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9月2日(金)
実はこの時母鴨は激流を飛び越えて一段高い流れに飛び乗ったのだ。 それに従って子鴨たちも挑戦したのだが激しい流れに押しかえされてどの子鴨も成功しなかった。 その後どうなったかは知らない。 台風が接近しつつある。 今日は「ふらんす堂句会」の高柳克弘教室である。 熱心な方々がお見えになることだろう。 どうぞ帰りの道が穏やかなものでありますように。 新刊句集を紹介したい。 青山茂根句集『BABYLON』(ばびろん)。 バビロンへ行かう風信子(ヒヤシンス)咲いたなら この句集の最後におかれたこの作品に拠る。 いまtwitterなどでおおいに話題になっている句集である。 著者の青山茂根(もね)さんは、俳誌「銀化」(中原道夫主宰)同人、俳句同人誌「豈」に所属している。序文を中原道夫さん、栞を櫂未知子さんが書いている。 中原道夫を代表とする「銀化」という結社がめざすもの、たとえばそれは「俳と詩の相剋と融合および個性の形成」というような言葉で語られたりするわけだが、そのなかなか厄介な目標をしなやかに実現してみせたのが青山茂根のこの句集ではないだろうか……。 読み応えがある。 いはれなくてもあれはおほかみの匂ひ らうめんの淵にも龍の潜みけり 蹴爪にて露の深さをはかるべし 偶像は捨てよ胡蘿蔔(にんじん)太らせよ 大いなる謎とメロンは棚にあり 塔あらば千の虫籠吊るしたし 蜻蛉の翅を集めて遺稿とす 絨緞をまるめ国境越えゆけり ひきかへに十の空蟬さし出しぬ 鍵失ひて空蟬へ帰れざる 蟻地獄あらば母性を投げ入れむ かはたれと問ふ木犀と答へあり ほほづき鳴らす楽園を知らずして 第一章の「砂塵」よりいつくかの句を抜いてみた。 青山茂根の句は総て何処かエスニック、無国籍風の匂いがするが、殊更、それらしい言葉を駆り立てている訳でもなく、実景を踏まえている確かさがある。青山茂根の〝こころ〟は〈帰巣〉に対して〈彷徨〉という相対する〝力〟が引き合う。言い替えれば〈日常〉に対して〈非日常〉、別けても異郷への憧憬故の振幅が大きい。そして、季語の本意を盲信せず、自由な解釈の上に成立させ、奔放不羈な徜徉で、詩的世界を拡げることを目論んでいるようだ。 序文の中原道夫さんのことばだ。「無国籍の匂い」とあるが、栞でも櫂未知子さんがこのように書いている。「タイトルは喪失者の翼」だ。 作品を読み進めていっても、読者には作者がどこの国の人なのか見えてこない。それは、ごく伝統的な(と思われる)季語が、はなはだ予想を裏切るかたちで処理されているからである。たまたま日本語で作品をつくってはいるけれど、どこの国の人だと思われても結構、という腹の括り方が見えてくるようだ。たとえば、書名になった〈バビロンへ行かう風信子咲いたなら〉や、〈座礁せしまま緑蔭の木椅子かな〉といった作品を読むと、この作者は、永遠に得られない故郷を見据えながら、生きているのだなということがわかる。日本だろうが、海外だろうが、あるいは地球の外だろうが結果は同じ。生きることは失い続けることだと知り尽くした者ならではの、諦観とは違った静かなまなざしがこの句集にはある。 国境を越えし波あり麦の秋 西へ西へと向日葵を倒しつつ 風葬の一族にして夜業人 ざらついてゐてふくろふの枕辺よ 最果ての地にも蒲団の干されけり さういへば武器を持たざる焚火かな サンドイッチはらり倒れててふてふよ 野の花を集めしほどの水着かな 波音のする香水を買ひにけり Z I P P O 拾ふはんざきの重みとも セイウチの眼に雨の虚子忌かな 六月の背広は魚影かもしれず 握手せし手に三伏の砂少し 下着ほど白き新日記をひらく 泣き声のせしかまくらを訪ねけり 菊人形の中にアダムとイヴ探す 季語の用い方が何と言っても圧倒的に面白い。しかしこの作品は青山茂根の肉体を通過した内実のある風景なのだ。だから読み手の胃の腑までとどく。作品を読んで行って著者には独特な身体感覚があると思った。 蜘蛛の糸はき出すやうに髪洗ふ 臨終の手が風船を得し如く なきがらに磯巾着をまとはせむ あしゆびをすふがごとくにぶだうかな 秋虹へつながつてゐる臍の緒よ 殴られし頰陶枕に沈めけり 足首をつかまれさうな紅葉かな 梅雨茸といふうたかたを踏みてより はくれんやうたふくちびる吹かれをり 陶枕にしづくの如き頭かな くちびるはつぶやきつづけゑぶみかな 汐干にも似てハモニカを探す指 耳奥や蚕の住まふほの湿り 面白い句が並ぶ。「青山茂根の俳句における身体論」というテーマで評しても面白いんじゃないかってわたしは思う。 「青山茂根には居場所がない」と栞で櫂未知子さんは書く。青山さんと共にずっと俳句をつくってきた櫂未知子さんの栞は良き理解者としての愛情にあふれたものだ。 この世に魂の安らげる場所などない。地上にも空の上にも、彼女の心が無防備になれる場所など、ない。しかし、だからこそ、五七五の世界で彼女は自由になれる。定型という不自由そうな枷の中で、初めて翼を伸ばす彼女が見える。 そしてもう一人の良き理解者の中原道夫さんは序文の最後にこう書く。 最後の最後に置いた句が総てを語っているではないか。風信子(ヒ ヤシンス)が咲こうとて、到底辿り着けない楽園(俳句の暗喩でもあるのだが)〝安息国〟は彼の地理学者ヘディン(Sven A.Hedin 1865 ~ 1952)の見たロブ・ノール(鹹湖)の様にじっとしてはいないようだ。何を好んで、と言われそうである。不確かな手掛りを頼りに茫邈たる沙漠を行くことになるのだろう。青山茂根の〝旅〟は今始まったばかりである。 この句集を担当したのは愛さん。愛さんには懐かしい作品がいくつかあったようだ。それは、かつて「ふらんす堂句会」で中原道夫さんが講師だったころ、青山茂根さんがその句会に来ていたのだ。愛さんはその句会のお世話係をしていたのだ。とりわけ思い出に残っている作品が次の一句であるということだ。 らうめんの淵にも龍の潜みけり この句集に「あとがき」なるものはない。 作品が終った次のページに一行、 砂上に落ちた、一枚の青い陶片のように とある。そして、著者略歴の次のページにも一行、 俳句で出会えた全ての方々と風景に、感謝を込めて。 この二行で著者の意はすべて言いつくされている。
by fragie777
| 2011-09-02 19:39
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