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11月10日(土)
気持ちのよい青空が広がっている。 京王線沿線にある府中市美術館でいまポール・デルヴォー展をやっている。明日で終ってしまうので行って来た。 ポール・デルヴォーを知ったのは、その絵画を見たことより先に澁澤龍彦のエッセイで知り興味を持ったことにはじまる。澁澤龍彦の描くポール・デルヴォーの作品世界があまりにも強烈だったのでその絵に興味を持つようになった。しかし、思いこみというのはコワイもので、今日の展覧会で澁澤龍彦を通してのポール・デルヴォーとはいささか異なるポール・デルヴォーという画家を知ることになったのだった。これはもうわたしの独りよがりな思い込みであったのだが、「孤独な画家デルヴォーは生涯独身を貫き、彼の描く裸体の美女たちはすべて彼の母親の顔である」とはわたしの描いたデルヴォーだった。しかし、彼は確かに極度のマザーコンプレックスだったかもしれないが、生涯にわたって二度の結婚をし、そのうちの一人の女性は母親以上に彼に大きな影響を与えた人物である。大学教授もやり、96歳まで生きた一人の精力的な画家の姿がある。 しかし、わたしのなかにすり込まれた神話、極度に内気で孤独のなかにこもり切って母親の顔をした裸体の美女たちを冷たい光を放つ幻想の世界のなかで描き続けたという甘美な倒錯の神話が、えらくわたしの気にいるところとなっていたのだった。 シュールレアリスムによって開眼したポール・デルヴォーをポール・デルヴォーたらしめる作品とは異なるさまざまなデルヴォーの作品を今日の展覧会で目にすることができたのはおもしろかったが、瑣末な部分をはなれてみれば、やはりポール・デルヴォーという画家の本質にふれているのは、かつて読み大きな衝撃を与えられた澁澤龍彦のポール・デルヴォーであると思う。作品がそれを語っているのだ。 少年時代の抑圧された欲望が、孤独の夢想が、いまや、この画家の唯一の導きの糸となった。絵画を変革するという大胆な意図は他人にまかせておいて、彼はひたすら、自己の内心のヴィジョンを具象化し得る、唯一の造形的言語を創り出さんと志したのである。夢想家であるとしても、彼はロートレアモン伯の非論理や狂熱とは無縁な人間であり、むしろヴァレリーの方法意識に近いものをもった、冷めた夢想家である。エロティシズムの画家であるとしても、彼はバルティスの苛立たしい、熱っぽい、陰気な快楽を思わせる少女嗜好とは無縁な人間であり、むしろフランドルのきびしい写実の伝統に忠実な、凍結したエロティシズムの画家である。(略)デルヴォーの女たちは永久に現世の恋の快楽を味わうことができず、つねにイリュージョンだけで満足していなければならない、不幸な女たちである。逸楽を望んで得られず、やむを得ず純潔を持している、傷心の女たちである。そしてデルヴォーのエロティシズムは、燃えようとして燃えることのできない、不毛のエロティシズムである。この裏切られた期待を表現した、ほとんど象徴的なシーンが、デルヴォーの絵に、あれほどノスタルジックな情緒を添えるのである。「ポール・デルヴォー、夢のなかの裸体」より。 「エペソスの集いⅡ」 右端におかれた鏡のようなものは、透明なガラスが貼られているようにも見えるが実はよく見ると鏡のように何かを写し出している。 ようく見ないと見過ごしてしまう。それほどうっすらと描かれている。が、確かにあるのだ。それは。 澁澤龍彦言うところの「冷めた夢想家」「凍結したエロティシズムの画家」「不毛のエロティシズム」という言葉はデルヴォーとその作品世界を見事に語っているのではないだろうか。
by fragie777
| 2012-11-10 18:02
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