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5月11日(土)
この辺は武蔵鐙の群落となっているのだそうだ。 今日は久しぶりに庭の木々たちに水を与えた。 するとその後1時間もしないで、雨が降り出した。 ええっ!! そんなものなのよね。 新刊句集を紹介したい。 大沼正明句集『異執』(いしゅう) 。大沼正明さんの27年ぶりの第二句集となる。収録句数はおよそ800句近い大冊である。第一句集『大沼正明句集』はいまやなかなか手に入りにくい。夏石番矢、江里昭彦、大石雄介の三人の俳人が栞をよせている。 できることならこの本の紹介は避けたかった。 なぜならとてもわたしの力量を超えているからだ。 しかし、ふらんす堂で刊行した書籍は原則としてこのブログで紹介をする、ということに決めているのだから避けるわけにはいかない。 いずれこの句集を語るに相応しい人たちによって「ふらんす堂通信」で評して貰いたいと思っている。 さて、タイトルの「異執」とは、 過日、気紛れに仏教書を齧っていた折、「異執」という語に出会った。一義に、正論から外れた見解を立ててこれに執着することとある。ならば、生来のひねくれ者の句集名には打ってつけではあるまいか。 という「あとがき」に基づく。 われ最年少満州引揚者塩辛蜻蛉(シオカラ)と 句集の後半におかれたこの句は大沼正明という俳人を語っている。「あとがき」でもそのことは書かれているが、「旧満州生まれの最年少引き揚げ者」であろうとうことだ。このことは大沼正明の詩人としての資質を決定づけているように思える。時間的にも空間的にもその視座は日本という枠組を超えているように思える。 夏石番矢は栞にこう書く。 俳句とは、実は、大胆な異体の言語パフォーマンスを試みる短詩であり、一句中のことばの流れや中断が、つねに実験的であるから、短さが生きるジャンルである。この根本的俳句詩学が、句会が氾濫する現在の日本で忘れられているのは、奇妙としか言いようがない。この句集『異執』の題名は、まずもって、異体の言語パフォーマンスという俳句詩学に固執する大沼自身のマニフェストである。 そしてかつて大沼とともに旅した中国体験について語り、 日本人が近世までは一方的に崇拝していた文明大国である中国の、きわめてドライでときには野蛮で残酷な現実。あまりに雑多で、自らの欲望に正直な人々が多いので、この広大な領域を統治するには、強硬な方針を打ち出さざるをえないこと。それでも、統制の笊の目が粗いので、疎漏が少なからずあること。主義や思想が、声高に唱えられる割には、信じられていない。全般に、環境は日本よりも劣悪。しかし、その劣悪に負けず、人々はたくましく生きている。(略)大沼の世界像というよりは、私自身の粗末な中国観を述べたにすぎないが、矛盾の奇怪な大きなかたまりである中国を包括できる世界像は、日本語で十分に表現できないかもしれない。そういう世界像は、異体のパフォーマンス言語で、その異体を最大限生かして表現するのにふさわしいのではないだろうか。 と書き、「おおらかな童心が大沼の世界像の中心軸かもしれない。」と。 この句集を読んでいくと、難解な言葉が頻出し、広辞苑をしらべてもわからないことも多い。夏石さんはインターネット検索で解決したものが多かったとも書いている。しかし、余談だが大沼正明はパソコンに触れさえしないまったくのアナログ的人間である。 この句集の作品の多くは言葉遊びのようにみえて、それを夏石さんは「異体のパフォーマンス言語」といみじくも言ったのだと思うが、実は背後にはいろいろな世界の闇がひしめいていている。たとえば、「黒孩子」という言葉をご存じだろうか。 地虫ノデクノボー我ト黒孩子(ヘイハイズ)ト東ニ この句には注がつけてあり、「黒孩子=一人っ子政策により戸籍に載らないまま生活する人々」とある。わたしは更に知りたく、ネット検索をしてみた。 「黒孩子」 いまや経済大国の中国の悲惨な闇がうきぼりにされる。恥ずかしながらわたしは「黒孩子」という言葉を始めて知ったのだった。 第1句集『大沼正明句集』を高く評価する栞の執筆者の江里昭彦はこう書く。 大沼の姿勢が一貫しているのは、彼の思考と感覚とが、独自のリズムでもって世界を捉えようとするとき、確かな手応えと快感を覚えるからだ─私はこう信じてきた。だが、『異執』を読むと、大沼は状況がもたらすかなり厳しい風圧のなかに置かれているらしい。そこで、いまはこう付け加えるべきではないかと思うようになった。─『異執』の尋常でない文体は、すなわち思考と感覚とがつくりだす尋常でないリズムは、かかる風圧に耐え、それをちょっとでも押し戻すために、欠かせない防御の武器として、大沼の手に残されているのではないか、と。 そして、さらに、 生き延びるために、ただ生き延びるために、必要とされる文体が、そして俳句が、ここにある。 と。 もう一人の栞の執筆者は大石雄介。大沼正明がもっとも信頼を寄せ、俳壇から姿を消したのちもなお20数年間にわたって「DA句会」でともに作句してきた俳人である。 大沼は歯痒いほどにシャイなのだ。かの社会性などの旗をかかげる者たちのように正義や愛や何やかやを決して声高に主張することはない。その如何わしさを熟知しているのだ。その一方で大沼は、傲岸なほどに誇り高いのである。俺をお前たちと一緒にするな。お前たちに分かってたまるか、という一面がある。この矛盾がエネルギーとなって、俳句を書く内圧を高めているのである。この内圧があの異形のものたちを生みだしたのである。そしてその 異形のものたちによって救済されることになったのである。 栞の一部を引用しただけなので、十全ではないのだが、「シャイで傲岸」であるということは、今回大沼正明という不思議な俳人にふれてそれは実感した。電話でのやりとりだけであるが、可愛らしくサービス精神に富んだ方のように見え、しかしその背後にある不遜なまでの誇り高さをわたしははしばしに感じとったのだった。 「俳句にすべてをかけている」 と電話の向こうで笑いながら穏やかに言う大沼正明、彼を支えているものは何なのだろうか。 「含羞と傲岸」 この矛盾がエネルギーとなって、俳句を書く内圧を高めているのである そうなのかもしれない。 この句集の装丁は、和兎さん。 句集をつくるにあたって、大沼さんよりの条件があった。 それは、大沼さん所蔵の装画を使うこと。現代美術家吉田克郎のドローイングを使ってほしいということだった。 かつてふらんす堂より『俳句・イン・ドローイング』という本を刊行したときにお二人はその参加者だった。その時に購入し気に入っているドローイングであるということ。吉田克郎氏はすでに逝去されている。 帯にもドローイングを印刷した。 わたしの好きな句を一句のみ紹介すると。 小さな天の尻餅のような文鎮ください 「小さな天の尻餅」とはなんと素敵な……。 これは事件である。この原稿を読みはじめると、すぐその思いを強くした。 と大石雄介さんは栞の冒頭に書かれたが、ふらんす堂にとっても 大沼正明句集『異執』(いしゅう)の刊行はひとつの事件である。
by fragie777
| 2013-05-11 20:49
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