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8月10日(土)
昨夜はいつにもまして夜更かしをしてしまったせいか、眠くて仕方がない。 それでも日中はいろいろと用事があり、あちこちと忙しくしていた。 遅い昼ご飯は淡々麺と氷あずきを食べた。 ことし初の掻き氷である。 天然の氷を使っているというその店の掻き氷はおいしいと評判らしいが、掻き氷の美味さというのは、どういうものかよくわからないので、たとえば口の中での解け方がなめらかとか、ほかのものより一段と冷たいとか、あるいは歯ごたえがちがうとかあるんだろうが、何しろ今年初めてでしかも無味無臭の氷である。いったいどんな角度から美味いヘタを追求すべきなのかよくわからないまま、氷あずきを食べ進んだ。しかしかなり甘い。とうとう食べきれずに残してしまった。 わたしが思うに、掻き氷の美味さというのは、氷の美味さを問うというよりそれを食べる状況が問題だ。冷房の効いたこ洒落た店の高い値段の大盛りのかき氷などよりも、海水浴場などで食べる掻き氷の方が断然美味い。素足を砂に汚しながら硬い椅子に水着のまま座って眩しい海を眺めながら食べる。炎天下、魚のようにずぶぬれになって掻き氷をパクパク食べる、これがいっとう美味い!!。 俳誌「銀化」(中原道夫主宰)の15周年号が送られてきた。そのなかに「登四郎から受け継いだもの」という特集があり、俳誌「沖」で能村登四郎に学んだ俳人たちがそれについて寄稿しているのを興味深く読んだ。寄稿者は、大牧広、今瀬剛一、筑紫磐井、正木ゆう子、大島雄作の五人の各氏である。すでに皆一家をなしている俳人たちである。それぞれ面白かったが、筑紫磐井さんと正木ゆう子さんの寄稿の一部を紹介したい。 まず筑紫磐井さん。 おそらく、登四郎門にあっては、決定的切れ字に弱い・切れを無視するという系譜が生れている。登四郎の子供たちの遺伝子といえるかもしれない。 「切れ字に弱い」理由をこう記している。 (略)さてこうした俳句を近代化しようという能村登四郎の伝統作家としての実作面での試行錯誤として、切字の排除、切れの排斥があった。伝統俳句の盟友である草間時彦が石田波郷の師系を継いで切字を大切にしたのに反して、登四郎は極力切字を使わないことに意を注いだのである。 と記し、登四郎の作品を若い頃から晩年までをあげてそれを立証する。さらに驚いたのは戦後の代表作家の飯田龍太もそうであったと俳句をあげて記していることだ。そして、 ことさら切字、切れのない作品を選んだと思われるかも知れないが、むしろこの時代の作家たちはこれが主調音であった。あそらくそれは、桑原武夫の第二芸術論のトラウマであったようだ。俳句に現代を読むことなどできはしないという桑原の指摘に対し、俳句に現代を読もうとしたがため、(新聞記事のような)散文を俳句形式の中に盛り込んだから、勢い、切字も切れもない文体にあるに決まっている。しかし、こうした覚悟があったからこそ、(俳句らしさを保証する)切字や切れを抜きにして、独自の俳句世界を作り出せたのであった。 この文章につづく福永耕二の処女句集をめぐっての中村草田男の俳人協会賞の選考の際の判断(反応)など、へえーそうだったのか、と興味深くよんだのだった。 そして正木ゆう子さんの「登四郎から受け継いだもの」だ。 正木さんはこう書く。 選句をするとき、人事句をよく選ぶという癖である。(略)師自身は人事句の多い俳人であった。だからこそ「沖」は「「人事句の沖」と言われもしたのである。(略)讀賣俳壇の選を引き継いで十二年。毎週毎週、投句者からの葉書の奥に人生を読み取って倦むことがないのも、人事句の「沖」育ちのゆえかもしれない。それならば選句の姿勢こそは師から受け継いだものとも言えようか。 そして、「自分が師として弟子に伝えたいことは何か」という問いについて、 弟子のひとりも持たない身ではその問いに答える資格はないが、不特定の若い人たちに何かを伝えるとしたら、「一人でいること」と烏滸がましくも、ここでは書いておこう。いつも賑やかに弟子に囲まれていた登四郎。しかしやはり私にとっての登四郎の本質は、破蓮に向かって一人立つ師であり、月明に一人立つ師である。その孤影にこそ、私は死ぬまで憧れつづける。 「一人でいること」 これには、はっとさせられた。 表現する、ということの核にふれたことばだ。
by fragie777
| 2013-08-10 20:28
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Comments(1)
Commented
by
山咲臥竜
at 2013-08-10 21:05
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正木ゆう子氏の手紙(拙句集への返信)より 「どこにも所属しないというやり方は、潔く孤独な道ですが、それもひとつの選択と思います」…私も最後は自分を信じるより術はないと思います。
・自我のなきものは去るべし青嵐 鷹羽修行
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