カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
4月18日(月)
この「地獄の釜の蓋」の俳句はないかといくつかの歳時記をあたってみた。大きな歳時記を三冊あたったのだが、「地獄の釜の蓋」でも「きらん草」でもその項目さえ立項されていない。ふらんす堂にある各俳人の季語別句集もさがしてみた。しかしこの季題を俳句にしている俳人がいない。『季語別 後藤比奈夫集』をあたったところ、なんと後藤比奈夫氏はどちらでも詠んでいた。 きらん草古代紫展げけり 比奈夫 人待ちの色の地獄の釜の蓋 比奈夫 もうすぐ出来上がる対談集『後藤比奈夫×中原道夫 比奈夫百句を読む。」で、後藤比奈夫氏が「いろんな季語に挑戦していきたい」と話されていたことに深く納得したのだった。 新刊句集を紹介したい。 鈴木典代句集『桜貝』。ご結婚を期に句集の刊行を決めたという著者の第一句集である。鈴木典代さんは、俳誌「雉」で林徹に師事し俳句をはじめ林徹亡きあとは今の主宰田島和生のもとで俳句を学んでいる。田島和生主宰は、この句集に序文を寄せている。 典代さんは平成二十一年、「雉」新人賞を受賞したばかり。いわば、新進気鋭の作家である。しかも、母の鈴木厚子さんは第十四回俳句研究賞を受賞し、評論書『杉田久女の世界』を世に問うなど大活躍である。目下、「雉」の編集長として采配をふるっている。 とあるように、環境にめぐまれた鈴木典代さんに大いなる期待を寄せている。28歳から俳句をはじめた典代さんにていて「平成二十二年間の十年間。句歴はそれほど長くはなく、句柄を少心配していたが、作品を拝見し、全く杞憂に過ぎないことが分かった」と序文に書いている。 いくたびも母は露台へ後の月 残業や豆名月の水たまり 乳鉢に薬擂りをり春の雪 マスクして渡す大きな薬袋 広島生れで広島に住む著者は忘れてはならないことを詠む。 広島忌黒き泥より蟹生まる 炎天や原爆ドームの釘曲がり 星飛ぶや祈りの列に我も付き などこの他にも多くの句を詠んでいる。「桜貝」という集名は、 桜貝ひろふ真白き貝の上 よりの命名である。新しい人生のはじまりに向かって立つ著者には真っ白なページが目の前に開かれている。弾むような喜びも伝わってくる。 紙雛のやはらかき眉母に似て 仙人掌や朝日とびつく銀の棘 師の骨の大きく白し秋の風 紙雛海月の上を流れけり 天の川父の大きな笑ひ声 教壇へ春泥つきし靴のまま 清明や秤に光る粉薬 十五夜や婚礼の椅子並べゐし 自然の美しさに目を止めたり、日々の仕事も俳句に詠むようになり、静かな心が持てるようになりました。今後も、真っ直ぐに物を見つめて作句していきたく思っています。 「あとがき」のことばである。結婚後も俳句を続け、「歳時記が、そばにある生活を送りたい」とも記している。この句集の担当は愛さん。 初笑腓(こむら)の美(は)しき父ころび が好きな一句とのこと。句集を読んでみると祖父、祖母、父、母とご家族を詠んだ句が圧倒的に多い。家族を愛すること人一倍の鈴木典代さんであるからこそ、きっと新しい家庭も大事にされていくことと思う。 鈴木典代さま、この度の第一句集の刊行そしてご結婚、おめでとうございます。心よりお祝いを申し上げます。 昨年の10月に詩人の野木京子さんのエッセイ集『空を流れる川―ヒロシマ幻視行』を刊行させていただいたが、おなじ年の11月4日に同志社大学において野木京子さんによるこの本の記念講演が開催されたことはすでにこのブログでも紹介した。わたしもそれを聞きに伺ったこと記した。今日その記念講演のページがふらんす堂のホームページに設けられた。「ヒロシマの声に耳をすます」と題したこの野木京子さんの講演を是非読んでいただきたいと思う。 →http://www.furansudo.com/event/nogi/index.html 「原子力発電」の問題がわたしたちの目の前に大きく立ちはだかっている今、「ヒロシマの声」はわたしたちに大切な何かを伝えてくれるのではないか。わたしたちが忘れてはいけないことをわたしたちは忘れつつあるということも……。 長くなってしまったがもう一冊新刊を紹介したい。 樋口由紀子著『川柳×薔薇』である。著者の樋口由紀子さんは俳誌「豈」に所属している川柳作家である。この本を読んでわたしは正直おどろいた。「川柳」というものに自分が漠然と抱いていたイメージが一蹴されたといってもいい。「川柳」は「俳句」と並ぶ最も小さな詩形の言語表現であるということだ。俳人の池田澄子さんが帯文を寄せている。 情に食い込む知、そのことで情と知は発熱し合い、増殖する。自身へ他者へ向ける、時に刃めく鋭い言葉は、川柳を愛し川柳に愛されていることで醸されて香る。その香はきっと誰かを巻き込み、その人生を狂わせる。 「人生を狂わせる」ような「川柳」であることが、この一書を読むと実によく分かる。それほど「川柳」は「波風立たない人生」から「波風荒れ狂う魂の領域をつくりだしてしまう」ようなヤバイ文藝であることが樋口由紀子という川柳作家をとおして語られていくのだ。樋口さんのことばにかけるエネルギーもすごい。「俳句」という文藝がもっているストイシズムなど蹴飛ばしていくダイナミズムと言ったら俳人に叱られてしまうだろうか。帯に引用した樋口さんの文章をあらためてここでも引用したい。 川柳は精神の有り様や心の葛藤、動作、様子、行為のおもしろさ、ごくごく個人的すぎる場所からも書くことができる。素材にしても、言葉にしても、敬遠するものが少なく、何の抵抗もなく一句に注入し、侵犯することができる。洗練されないことによって立ち上がり、そのことがかえって、その存在を強固なものにする。大人の判断で書かない方がいいと思われることや暗黙の了解で触れないことになっているものも、川柳では堂々と書いていくことができる。読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである。 「洗練されないこと」というのが面白い。「洗練」を拒否することによって見えてくるものや言い得るもの、それが川柳の魅力のひとつなのだ。わたしは樋口由紀子さんのこの評論をよみながらつまるところ、川柳にかかわるかかかわらないかは、「洗練されないこと」つまりは「野暮をひきうける」ことができるかどうか、それがけっこう大きいんじゃないかと思ったりしたのだった。 「洗練されないこと」によって展開されていく表現行為の力はそらおそろしいまでの状況へのあるいは人間への批評力となるんじゃないかと……。川柳は花鳥を諷詠することでは決してなく、その対極にあるものなんだろう。川柳はあくまで人間に収斂していくものであると。 ともかくも読みごたえのあるおもしろい本である。 樋口由紀子さんの川柳を紹介したい。 わたくしと安全ピンは無関係 へだたりは空室なのか満室なのか わたくしの生れたときのホッチキス むこうから白線引きがやって来る 壺いっぱいのグラジオラスは反省する ケチャップは鼻の頭につけるべし アフリカの王ならくよくよはしない 俳諧やつつじの漢字がむずかしい 足の指ひろげてみるとペルシャ湾 自分の事情でも状況でもなく、そのときの「私」が今をどう認識し、感じているのかを意味に重きをおいて表現していきたい。意味は鮮明でもつかみどころのない、収斂も着地もしない。そのようなところにも踏み込んでいきたい。謎もその魅力的な一つである。意味にこだわるのはすでにあるものに対する居心地の悪さからで、その違和感が私の表現の軸になる。何かへんだという微妙な意識のずれや感覚が川柳を書かせる。 「意味は鮮明でもつかみどころのない、収斂も着地もしない。そのようなところにも踏み込んでいきたい」と。 そうか、それもまた川柳における表現行為なのだ。 ともかくも「川柳」のもつ世界は広い。 ってこんな月並なことしか言えなくて申し訳ない……。 このブログをアップしてから、そうだ「川柳×薔薇」のタイトルの所以について書くことを失念していた。 とこう書いてもとりたてて書くことはないのだ。 「何故×薔薇?」 っって、タイトルを聞いたときに思った。が、樋口さんにその理由は問わなかった。 あえて問わなかったというより質問することを忘れていたのだが……。 しかし、この本を読み終えるとそのタイトルの所以がなんとなく分かる、そんな気がした。 タイトルの理由を知りたいかた、是非に読んでください。 それでもわからない場合は、樋口さんに尋ねてみてください。 わたしには聞かないでくださいませね。 じゃ。
by fragie777
| 2011-04-18 20:03
|
Comments(2)
Commented
by
ovni
at 2011-04-19 08:25
x
いつもたのしく拝読いたしております。
昨日の欄にこれがあったので、調べてみました。 手持ちの「花の歳時記」(講談社)に掲載されてました。 きらん草古代紫展げけり 比奈夫 のほか、 きらん草オルガン洩るる礼拝堂 大塚敏子 また踏んでをりぢごくのかまのふた 石田郷子 きらん草地を這ひははの国までも 野口翆千 大きな歳時記でも草花に関してはなかなか出ていませんね。 鍵和田ゆう子監修のこれは、とても重宝しています。 それにしてもいつもお忙しいご様子、お身体お大切に。 の
0
Commented
by
fragie777 at 2011-04-19 11:40
コメントを有り難うございます。
そうでしょうねえ、「花の歳時記」にはきっと掲載されてますね。 残念! ふらんす堂には全部は揃ってませんでした。 こういうときにあると便利な一冊ですね。 (yamaoka)
|
ファン申請 |
||