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4月25日(水)
今日は支払日である。 仙川にあるほとんどの銀行を制覇する(って言ったって長い列のいっとう後に並んだり番号札を貰って呼ばれるのを待つのですけど)半日となった。 スターバックスを中心に点在する銀行群、あちらの銀行こちらの銀行と行ったり来たりしながらわたしは今日スターバックスの前を4回通過した。一度目、知っている男の子がスターバックスの外の椅子にすわってなにやら一所懸命勉強をしている。声をかけようと思ったが止めた。二度目にとおったときもまだ本の上にうつむいている。三度もあらまだいるじゃない。携帯をさわったりしている。やはり声をかけなかった。四度目はさすがにもういないだろうと思っていたらいやまだそこにいて今度はなやらノートに書き込んでいる。あれこれと資金繰りのことなどを算段していたわたしには、その存在はどんどんと現世から遠くなっていくようで、声をかけてもきっと届かないだろう。あるいは彼にはわたしの姿がすこしも見えないかもしれない、そう思いながら今日の最後の目的地である三菱東京UFJ銀行へと急いだのだった。 新刊の現代俳句文庫70『藤本美和子句集』を紹介したい。 第一句集『跣足』と第二句集『天空』と『天空』以後の作品を選出して400句が収録されている。第一句集『跣足』は、第23回俳人協会新人賞を受賞した句集である。師である綾部仁喜ゆずりの「切れ」と「省略」が一句のなかにふかぶかとある句が多い。 間をおいて答返りぬ寒の内 湯に水を足しゐて四万六千日 水音を踏みて青きを踏みにけり 青空のなかなる春の氷かな はればれと佐渡の暮れゆく跣足かな 敗荷のこぼせる水の響きなり 大空の明るく暮るるお年玉 山彦は大きかるべし麦の秋 いちにちの映つてゐたる金魚玉 烈風に鷹の眼を据ゑにけり ひとつまみ塩加へたる寒さかな 大年のかたはらに鳥止まりけり 杉山のにほへる月を待ちにけり 箱庭の外なるものはそよぎけり くちぼそといふ魚の名に澄みにけり 湖にさしかかりたる千歳飴 手折りたる草に音ある九月かな 天空は音なかりけり山桜 をさなごを抱へあげれば盆が来る 邯鄲を聞く二の腕の濡れやすし 秋澄むと紙風船に穴ひとつ 風呂敷に四隅がありて桐一葉 てのひらをひらけば雨や三の酉 一滴のうすくちしやうゆ緑さす にはとりのあひだをとほる七五三 手首までつつこむ水の端午かな 俳句を語るに「間(ま)」という言葉を用いたのは長谷川櫂であったと思うが、藤本美和子の俳句は、一句を分断する切れが深くそれが間(ま)をつくりだしている。その間こそ俳句という韻文が生み出すふかぶかとした時空だ。その時空をたっぷりとたたえてしかもすっきりと観念的にならず物を詠んでいる。だからいやみなく読者のこころに入ってくるのだ。そして詩情がある。その詩情とは、俳句という韻文のみがつくりだせるところの詩情だ。「省略と切れ」という俳句の骨法が身体に沁み込み、俳句の韻文性と型を心より信頼している作者の力が気持のよいほどに発揮されている句集だ。一読後こころにのこる清爽感。しかしこの作者が抱えている時空は大きくて深い。それを物をとおして表現しうることができるのが俳句の力だ。それを一句一句の作品をとおして藤本美和子は実現してみせる。その「物」に寄せる作者の心根は優しくてあたたかい。 解説は大木あまりさんと千葉皓史さん。第二句集『天空』の寄せたものである。 天空は音なかりけり山桜 句集名ともなったこの句は、技量の冴えと、俳句の詩としての普遍性を感じる。大空と山桜の壮大な景を描出して、静けさの中にも何かが始まる予感をさせる句だ。人間の存在が限られた時間であるのに対し、大空を流れる時間は無限。それ故、水辺の狩人は、「昨日の我に飽ける人こそ、上手にはなれり」と謙虚に、これからも、俳句への果敢なる挑戦を続けていくことだろう。誰にも狩ることのできない詩を狩りながら……。 「水辺の狩人」と題した大木あまりさんの一文より引用した。 旧年の大きな月があがりけり 天空は音なかりけり山桜 俳句以外の何をもってしても成し得ない世界である。確かな実践ともいえるが、あらためて「純粋俳句」とは何か。「純粋」も「俳句」も、おのおの異なる生まれを持つ言葉である。「俳」とは、戯れることであるという。「純粋俳句」とは、純粋に戯れる、ということ。美和子氏は、大げさなものにはむしろ無関心である。その眼差しから、一生活者としての素心の光が失われたことはない。韻文性の追求に際しても、自身の息使いが俳句形式そのものとなるのを待つ、という風である。『天空』の読者はおのずとこの経過に立ち会い、素心を通じてもたらされたものの確かさを実感するだろう。 「純粋俳句」と題した千葉皓史さんのことばだ。 句集には藤本美和子による「綾部仁喜論」を収録する。 秀抜な仁喜論であるとわたしは思う。タイトルは「秋ちかき心の寄や」。芭蕉の「秋近き心の寄や四畳半」を引用し、この句を師の綾部仁喜が好きだということが語られている。このへんのくだりの一文も興味ふかいのだが、ここでは次の一文を引用したい。 手をあげる高さに寒の明けにけり 仁喜 当時、「俳句研究」では「新刊句集渉猟」というページで文字通り新刊句集を「俳」と「研」という匿名子が対談する企画がなされていた。そこでもやはり掲出句が「わからない」という具合に語られているのが興味深く、心に残っている。綾部にそのことを伝えると、ただにこにことするばかりで、首をちょっと傾げてみせるほどの反応だった。今でもやはりこの俳句はわかりにくい部類に入るだろうか。おそらく「手をあげる高さに」と「寒の明けにけり」を一元的に繫げ、読み下す形をとってしまうと、わかりにくい。「手をあげる高さに寒なんて明けるかしら?」というのが一般的な解だ。ただ、「手をあげる高さに」で一端切れを設けて、ひと呼吸おいて読んでみるとどうだろう。さほどの違和感は感じないのではないか。これが仮に同様の季節感を表わす「春の立ちにけり」「春の来たりけり」ではつきすぎである。「寒が明けた」という、「寒」という言葉の裏に晩冬の「待春」や「春隣」の季節感がたっぷりと感じられてこその妙味なのである。その春を待つ心が「手をあげる」という仕種によって具体化されただけのことだ。しかしながら、こんな解釈を最も喜ばないのが綾部であることも勿論承知している。ただ、「ああ、寒が明けたナ。そう思ってもらえればいいんだよ」という答えが返ってくるに違いない。 興味ふかく読んだ。やはり「切れ」と「間」が大きく横たわっていると思う。師の綾部仁喜が「や・かな・けりを疑つたことはない。なるべくものを言ひたくない者にこれほどうつてつけのものはない」と語る俳句の韻文たることへの信頼を、藤本美和子が理解し継承していくことを見事に語ってみせた一文だ。「切れ」によって生じる、合理性を弾き飛ばすような間(ま)あるいは不思議な瞬間性、それを理解しうるのは、「四畳半」に集う仲間をして可能であるというものだろうか。 すこし長い紹介になってしまった。句集を拝読して清々しい感動をおぼえた句集だった。 正面をはづして滝を仰ぎけり 美和子
by fragie777
| 2012-04-25 20:09
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