらんす堂通信」誌上でも転載させていただきたい一文であるが、興味のある方は是非に「天為」1月号を読まれることをおすすめしたい 一部のみ引用する。 『高濱虚子の百句』は、虚子の二物配合を念頭に置いて選んだと、冒頭に著者の言葉がある。二物配合とは、いわゆる取り合わせのこととして、私たちはひとまず受け取るだろう。だが、本書を読み進むにつき、取り合わせとは何だろうと、読者は考え込むことになる。結論を先取りすれば、本書の一番の魅力はその点にあると言える。 という書き出しではじまり、具体的に岸本尚毅が虚子のどの句を取り合わせの句として選びそれらをどう評しているかをつまびらかにしていく。その過程で岸本尚毅にとって虚子の取り合わせとはいかなる意味をもつものであるか、高柳さんの視点はするどい。「取り合わせ」の距離が問題なのだ。 本書において著者は、虚子の句の二物間の「近さ」に向き合うことで、取り合わせの新たな可能性を模索している。著者が巻末に「あとがきにかえて」ちして寄稿している「季題についての覚書」は、虚子論を越えて、「取り合わせ」の考え方を更新するような、刺戟的な一文である。その中で著者は、「虚子の二物配合は取り合わせではなく、ありあわせです」と述べている。ここに至って、私たち読者は、なぜ冒頭で著者が「二物配合」と聞きなれない言葉を使っていたのかを理解する。「取り合わせ」という言葉から習慣的に想起する意味では、虚子の句が括り切れないことを、著者は暗示していたのだ。そこで、「ありあわせ」という、著者独自の言葉を示したわけだが、これはつまるところ「取り合わせ」の一般的な更新とも受け取れる。 そして、 『高濱虚子の百句』の著者は、二物の間の「遠さ」ではなく、「近さ」にこそ焦点を当てている。それは言ってみれば取り合わせと一物仕立てとを、擦り合わせるような考え方を、現代俳句に持ち込もうとしているように見える。 と書き、さらには芭蕉の句へと言及し、「一物仕立て」と「取り合わせ」が芭蕉においても相反するものではないとし、さらに岸本尚毅の「ありあわせ」についてこう結論する。 虚子の句の二物の近さを指摘して「ありあわせ」という考えを導き出した著者は、現代俳句の「取り合わせ」の見直しを試みているのではないか。それは「遠さ」だけではなく、「近さ」によっても詩が生まれ得るという俳句形式の特質をあぶり出す、重要な試みなのだ。 このあと岸本尚毅の作品についても言及していてそれも面白いのだが、わたしはこの書評を胸を高鳴らせつつ読んだ。ずばり的を射た見事な評だと思う。 岸本尚毅さんの論考はつねに俳人としての自身の方法に返っていくものだ。自身の作品の更新のために虚子がある、そのことも明確に示唆している。 わたしの解説はパッチワークなので、「天為」1月号でぜひに全文を読むことをおすすめしたい。 そして、お持ちでない方は、岸本尚毅著『高濱虚子の百句』をお買いもとめくださいませ。
by fragie777
| 2014-01-08 19:53
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