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5月16日(木)
朝の7時に愛猫のヤマトに起こされた。 (ああ、そうだ。ヤマトに起こしてって頼むのを忘れてた……、でもさすがである。ちゃんと起こしに来てくれた) というわけで、今朝どうにか「薔薇の旅」を決行することができたのだった。 (その代わり、「大地の会」に注文書を出すことをすっかり忘れた……) どの家の薔薇もすでに盛りのときは過ぎて老残の姿をさらしつつある。 (まっ、こうやって薔薇を見ている人間とはよく響き合っているのですが……) 黄色の薔薇があるはずだが、もうその姿はどこにもなかった。 花は衰退の兆しがあらわであってもその香りはなかなか濃厚だ。 朝のひとときを薔薇の香りにつつまれて出社するというのも、悪くない。 明日のブログでわたしがいちばん好きな薔薇を紹介しますね。 フフフフフ…… おたのしみに。 (あれっ、去年もこんなこと言ってたかもしれない、まっ、いいや) 新句集が出来上がった。 私家版であるのでオンラインショップには紹介されていない。 宮武章之(みやたけ・しょうし)句集『松山城』。 帙(ちつ)という函入りの凝った本である。 しかも文庫本サイズという小さな本だ。 著者の宮武章之氏はすでに亡くなられて、句集『松山城』は遺句集である。 亡くなる前に句集をまとめようとされていた宮武氏の思いにご家族ができるだけ応えようと、この度の本の刊行となった。 宮武章之さんは、若くから俳句を学び、品川柳之、富安風生、岸風三楼に師事、俳誌「青山」(山崎ひさを主宰)同人として多くの句友たちに敬愛された俳人である。 山崎ひさを氏が序文を、小宮山政子さんが跋文を寄せている。 宮武章之さんとの風交は、すべて岸風三樓先生に始まる。二人ともども若くから風三樓先生に学び、一貫してひたすら風三樓門に終始したからである。初めてお会いしたのは昭和二十五、六年の頃と記憶している。以降同じ風三樓門に在って、俳句精進の道を共に歩み続けて来た。それに加えて同じ職場に働くご縁が重なった。章之さんが、教職から望んでNHKへ転じられたのが昭和二十五年。そしてそのあと、昭和二十七年に、私も電波監理委員会を辞して、NHKへ転出した。それから平成二十四年四月まで、俳句と職場と二重の結びつきの中で、風交の歳月を重ねて来た。 山崎氏の序文からである。俳句と仕事において60年以上にわたる交流の日々であることがわかる。そして句会における宮武氏の選について、「冒険句をつくれ}と題し、このように語っている。 毎月の句会において、章之さんの選句は、ほかの誰とも違う、独自のものがあった。通じて型にはまった句、出来上った句は余り採らないのである。むしろ冒険した句、発想の新しい句、荒削りだがどこか見所のある句を主に選句されていた。(略)。自信の冒険句を誰にも採って貰えぬまま披講が進み、終りの頃になって章之選で息を吹き返す、そんな経験を誰もがした筈である。反面、披講がすべて済んで、頼みの章之選にも採って貰えない。そんな冒険句は、作者の手許でもう一度吟味し直す必要がある。 咳をして庭師のすでに来てゐたり 部屋よりも外あたたかき垣手入 バスの中で妻と会ひたる日永かな 着ぶくれてパソコンの世に遠く居り 寝返れば春曙の波の音 死の話してゐて花野尽きにけり 汗の帽とりて火口の底覗く 妻かなし遠ひぐらしが聞こえぬと 障子張り替へて使はぬ一間あり 先生の周りにはいつも人があふれていた。それは先生が誰にもお優しかったからでもあるが、それ以上に先生の温かさが人々を惹きつけて止まなかったからといまあらためて思う。先生は放送記者のトップとして鋭い批判精神をお持ちだったが、どんな時でも、最後までご自分の意思を押し通すということはなさらなかった。そして常に弱者にお優しかった。 こう書くのは跋文を寄せた小宮山政子さん。 先生は八十七歳でお亡くなりになってしまったが、米寿記念に句集をお出しになるおつもりで、準備が着々と進んでいた。ご遺言によりご遺稿を整理中に、令嬢の中條あゆみさまが、先生のノート数冊を発見。そこには毎月の青山投句その他の作品が手書きされ、下部にチェックが入っていた。つまり平成二十三年分までは選句がお済みだったのである。句集『松山城』はそのご選句を中心に、山崎ひさを「青山」主宰、そして奥様、あゆみさまのご選句をいただき、「青山」連衆、「沾」メンバーなど、宮武章之先生を慕うたくさんの人々のお力を借りて、仕上がった。題名「松山城」は章之先生ご自身の命名である。そしてこの素晴らしい装幀も故人のご希望であった。 ふたたび跋文より。「この素晴らしい装丁も故人の希望」とあるが、実はこの帙の函をつくるのはたいへんだった。東京都内では、この技術をもった職人さんはおらず、担当スタッフの愛さんがいろいろと捜して京都にその職人さんを見つけたのだった。まったく〇からやりとりになるので、頻繁に確認をしながら進めていったのだった。 なかの上製本は並木製本のつくりである。 装丁は君嶋真理子さん。君嶋さんらしい品のいい渋さに出来上がった。 「社会の役に立つ仕事に就きなさい」「良い友達とつき合いなさい」と祖父が亡くなる四日前に話してくれました。思春期でも反抗期でもある私にはストレートに響いた言葉でした。(略)祖父は亡くなる前日、「幸せだった。ありがとう」と言ってくれました。私は祖父が亡くなった時は学校に居たので最期まで一緒にいることは出来ず本当に辛くて悲しかったけれど、これからもずっと私を見守ってくれていると信じています。おじいちゃん。ありがとう! 人中に着ぶくれ孫の絵の前に 湖五月さざ波はみな我に寄す 枯菊をきれいに刈りて妻元気 卓上に蜜柑が一つ初昔 夏菊や短く泣きて納骨す 明易し引越しの荷の中に覚め 死後も湧く清水ならむと汲みにけり 長生きのおまけの朝寝してをりぬ 潮騒や蚕豆の花地に低く 窓がふと明るく春の雪止みぬ 早いもので宮武が世を去ってから、もう一年近くが過ぎました。結婚してから五十八年、五十九年目に入ったばかりなのに、たった八日間の入院で、あっけなく去って行きました。亡くなる前日に 死仕度入りたる世のさくらかな の一句を残し、家族が集まった時に、身内や今までお世話になった方々によろしく伝えてほしいと言い、家族一人一人と握手して倖せな人生だった、ありがとう の言葉を残しました。八十七歳でした。 寄鍋やいづれひとりとなるふたり この句を想うと涙が溢れます。でも心配はしないで、鍋の時は娘一家と一緒です。 宮武氏の奥さまの逸子さんの文章を抜粋した。 亡き人への家族の愛、夫婦の愛、師の思い、句友の思いの結晶としてこの度の宮武章之氏の句集『松山城』は出来上がった。 美しい仕上がりを天上の宮武氏は喜んでくださっただろうか。 この本はなんといっても職人さんたちの技が必要とされた本づくりとなった。 細部にわたって神経が行き届いているものだ。 その上にとても小さな文庫本サイズのものだ。 ちなみに、 宮武さんを敬愛する方々の熱い思いによって実現した句集『松山城』である。
by fragie777
| 2013-05-16 20:38
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