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9月17日(火)玄鳥去(げんちょうさる)
今朝のことである。 車から降り立ったわたしは、ふとした拍子に車のキイを落としてしまった。 キイははずみをつけてころがりなんと、車体の中心部の真下で止まった。 (ううっ、ヤバイ) わたしは帽子をとりサングラスをはずして地面にはいつくばり車の下を覗き込んだ。 (おお、ある、ある) いい歳の女が地面に腹這いになって手をのばした。 (こんな姿誰にも見せられない、カッコ悪いったらない) (ううううっ……) とどかない…… (どうしよう……) あたりを見回したが誰もいない。誰も助けてくれない。 よし、もう一度。 (ううううううううっ) ダメだ!! わたしは起きあがり、細い棒はないかとあたりを探した。 すぐそばに細いグレーの管がある。 ひっぱってみた、なんだこりゃ、地面に埋め込まれているじゃない。 駐車場は果てしなく広い。 どうして誰もいないのよ。 すこし先へと歩いていった。 おお!!!!!!!! これだ! わたしは救世主を見つけたのだった。 それがこれ。 わたしがどうしたかわかるでしょ。 わたしはしっかりと車にキイをかけることができ、車のそばを離れることができたのだった。 実はこの写真を撮っている時はすでに事件は終っていた。そこへ自転車に乗った駐車場の管理人の伊藤さんがのどかに現れた。 「何してんのよ?」って言うので、「いやね、車の下に鍵をおとしちゃってこれに救われたから写真を撮ってるの」って言うと、「まったく……なんで鍵なんか落とすのよ」って呆れ顔で笑いながら自転車で去って行ってしまった。 そう言われてもね。 落としちゃったんだもんね。 さて、新刊句集の紹介をしたい。 関根空句集『星の舳先』(ほしのへさき)。 「知音青炎叢書」の一冊として刊行されたまだ40代の関根空さんの第一句集である。関根空さんは、「知音」(行方克巳・西村和子代表)に所属、序文を西村和子代表、帯文を行方克巳代表が寄せている。 この星の舳先に立ちて夕焼見む よりの行方代表による命名である。そして帯文はこんな風だ。 選ぶとは選ばないこと。あぶない幻影にそっと寄りそってみる。それはまるでフライング ぎりぎりのまぶしさ。合せ鏡に映った影は、虚実皮膜の真実(まこと)かも…… 謎解きのような帯文であるが、すべて作品の世界に触れているものだ。 猫の子や選ぶとは選ばないこと 危ふきに近寄つてみる春の宵 フライングぎみのまぶしさ更衣 秋の暮合せ鏡に何かゐる 初心の頃から空さんは意志と目標をもって私たちの句会に参加しているように見えた。毎回冷静に私の話を聞き、納得のゆかない点は課題として持ち帰り、次の回には一段階歩を進めて俳句と向き合う。ことさら質問が多かったわけでもなく、成績が目立っていたわけでもないのだが、その存在は際立っていた。他の人々とは違うタイプの女性という印象が鮮明だった。その作品を見ているうちに、この人は私にないものを持っている、と思った。理系の女性の分析力と洞察力とでも言えばいいだろうか。冷静なまなざしと把握力を、その作品に感じたのだ。 西村和子さんは序文で関根空さんのことをこんな風に書いている。「冷静なまなざしと把握力」を作品に感じたと。そして「私にないものを持っている」と思ったとも。 夜の雪チェンバロの音の降り積みし 春の夜の骨の痒さよバイク駆る 空あをし山あをし躑躅のみ赤し 走る子の汗なのか涙だらうか 沈むとも浮くとも思ふ春の月 春眠の覚めて誰でもない私 何ものかわからぬほどに枯れにけり 風のいま転調したり水の秋 霜柱工事現場を輝かす 乾鮭の鰓に大きく風の入る もう少し歩いてみよう犬ふぐり 我を待ちをり緑蔭の椅子白く 熱帯魚危ふさに気付いてをらぬ 雲下りて来たるがごとし蕎麦の花 秋の暮母さんは叱るだらうか 滴りて海を離るる初日かな いつまでも子供扱ひ切山椒 恋といふ至上命令鳥交る 泳ぎきてまだ遠い目をしてゐたる 自分で詠んでみると、俳句は結構楽しいものだった。自分の感じたり思ったこと句集『星の舳先』が十七文字にすっと収まると、とても気持ちがよい。写真を撮るように、またそれ以上に、「その時」を残せるのもおもしろい。句会という場も新鮮だった。句集を纏めることになり作業を進めているうちに、これは新しい旅へ出るための準備なのだと思った。年月を経るうちに溜まってしまったあれやこれやを、発掘したりひっくり返したり、懐かしく眺めては時間が過ぎてしまったり、これは何だったのだろうと考え込んだり……一句一句と改めて向き合い、旅の準備が終わった今、私はぽっかりとすこしさびしく、そして清々しい。これからの旅でどんな景色が見えるのか、何を感じる日々になるのか、楽しみである。 「あとがき」の関根空さんのことばである。第一句集の刊行のあれこれは「新しい旅へ出るための準備」であるという。第一句集刊行という新しい旅によって何がみえてくるか楽しみなことだと、空さんは語る。あたらしい気持ちで俳句に向き合う日々となることだろう。 だるまさんがころんだ振り向けば落葉 これは句集の掉尾におかれた作品である。 わたしはこの一句がとくに面白いと思った。 しかし、この句については、西村和子さんが序文で触れている。それを紹介したい。 句集の最後の一句である。「だるまさんがころんだ」とは、子供のあそびのひとつ。木の幹に顔をあてて、鬼が十かぞえる間に、うしろの子供たちが一歩二歩とわずかに移動する。鬼はその動きを目ざとく見つけなければならない。すばやく「だるまさんが」を唱えて振り向くと、そこには落葉だけが降っている。動くものは落葉だけ。いるはずの子供たちも、何故かこの句からは見えてこない。他愛ないあそびの情景であるのに、心に伝わってくるのは、黄落の木立の静けさと、淋しさと、虚しさ。とり残された鬼。俳句は、ある意味ここから始まる。四十代の作品をまとめた空さんが、ここからさらに歩み出すことを信じている。私も落葉を浴びながら、共に落葉を踏んでゆこう。 とてもいい序文の結びだ。「黄落の木立の静けさと、淋しさと、虚しさ。とり残された鬼。俳句は、ある意味ここから始まる」そして「共に落葉を踏んでゆこう」と。西村さん、カッコよすぎません。と言いたいくらい。 しかし、そういうことだと思う。孤独の認識から表現行為は出発するのだ。 この句集の装丁は和兎さん。 ご本人の希望をとりいれた装丁となった。 図版がおもしろいでしょう。 この句集の担当はPさん。Pさんの好きな句を聞いてみた。すると、 猫の子や選ぶとは選ばないこと 「猫を選ぶときってそんな感じでしょう」とPさん。うーん、確かに、そうだった。 わたしの好きな句は、「だるまさん」の句だが、ほかに面白いとおもったのは次の二句。 はじめからひとりだつたか芒原 顔見えぬ友と遊べる秋の暮 不思議な句だ。この句どこかシュールレアリスムの画家たちの絵のあれこれを思い出してしまう。そして孤独感がある。しかし、その孤独感はクールで乾いている。 そこが魅力だ。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、染谷秀雄句集『灌流』より。 高稲架やひとつ開けたるくぐり口 稲穂の波が刈り取られ、乾燥させるために稲架を組む。5段も組めば大人の身長はゆうに越え、規則正しく組まれた黄金の巨大な壁が出来あがる。一面の青田も、稲穂も、そして稲架もあまりに広大すぎると、まるでもとからそこにあったかのように景色に溶け込んでしまうが、高稲架にくぐり口を見つけた途端、ここを行き来する人の生活が飛び込んでくる。この広大なしろものが、すべて人の手によるものであったことに気づかされる。ひ弱な苗から立派な稲穂になるまでの長い日々が、そのくぐり口からどっと押し寄せてくる。苦労や奮闘の果ての人間の暮らしが、美しく懐かしい日本の風景として見る者の胸に迫る。〈月今宵赤子上手に坐りたる〉〈鳥籠に鳥居らず吊る豊の秋〉『灌流』(2013)所収。
by fragie777
| 2013-09-17 19:09
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