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11月7日(月)
この日は雨の一日となり雨にぬれたさまざまなきれいな紅葉を見た。 大垣城を出て水草のそよぐ川に沿ってずっと歩いたのだが、湧水がいたるところにあり、大垣市は豊かな水の町だ。 昨日の自分の書いたブログを読んであきれてしまった。 せっかく大垣市に行ったのだから、もう少し芭蕉のことに触れればいいものをタラタラをどうでもいいようなことを書いている。 あんなに芭蕉の句を見たのだから、(いたるところに芭蕉句碑があるのだ…、ちょっと辟易するくらい、ごめん、芭蕉さま。)すこしはそういうことに触れてもいいものを本当にお恥ずかしい次第である。 で、有名な「むすびの地」の一句をここにご紹介します。(って、いまさら、なんて思わないでくださいませ。) 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (はまぐりのふたみにわかれゆくあきぞ) ちょうど「行く秋」の季節だったので、何かしみじみとした感慨がある。(いくらなんだってそのくらい情緒はわたしにだってある。) 「むすびの地」にはこういう像がたっています。あんまりいい写真じゃないんだけど……。 俳人の人たちは結構「奥の細道」を歩いている人が多いので、この場所を訪ねた人は多いと思う。 ゆえに、yamaokaのこのお粗末な報告はてんでなってないと思うかもしれないが。お許しを。 さて、新刊句集を紹介したい。 野口明子句集『青黛』(せいたい)。精鋭俳句叢書" serie de la fleur"のシリーズの一環として刊行。序文は山下知津子氏、栞は中嶋鬼谷氏。俳誌「麟(りん)」(同人代表山下知津子)に所属する。 押隈の青黛滲む夜の秋 句集名となった句だ。序文で山下氏は「青黛」の意味について句を鑑賞しながらこう説明している。「押隈は歌舞伎俳優などの舞台化粧である隈取りを布や紙に押しうつしたもの。青黛はその藍色の顔料である。滲んだ藍色が夜の闇に溶けてゆき、闇もまた青味を帯びてゆくようで、美しい清涼感を湛えている。」丁寧に書かれた序文を読んでいけば著者野口明子と言う人の人となりがきわやかに浮かびあがってくる。ひととおりの要約をすれば、東京の神田に生まれキャリアウーマンであり、一方茶道華道など多彩な趣味をもち料理の腕はなかなかで食べることが大好き、そして粋な情緒を愛する生粋の江戸っ子である、ということになろうが、いやいや俳句はもっとこの著者のありようを力強くあぶり出す。この度の句集はその野口明子という人間のいきている様(さま)が迫ってくる。 緋の房の胡弓に春を惜しみけり 雪舞ふや指広げ持つ筒茶碗 切山椒路地に神在る日本橋 螢放つ銀座一坪半の闇 駄菓子屋につくだ煮各種夏柳 はたた神高層ビルに吸はれゆく 父祖の地の東京が好き初芝居 するすると桃剝けて鬱深まりぬ 熱帯魚ゆらりと検査結果待つ 屠蘇酌むや修正液の取れぬ指 バナナ一本仕事始の助手席に 残業のだんだん無口十三夜 たらば蟹捌く荒波めく刃毀れ 手首まで入れ鮟鱇の腹さぐる 四次元へ巣を張る冬の女郎蜘蛛 ほうたるの点滅右脳鍛ふべし 柿食うて四つは浮かぶ星座の名 古びたる鼓にはつと寒の息 如月や鴉の腋の濃むらさき 身ぬちよりしろがねの風芒原 明子さんは既成の俳句的情趣にとらわれることなく、自身の裸眼でまっすぐに実直に対象を見つめ、あくまでも自身の素手を通して実感し、それをムードに流されることなく虚飾なく真率に表現する。その結果一句に骨太なリアリティーと確かな手触り感、実体感がこもる。対象が明確な輪郭をもって立ち上がり、真面目と言えるような存在感を見せてくるのである。 山下知津子さんの序文のことばだ。「既成の俳句的情趣にとらわれることなく」という指摘はその通りだと思う。他の誰でもでない野口明子という女性の現実が俳句のことばによってふたたび構築されたのだ。 栞を寄せた中嶋鬼谷氏は、句集『青黛』のなかの一句に注目する。「私という読者の心に最も深く浸透した一句」として。 風花や市聖(いちのひじり)の臑細き この句における「市聖」とは、十三世紀初めの頃に運慶の四男・康勝(こうしょう)が刻んだ木造の空也上人立像のことであろう。像高一一七・六㎝ 、京都・六波羅蜜寺蔵。作者は風花の舞う厳冬の頃、六波羅蜜寺を訪ね、この称名念仏の立像の前に正坐して拝んだのだろう。そうしなければ、「臑細き」という、対象によせる愛(いと)しさともいうべき表現を得ることは出来まい。(略)一句は「臑細き」という、たった一言によって、凍土の上を、草鞋を履き、杖をつき、鉦を叩き、念仏を唱えながら、よろめくように歩いてゆく上人の姿をあざやかに描き出す。吹きつける風に流れる風花が、歩み去る上人のうしろに小さな渦を作る様さえ見える。作者は対象から本質的なものを見抜こうと、こころを傾けて作句する。その凝視の対象が作者の内面に語りかけてくるとき、右のような秀句となる。次の作品も、雛によせる作者の慈しみのこころが生んだ秀抜な表現による一句である。 指細くして飾りゆく雛調度 ある日突然俳句を作ってみたくなった。それは「無門」の仲間であった今井聖氏が、俳誌「街」を創刊する時でもあったので、投句を始め、私はやっと俳句の道に一歩を踏み出すことになった。 「街」の句会や吟行で山下知津子さんに親しくしていただき、代表として同人誌「麟」を創刊される時に私も参加し、今日までご指導いただいている。俳句を始めた時期は遅かったかも知れぬが、この時だからこそ「麟」の方々ともお会いできたのである。皆、各結社で勉強されていた実力者ばかりで、お目にかかる度に良い刺激をいただいている。 これは「あとがき」のことば。染谷佳乃子という俳人のお母さまの下で育ちあらゆる豊かなものをお母さまより吸収して今の野口明子さんとなられたわけだが、俳句をやってみたくなったのも少女時代からお母さまの熱心な姿をみて育ったということが大いに影響していると思う。 日本の伝統的情操を豊かに身に秘めつつ、現代の東京という大都会で働きながら生きる女性として、明子さんはますます豊かに羽搏き、比類のない表現世界を切り拓いてゆかれることと思う。 再び序文のことばを引用する。 わたしは次の一句が好きだ。掉尾に置かれた一句である。こんな風を詠んだ俳人がかつていただろうか。 大鷹の首すぢを風吹きわけぬ 今日の「増殖する歳時記」は、清水哲男さんによって、保科次ね子句集『しなやかに』より。 サイドカーに犬マフラーをひるがへし (略)私はすぐに、マフラー姿のスヌーピーがバイクを飛ばして得意になっている図を連想した。ただスヌーピーとは違って、現実のこの犬は、どんな顔をしていたのだろうか。まさか得意顔ではないだろうし、むしろ迷惑そうな顔つきだったかもしれない。だとすれば、哀れでもあり可笑しくもある。あれこれ想像できて、愉快な一句だ。『 と清水さん。スヌーピーを想像するなんて、と思ったがたしかにスヌーピーは赤いマフラーを巻いていた。スヌーピーだったらいささか得意気にと思ったりするがほんとはどんな犬だったのだろう。先日の大木あまりさんの句といい、舌をだしたりマフラーを巻いたり、犬は俳人たちに恰好の句材を提供している。 で、こちらは猫。 野良猫の風格満々だ。
by fragie777
| 2011-11-07 19:56
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