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9月27日(木)
すっかり肌寒くなって、しかしわたしはまだ衣替えなどできていないのでこのところクローゼットの前で何を着ようかしばし迷う日が続いている。考えても仕方がないのでともかくもジーンズを履くことを決めジーンズだとしたら白のTシャツかワイシャツかと迷い、結局アニエスbの定番の七分袖の、この夏さんざん着倒してヨレヨレになっているTシャツを頭からかぶった。それだけでは寒いのでもう7年くらい着続けているベージュの麻のジャケットをその上に羽織ることにした。このジャケットは丈が短めなところが気に入っているのだ。今の季節にはちょうどよい着心地だと思っていたら、スタッフのPさんから、「もう今の季節、麻はちょっといただけないんじゃないですか?」ってさっそく突っ込まれた。「あははは、そうよねえ」と笑ったものの(いやなところをついてくるな…)と実は(麻の季節じゃないよな)とは思ったのだったが、なにしろクローゼットのなかは夏物がぞろりとあるばかりなので、どうしようもないのよ。今日の夜中に少し衣替えをするか…… 今日の讀賣新聞の「俳句時評」で仁平勝さんが、峯尾文世句集『街のさざなみ』を友岡子郷句集『黙礼』(沖積舎)とともににとり上げている。タイトルは「感情を普遍化する『虚構』」だ。 俳句は、日常の風景やできごとに多く題材を求める。ただし、そこで詠まれる題材が、なまの事実から虚構のほうへ飛躍する契機たないと、詩にはならない。、峯尾文世句集『街のさざなみ』(ふらんす堂)は、その「飛躍」の仕掛けにかなり意識的である。それはたとえば、事実を述べる文体を変えずに、言葉をすこしスライドさせることだ。「夕鐘の色しみわたる夏座敷」の句では、事実を伝えるなら「夕鐘」の「色」でなく、「音」だし、逆に「色」なら、「夕鐘」でなく「夕焼」だろう。それを「夕鐘の色」というふうにスライドさせると、鐘が夕焼色に染まってくる。または、「花嵐居留守のごとき修道院」。「留守のごとき」ではまず比喩にならないが、「留守」を「居留守」にスライドすることで、「修道院」の想像がぐっと膨らんでくる。併せて「花嵐」にも喩的な効果が生まれる仕掛けだ。とりわけ「母の箪笥にまだ語られざる花野」がいい。下五の「花野」で一気に虚構へ飛躍し、箪笥から母の(秘密?)の人生ドラマが溢れ出してくる。「虚構」の意味を誤解されたくないが、嘘のことではない。いうならば、個人的な感情を普遍化するためのアダプターである。 友岡子郷句集『黙礼』については、一巻の底に死者との対話というモチーフがある。亡き師飯田龍太への追慕、先立っていく友の追悼、先立っていく友の追悼、東日本大震災の死者の鎮魂。そうした個人的な感情を、普遍化するモチーフといえる。「遠蜩何もせざりし手を洗ふ」「遠蜩さらに遠きは聞こえ来ず」「津浪跡こころに虻の音一つ」などをとり上げて評している。 「現代詩手帖」10月号では、関悦史さんが「俳句観測」という連載で、対中いずみ句集『巣箱』をとり上げている。タイトルは「静かさという世界への通路」。 陰鬱で、苛立たしい世情が続く。事故収束の目途も立たないうちの原発再稼働、デフレ下での消費増税、TPP、ACTA、生活保護バッシング等々と矢継ぎ早に繰り出される生活・安全破壊の動き、そして危険な世論誘導ばかりを続けるマスコミと、日々の内部被爆の不安、テリー・イーグルトンが『テロリズム』の中で、ベンヤミンを引きつつ書いていた《ファシズム下における人間の自己疎外は「みずからの破壊を、第一級の快楽として経験するところまで来たのである」》という言葉をすら思い出す。徴兵制の復活までが現実味を帯びてきつつある。そうした中、本欄で何を取り上げるべきか考えているうちに、次第に浮上してきたのが、対中いずみの、第二句集『巣箱』だった。世相との関係は特になく、社会的な素材を句にするタイプでもない。だが、この句集が心の中で浮上してきたというのは、その一見おとなしい、みずみずしく清潔な自然詠に慰籍を覚えたからではない。六年前の、第一句集『冬菫』に《雪兎おほきなこゑの人きらひ》の句を持つとおり、対中いずみの句は声高なるものを俊拒する。そして夭折した田中裕明の衣鉢を継ぎ、この世の静かなものたちに材を取りながら、天界的な別の秩序の裏打ちを引き出してみせる一種のグノーシス性を持っている(略)対中いずみのしずけさは、抒情による領土化と自足ではなく、世界に潜在する多様な驚異を窺わせることに奉仕する。そこには概念的で短兵急な仏教語などの入る余地はない。 書き出しのインク濃かりし青嵐 なみなみと水鳥に闇迫りけり ものの芽や記憶の層といふところ 猿酒やきのふひんやりしてきたる 君折し氷柱に気泡ありしこと 落ちてより日のあたりたる椿かな 夏痩せて時計の多き家に住む やうやくに鵜と判じたる屏風かな 雪折の枝を返せば苔の青 照り翳りはげしき磯に遊びけり これらの句をひたす水気には、情の湿気よりも、むしろ鉱物的静謐が感じられはしまいか。 ほかに水野真由美著『小さな神へー未明の詩学》をとりあげている。前衛俳句の幻想的表現を読むにも、時代に巻き込まれる人々の実在から手を放すことがない。 「俳句」10月号では、掛井広通句集『さみしき水』を広渡敬雄さんが書評している。全文を紹介できないが少し紹介したい。タイトルは「さみしさの深まり」 身の芯にさみしさの壺清水飲む 金魚飼ふとはさみしさを飼ふに似て さみしさにこつんと当たるしやぼん玉 掛井の根源的なテーマなのだろう。〈水中花水をさみしく隔てをり〉(『孤島』)では、水から無意識に隔てられる疎外感こと水中花と言い、「さみしさ」とは、集団の中で味わう自身の違和感をも代弁したが、掛井にとって「さみしさ」は、これまでの人生に於いて大きな関心事であり、これからもさらに自身に問い続けるテーマであろうか。掛井の寡黙さは、既に伝説化しつつあるが、それは彼が俳句というツールをもってのみ対外的な発信をなそうとしているからにほかならない。(略) 火の消えてなほ火の匂ひ秋の暮 雹が降るはじめ鉄火の匂ひして 冬麗の石を拾へば石匂ふ 前句集から僅か五年だが、さみしさの深まりがより感じられる句集である。それは、青年のナイーブな感性のさみしさから加齢によるやや翳りがかいま見られるさみしさである。しかし、掛井にとって、このさみしさは愛すべき満たされた至福の時間なのかもしれない。 おなじ「俳句」10月号で、「現代俳句の開拓者」という連載で押野裕さんが第三回田中裕明賞について触れている。そして第三回田中裕明賞を受賞した関悦史さんの句集『六十億本の回転する曲がつた棒』について論考している。俳句を引用しながら関悦史の俳句世界へ肉迫しようとするものだ。 おなじ「俳句」10月号。山口優夢さんの「月評」で、対中いずみ句集『巣箱』が評されている。 君折りし氷柱に気泡ありしこと 下五は「ありにけり」、「ありしかな」、「あるといふ」、「あるものを」などいろいろ考えられる中でおそらくは最も息づかいの小さい〈ありしこと〉という止め方をした。しかし、声が小さい分、微妙な含意がそこに生まれる。「君は気づかなかったのかもしれないけれど」、それはかすかな罪の告発ででもあるかのように。そしてどこか恨みがましくさえあるかのように。「ありし」の「し」は、思えば過去を示す助動詞「き」の連体形である以上、氷柱の気泡は折られることによって消えてしまったことを意味しているようにも思える。小さな儚い世界を愛おしむ彼女の目線は、どこか内向的に閉じてゆくようでもあり、悲しみが感じられる。 書き終えた! 今日はずい分書いたなあ…… キイを打ち続けたわたしの10本の指をいたわってやろう。 うち間違いがあったらお許しくださいませね。 じゃ、衣替えをしに帰ろう。 ああ、疲れた。
by fragie777
| 2012-09-27 19:58
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