カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
8月7日(水) 立秋 涼風至
その横には葛の花が咲いていた。 猛暑の日々であるが、武蔵野郊外は秋がはじまっていた。 昨日会った若き友人は、素晴らしかった。 昨日のわたしの情報はかなり違っていて、彼女はいま世界一周の途上にあって日本の実家に立ち寄ったのである。 ニューヨークのキャリアウーマンだった彼女は今年の3月で7年間働いていたコンピュータ関係の会社をばっさりと辞め、仕事で貯めたお金を資金に世界一周の旅を企画したのである。 大きなリュックを背負っての一人旅である。いわゆるバックパッカーである。 一年かけて世界を回るという。 すでにグアテマラから始まり中央アメリカをとおり南アメリカを制覇している。 「ペルーが特に素晴らしかった。縦長なので国自体がいろんな顔をもっていて豊か。じゃがいもがとても美味しかった!」 「できるだけ飛行機には乗らず時間をかけても地上を移動して行くことに決めた。その方がお金がかからないし面白いよ」 ということ。 「今までにコワイ目に遭わなかった?」とわたしがおそるおそる尋ねると、 「いまんとこはないかな……」とにっこり。 「おおよそ一日に使うお金はどのくらいって決めてるの?」 「日本円で5000円くらいかな、もちろん宿泊費も含めて」ということ。 (そりゃつつましい旅行だわ) 高給取りだったらしいけど、「会社辞めたこと後悔していない?」と聞けば、 「ううん、今は辞めてよかったと思ってる」と再びニッコリ。 もうこうなるとわたしは単なる常識人のおばさんに過ぎない。 はればれと目の前にいる若き女性を讃嘆の目でひたすら眺めるしかない。 明日は中国へ向うという。 中国をゆっくりと旅しその後は東南アジアへと向う。 リアン、あなたの前途に祝福のすばらしい風が吹きますように……。 新刊紹介をしたい。 中原道夫著『百句百話』。 ともかくも美しい本である。 装丁は間村俊一さん。 中原道夫さんの主宰誌「銀化」に「自句の回廊」という一ページのコーナーがある。 8月号で116回となる。その100回目までを一冊にしたのが本書である。 中原道夫による自句自解である。 この「回廊」の部分である、自句にまつわる世界がともかく面白い。濃密でいろんなものやことがらがぎゅうぎゅう詰めにひしめいていてそれがすべて中原道夫の細胞のように思えてきてもうこれは中原道夫の世界としかいいようのない濃厚さである。 自句自解は謂わば〝蛇足〟のようなものである。 とは「あとがき」の言葉であるが、いやはや「蛇足」とは怖れいる次第だ。そしてあくまでも自分のための「覚書」であると言い放つ。 その「蛇足」やら「覚書」やらが読者を圧倒させてしまうのだから、これはもう心憎いとしかいいようがない。 贋物と思ひはじめし朝寝かな 平成八年『銀化』所収 骨董は立派な病気だ。出来れば患うことなく過せるに越たことはない。しかし、そんな人生、酒精を飛ばした酒を飲んでいるようで寂しい。古物に興味のない人は「そんな古ぼけたものの何処がいいんだね」と宣(のたま)う。そこで窮してはいけない。「旦那だって、家に帰れば立派な出自の古物をお囲いになっているじゃありませんか」「エッ、確かにあれは古物、あちこち傷んで金接ぎにでも出さないとと思っているところだ」「でも永年可愛がりますと、貫乳だとか雨漏りだとか化けましょう」「…」。女性の骨董蒐集家(コレクター)というのは希有である(白洲正子とかは例外と言って良いし、向田邦子だって、生活雑器であって大博奕打っていた訳ではない、そういえば下重暁子が趣味が昂じて骨董店を一時開いていたことはあった)。たまに古物に篏まる女性がいるが得てして男っぽい。男しか罹らない〝病〟だとすると、そうか骨董病は前立腺かぁ─と莫迦なことを言ってみる。その病も本物になるまでに、贋物を幾度か掴まされて、腸が煮えくり返ったり、肝を冷やしたりの連続である。その揚句、あの世へは持って行けないと来ている。生きているうちの慰みものだということ。本物は本物、贋物にはなれない。がしかし、贋物はひょっとして本物になる可能性はある。 蛤のつかひし湯なりうす濁る 平成八年『銀化』所収 昨今の蛤は何処で採れたものか、出自の定かでないものが多くて、少々頼むにも怯んでしまう。疑えばキリがないので、諦めて食べたいときは食べる。蛤吸が白く濁るのは肉に含まれる琥珀酸の所為であると聞く。清酒にもその琥珀酸が含まれているから、例えば鮑の酒蒸しをすると二者から出た琥珀酸で乳白パール色の汁が取れる。浅草の「松波」では蒸し鮑を頼むと、小さなリキュールグラスでその煮汁を出してくれる。その味と言ったら、海のものからも何故酒精を探さなかったのかとディオニソス(酒の神)が臍を噬(か)むような味である。ほんのりと海の味が味蕾を擽る。禁断の味と言っても良いくらいだ。目の高さまで、グラスを持ち上げて、半分残した煮汁を暫く眺める。まてよ、この光彩を放つ液体を何処かで慥か見ている。そう、希臘の銘酒ウーゾに氷片を落としたものに酷似している。ウーゾは生(き)の儘なら無色透明であるが、氷で割ると俄に白濁してしまう。氷片だと半透明、怪しく琥珀酸の様相となる。このウーゾの少々甘ったるい茴香(ういきょう)の香が古くから珍重されてきたのは、多分にディオニソス的(夢幻と陶酔への手引)だからであろう。しかし未だにこの双方を合体させて飲み干したことはない。 「きれいな本になって嬉しい」と中原道夫さんも装丁の間村俊一さんも口をそろえた。 わたしも嬉しい。 この装画は分かる人には分かるとおもうが、ボッティチェリの「マニーフィカトの聖母」の一部である。間村さんの手によって見事に新しい意匠となって登場した。 間村俊一さんの装丁は本をつくるわたしたちを限りなく挑発し刺戟する。 わたしたちはそこから学ぶことがたいへん多い。
by fragie777
| 2013-08-07 20:02
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||