カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
12月24日(火) クリスマス・イブ
朝前のめりになって歩いていた自分に気が付いた。仕事が肩にかぶさるように重くわたしは俯きいっさいの空を見なかった。 ふっと、これじゃあまずいよって思って顔をあげた。 視界が開けたとたん、今日は巷はクリスマスイブであることっを知った。 しかしひとたび仕事机に向かえば、クリスマスイブっていったいなに?っていうくらい心からかき消え目の前に山積するものを片付けていくよりほかはない。 クリスマスイブとはアンデス山脈の彼方にある透きとおって甘美な湖であるかのようわたしには関わりのないものだ。 クリスマスイブ、大いに楽しみなさいよ。 わたしは巷のことは忘れ、仕事の聖域(?)で、まっ、仕事に精出すからさ。 新刊紹介をしたい。 藤田千鶴著『白へ』(しろへ)。 歌集といってよいのかもしれないが、短歌作品の間に童話が4編収められているものである。 著者の藤田千鶴さんは、歌人であり童話作家である。 童話はいろんな賞に応募してそれぞれ入選されたものを収録されている。 「短歌と童話の織り成す世界」とあるように、短歌と童話がひびきあいタイトルの「白へ」と収斂されていく詩情ある一冊である。 この「白へ」は極めて暗示的だ。 この本の構成は、「光」「土」「風」「水」の4章にわかれ、童話は短歌作品のなかにちりばめられていると言っていいだろう。 4章に別れた短歌は、この著者の守備範囲の広さをしめすべく多彩な顔をもっている。 たとえば、「土」の章、ここには六つの物語がある。「犬のセブン」「オカリナ」「検針員K」「耳」「小野さん」「風のはじまり」。死んだ老犬セブンの回想から物語は展開し、どうやらセブンは検針員のKさんを噛んだことがあり、そこにその犬の飼い主らしい人間(小野さん)やら、オカリナを吹く少年やら小野さんの心持やらが短歌によって詠われいる。ひとつの章の言葉がつぎの言葉の章に受け取られていく、ばらばらな世界のようであってそうではないという日常の場面が多面体で語られていく。いくつかの歌を紹介したい。 一生を繋がれていたガレージに来てくれた雀、ヤモリ、夕焼け 「犬のセブン」 メーターを測る女を噛んでから危険な犬と呼ぶ人もいた 〃 忽然と竹の林がなくなって風も消えたと小野さんが言う 〃 高校の部活の帰りにオカリナを疎水の縁に捨てて帰りき 「オカリナ」 覇気のない犬がぼんやりそこにいて人が通ると必ず吠えた 〃 オカリナを持つ手つきにて晩白柚唇へ運べば肉の匂いす 〃 一度だけ犬に噛まれしことありて歯型に破れしジーンズ捨てし 「検針員K」 検針ですと明るく言いて踏み込んだあれほど綱が長いと知らずに 〃 竹群の揺れぐあいにて風向きを確かめてからジャンパーはおる 〃 ふたつの手あわせて作る犬の影角度を変えると遠吠えもする 「耳」 耳というちいさな器に生きているあいだのやさしい記憶を仕舞う 〃 閉め切ったままの窓ありその窓を匿うように伸びるジャスミン 〃 小野さんが中指たてて風向きをはかるしぐさでじっとしている 「小野さん」 死をひとつボタンをひとつ投げ入れてみんな川になってゆくのだ 〃 竹はどこボタンはどこと取り乱す小野さんのなかを過(よ)ぎる夕焼け 〃 水容れをセブンがひっくり返す音きこえ来たりし遠雷の夜 「風のはじまり」 死んだ犬の記憶はいつも温かい死んだときからちろちろとして 〃 落ちてくる死があり天に向かう死もありて水面に映る竹群 〃 収録されている童話はすべて少女の視点で語られている。四編のうち最初の「白へ」は「白」と名付けられたインコの死の物語であり、四編の最後の「春のカレンダー」は、「ミミィ」と名付けられた兎の死をめぐる物語だ。生きていたものの「死」に立ちすくみ心を震わせる繊細な心が織り成す童話である。 しかし、短歌作品とこの4編はひびきあいながら、やがて「死と再生の気配」へと導かれていく。 この歌集には色濃く「死のイメージ」が揺曳している。「土」の項も犬のセブンの死からはじまる。 「白」は死を意味するものでもあり、死を超えていくものでもある。 もう会えぬだれかの耳の片方のように咲きたり昼咲月見草 死をひとつボタンをひとつ投げ入れてみんな川になってゆくのだ ああここにもどってゆくのね銀色のひかりのうねり風のはじまり ゆれるゆれる蝶がきてゆれる風がきてゆれるみんないなくなってゆれる 金の羽ひとりひとりに差し出して冬のある日に消えてしまいぬ 最期の息を吐いてそのまま閉じられぬ嘴はあり黒き燕の 触れられぬ白さ哀しきスノードロップ最後の冬の坂田博義 まわりじゅう闇なのですか光ですか身体がなくなったあとのいのちは ドクダミの白くちいさな花摘みて摘み続ければ手よりこぼれたり ももいろはまだねむいいろ暁の夢の続きに蓮は咲きたり 父も母も輪郭だけのしゃぼん玉つぎの風にはなくなりそうな ハムスターのケージ今年も捨てられず湿った場所で八年が過ぐ あさがおの蔓が乾いていく歌を誉めくれしひとこの世にあらず ゆうぐれの樹の影の色すこしずつあとずさりして君を離れる ここへ私を置いていこうか絵のような明るい森の緑の椅子に 長く鬼をしている感じ振り向けばいつもみんなが静止している 影だけの国の住人どこからが自分の身体かわからず眠る 歌集のさまざまな局面で「死」は顔をのぞかせる。その死が現実であるのか非現実であるのか虚実の被膜をさまようかのように生が漂う。現実の手触りはすべてそれが死の記憶を持っているかのようだ。生から死へと時間が流れるのではなく、死から生へそしてふたたび死へと生はいつも死の影を引きずっているかのようだ。 血のなかを光の通るおどろきに雲雀は高く高く啼くのか 蝙蝠は濃き夕暮れの色をして森の裏から来たるビショップ 鳩尾を背骨を汗が伝うとき我の真中に立つヒムロスギ 私はもう沼かもしれずつるつるの廊下をゆけば水の匂いたつ 大き影いちまい樹より離れしのち羽を畳んで烏となりぬ 喉仏に触れてこれは骨なのときけば神様だよと言いたり 指に摘むシロツメクサの真ん中にきのうの夕日のあしあとがある 涼しくて暗いひととき過ぎゆきてあなたは橋であったと思う 艶やかに私の舟の下をゆく川は大きな冷たい虎だ 水分が流れてゆかないようにするインコのように目蓋を閉めて 藤田千鶴さんの身体感覚もまた独特だ。変容をする身体であり、、おそらくそれは永遠を垣間みさせる何かへと変容するものであり、その変容によって死を呑みこむなにかへの希求がある。変容は著者においてひとつの救いだ。 海は手をかえしてすいと放ちたり白あたらしきかもめ一羽を 掉尾におかれた短歌である。 「白」が死の匂いから解き放たれて新しい光を得ている。 「白」による再生へを予感させるものだ。 タイトルの「白へ」がすうっとふたたび浮かびあがってくる。 いままで出会えたすべての人に。 そして、いま出会えたあなたに。心から感謝します。 「あとがき」のこの簡潔なことばが心に響いてくる。 さて、この書物の造本と装丁については、藤田千鶴さんはこちらにすべて任せてくださった。 この一冊を一貫している「透明感」を出したいとわたしの思った。 フランス綴じのカバー装、できるだけ手触りはやわらかくそして軽くということに集中した。 凝った造本であっても、ブックデザインは饒舌にならず、童話と短歌という重層的な世界が重くれずまっすぐに読者の心を響かせるものであって欲しいと思った。 それをブックデザインの和兎さんは、意にかなうものとしてくれたのだった。 「このwのようなカットは、whiteのWです」と和兎さん。 栞紐はもちろん「白」。 ふらんす堂にいらしたお客さまがこの本を目にすると、「きれいな本ですねえ」とうっとりとおしゃる。そして何よりも著者の藤田さんが気に入ってくださったのが嬉しい。 収録の作品より2首を紹介したい。 投げられし檸檬のゆくえ思いつつきょう初夏の聖橋越ゆ 扇屋を知りませんかと尋ねられ扇屋へいく道のない道を 最初の歌は爽やかな気持のよい歌である。お茶の水にある「聖橋(ひじりばし)」はわたしもかつてよく渡った。この短歌、構図がきわやかで印象にのこる。 しかし、それにもまして、「扇屋」の歌は不思議な世界に誘いこまれる。現実であってあるいは夢の世界であるような、そして救いのない世界を暗示させているようにも。胸がくるしくなってくる。それでいて奇妙に明るくあっけらかんとしている。この不安感が妙にリアルなのである。 お客さまがひとりいらした。 中根美保(なかねみほ)さん。 第三句集の句稿をもってご来社されたのだった。 第二句集『桜幹』より12年が経つという。あれからもうそんな時間が過ぎ去ったのかと、感慨深い。 中根さんは、俳誌「風土」と「一葦」の同人である。 俳句をはじめて40年近い。石川桂郎に師事することから俳句をはじめられた。 「石川桂郎は、いつも大仰な読み方はするな、と言っていました。人を驚かすような表現はするなとも」と中根美保さん。 いただいた句稿は、背筋のすうっととおった媚びのない作品がならび、石川桂郎の指導が貫かれているものだと思った。 「今日はクリスマスなので……」ということ。そして、 「yamaokaさんのブローチもクリスマスですね」と中根さん。 そう!、わたしも実は樅の木を象ったきれないブローチをつけておりましたの。 でも、夜遅くまで夕飯もたべずにyamaokaは仕事をしているわけですよ。 いま、樅の木のブローチを見つめようとして首をまわしたら、アイタタタ……やばい、首がおかしくなった。 働きすぎだ。 もう帰ろう。
by fragie777
| 2013-12-24 21:15
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||