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4月17日(日)
風邪が抜けきらず昨夜から今日にかけてふたたび咳がひどくなったので、今日は約束をとりやめてお布団のなかで団子うさぎのようになって一日中眠って過ごした……。 団子うさぎ←(今考えた造語である。でもなんか分かるでしょ。) というのは嘘です。 そんなわけにもいかず可哀想なyamaokaは、約束はとりやめにしたものの一日のほとんどを仕事場で過ごしたのだ。 宿題の「ふらんす堂通信」の課題があったのである。 ゴボゴボと咳をしながら、ゲラを読んだり、書かなくてはならないものを書き、お昼になったので駅まで誰にも会わないようにコソコソと裏通りを走っていって480円の「ヒレカツサンド」を買い、自動販売機では120円のヴォルヴィックの水を買いそれらを抱きかかえるようにして小走りで仕事場に戻ったのだった。 なんでそんなにコソコソするのかって……、 それはね、わたしがみすぼらしかったからよ。 どうやってもこんな自分って認められない、受け入れがたいっていう日がありません? まったくなってないわたしという存在……。 アイシャドーやら口紅やらを使っても一ミリも進化しない顔、肌は疲れ、肩はうなだれ「あなたは醜い」とわたしの心臓が叫ぶ、そんな始まりの一日。 ゴボゴボと咳をするたびにわたしの身体から若さが逃げていき、わたしはまるで精気を失った老婆のようだ。 それでも仕事はしなくちゃならない。 ヒレカツサンドを左手にもって右手は赤ボールペン、聞こえてくるのは自分の咳の音だけ。 まったく泣けてきちゃうわね。 と、「可哀想な自己アッピール」はこのへんでやめて、新聞の書評を紹介したい。 今日の毎日新聞の書評欄に仁平勝句集『黄金の街』が紹介されている。紹介者は(才)と記されているが、丸谷才一氏とのこと。 季語の使い方が清新で巧妙。 靖国の暑いの暑くないのつて 山笑ふ祖母の断り上手かな 別れるの別れないのと冷奴 弟と母相乗りで茄子の馬 私小説的なデッサンの芸も着実。 数へ日のどこに床屋を入れようか 看板の取れたところに燕の巣 石鹸の新しくなる初湯かな 元日のもう夕めしになつてをり 何だか変に意地が悪くて笑わせる。 アメリカの歌をうたひて昭和の日 清貧は思想にあらず蝸牛 同じく毎日新聞の「俳句月評」では岸本尚毅さんが「形式と意匠」と題して2冊の句集をとりあげている。 一冊目は島田牙城さんの句集『誤植』(邑書林刊)、もう一冊は星野椿さんの句集『金風』である。 どれほど新しいことを狙っても、しょせん形式(大袈裟に言えば伝統)から逃れられない。それが俳句の面白さであり、苦しさや退屈さでもある。そのような問題意識を強く感じさせる句集が島田牙城の『誤植』である。 また人の沁み入るや大芒原 ちりがみを重ねしやうな月あかり など、ほかにいくつかの作品を紹介して、 読者の好悪が分かれるかもしれないが、ケレン味を恐れず、「わかる人にはわかる」という体(てい)のぎりぎりの描写もあり、形式への忠実さと発想の大胆さとのせめぎ合いが一句の内圧を高めている。(略) 一方、星野椿句集『金風』は、形式への信頼の延長線上に新味のある作品が生まれる余地がまだまだあることを示す。「阿蘇寝釈迦日永の雲を遊ばせて」は、阿蘇を涅槃の釈迦の寝姿に喩(たと)える。前田普羅の「春星や女性(にょしょう)浅間は夜も寝ず」と同様、山を擬人化した。「日永の雲を遊ばせて」は悠々たる諷詠である。「犬ふぐり咲く頃に来る薬売り」も楽しい。富山の薬売りがやって来るのが、折りしも犬ふぐりの花が咲く頃なのだ。 そして岸本尚毅はこう書く。 使い古された形式に新しい意匠を盛ることは難しい。難しいが不可能ではない。
by fragie777
| 2011-04-17 22:11
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