カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
画像一覧
|
11月30日(火)
スタッフのカトさんが書店営業をしてさっきもどって来た。 「yamaokaさん! 仁平さんの手書きのポップ好評です!」と嬉しそうだ。 発案者としての手応えを感じたらしい。 そして「坂の上の雲」のテレビ放映にかこつけて正岡子規句集『鶏頭』の注文をもらってきたようだ。 「カトさん、good!すごいじゃなーい!」 とわたしたちが口をそろえていうと、 「いやあ、それほどでも……」とまんざらでもなさそうなカトさんだった。 新刊の詩集を紹介したい。 高橋正英(しょうえい)さんの詩集『CREPITO クレピト』である。 今年の春だったろうか、ひとりの若い僧侶がふらんす堂を訪ねてきた。詩の原稿を持って。なにゆえふらんす堂を選んでくださったのかよくわからないまま、すっきりとわたしの前にいるその青年の話を聞いた。彼はほぼ自身の詩をどういう形で世の中に生み出したいか、すでにそのかたちが頭の中にあるようだった。そして本づくりについてもひとからならぬこだわりを見せた。 本のかたちはB5判変形(かなり大きな本である)、形式はペーパーバックスタイル、手触りのある本であること、印刷形態は活版印刷、それらのことを詩人はのぞんだ。タイトルは「CREPITO クレピト」、ラテン語から派生したもので高橋さん自身による造語のようだった。意味は「音がする、ひびく(がらがら鳴る、ぎしぎしいう、ぱちぱち鳴る、がちゃがちゃいう)と詩の最初のページにラテン語の辞書の一角をきりとったかのように置かれている。 高橋正英さんは京都の大学を卒業してから、僧侶になるための修行をかさねてきておられた。ふらんす堂を訪ねて来られたときは、北海道にあるご実家の寺をつぐためにこれから帰る、そんな時だった。 その詩集がおよそ半年以上の時間をへてやっと出来上がった。 装丁はPさん。 挿画には中世にはその実在が信じられていたという「スキタイの子羊」を使った。その装丁を高橋さんはとても気に入ってくださった。 わたしは詩集『CREPITO クレピト』を手にとった。 ページを開けば、あたらしい世界のことばが瑞々しく立ちあがってくる。 そんなふうに思えた。 そして心が震えた。 そのことばは清らかで美しかった……。 こうして地より涌きいでてきた 清らかなことばで満たされますように あなたの口が縁までひとしく 鳥や虫や花ばなが飲めるほどに満ちますように 夜が明けるころ、起きあがり、からだを洗うためにターポタへと近づいて行った ターポタでからだを洗い、あがると、衣一枚になり、 からだを乾かしながら、立っていた 知られるべきものを知られ 見られるべきものを見られ 麗しい肌をそなえていた 光よ、光よ 夜明けの、ターポタを隈なく照らしながら 増えることも、減ることもなく 進むにも、退くにも 真直ぐ見るにも、あちこち見るにも 曲げるにも、伸ばすにも 食べるにも、飲むにも、噛むにも、味わうにも 立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも 語るにも、黙するにも 傍にいて美しい その光も、もろもろの色を見ることも、やがては、消えるだろう ごつごつとした大きな山の峰の影が、 夕方、地上にかかり、寄りかかり、凭れかかるように 夜を徹し 生まれた場所へと、かえろうとして 始まりから3ページを引用したのだが、詩は、水が流れるようにしなやかにいろんな局面をみせながら多彩に展開していく。 遅くとも10月末までの刊行を目指したのだが、いくつかの予期せぬことがおこり刊行が11月になってしまった。すると高橋正英さんと連絡がつかなくなってしまった。その後わかったのであるが、高橋さんは北海道の山奥の寺に修行に入ってしまったのだ。ご両親でさえ連絡がなかなかとれないという。修業はおよそ12月いっぱいまで続くという。わたしは思案にくれた。せっかくできあがった詩集をどうしたらいいのだろうか……。高橋さんの携帯の留守電にその旨を録音しておいた。その数日後であっただろうか、詩人の手塚敦史さんがある用事で来社された。手塚さんは高橋さんを知っているので、高橋さんの詩集をお見せすると「いい詩集ですね。ことばが立ちあがってくるようです。いろんな詩人の人に送るといいのになあ……」と言う。わたしはその一言に飛びついた。「手塚さん、高橋さんに代わってどなたに寄贈したらいいか考えてくださる?」「高橋君がいいということでしたらいいですよ」わたしは再び携帯に連絡が欲しい旨をいれた。翌日高橋さんから連絡がはいったのだ。携帯もつながらないようなところにいて連絡が遅くなったということ、手塚さんに是非に恃みたいということだった。 翌日手塚さんは友人の詩人森悠紀さんを伴ってふらんす堂に現われた。森さんは京都の大学で高橋さんとも交流があり是非今回の寄贈者についてお手伝いをしたいと申し入れて下さったのだ。 こうして、二人の若い詩人さんの尽力をいただき、詩集『CREPITO クレピト』は、多くの詩人さんたちの元に発送されたのだった。住所がわからなかった詩人については、思潮社の若い編集者出本(いづもと)さんの協力をいただいた。 今も高橋正英さんはきっと厳寒の北海道の山寺で修行をされていることだろう。 しかし、高橋さんから生まれた詩の作品は詩人の手に開かれてあたらしいことばとして読まれているのだ。 詩は高橋さんを離れて、ひとり立ちをして世界を切りひらいていく。 そんな風におもってわたしはなんだか楽しくなったのだった。 仏典から詩へ 帯にはこう書かれている。 27日付の毎日新聞の井上弘美さんによる「俳句時評」では、ふらんす堂の句集が二冊紹介されている。「1961年生まれの有力女性作家四人が、待望の句集を上梓。期待通りの完成度である」とし、岩田由美句集『花束』、名取里美句集『家族』、高倉和子句集『夜のプール』、上田日差子句集『和音』をとりあげ、そのうちの岩田由美句集『花束』と名取里美句集『家族』がふらんす堂刊行のものだ。 岩田由美句集『花束』については、 めつむればくまなく春の水の音 岩田氏は八九年に角川俳句賞を受賞。以後、清新な作品で注目されてきたが数年前に大病に襲われた。『花束』は第三句集、支えて下さった方々へ感謝の念を籠めて命名した。〈秋草の近づけばみな花つけて〉〈糸をつけ鈴をつけ針納めけり〉と、作品世界はどこまでも静謐である。 名取里美句集『家族』については、 露の玉強き光となつて消ゆ 名取氏は、〇二年に駿河梅花文学大賞を受賞。『家族』は第三句集で、〈まつすぐに汐風とほる茅の輪かな〉〈はこべらの返り花にもひざまづき〉など、詩的で瑞々しい作品によって、句集全体に光や風が感じられる。 29日(月)の朝日新聞の「風信」では、小野崎清美句集『白雲を待つ』が紹介されている。 林檎もぐ肘の高さに八ヶ岳 第1句集。小諸生まれの作者は、長野の風景や今は亡き父母をおおらかに詠む。 讀賣新聞の今日の長谷川櫂さんによる「四季」は、山田弘子句集『月の雛』が紹介されている。 しぐれつつ一つ大きく燃ゆる星 星はみな燃えている。冷やかな宝石のようにもみえるのだが、実体は灼熱の火の玉。星の美しい冬の夜、どこからともなく時雨が来ては通り過ぎてゆく。この句の「燃ゆる星」とは夜空のどの星だったか。作者はこの春、急逝。遺句集から。 そして、「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、『能村登四郎全句集』より。 鉄筆をしびれて放す冬の暮 鉄筆とは、謄写版いわゆるガリ版を書く時につかうそれであったということを土肥あき子さんの鑑賞で思い出した。ガリガリといわせて文字を書いた思い出がある。まさに昭和の学校の思い出だ。 あっという間に暗くなる冬の日に、先生たちは学生の姿が消えた放課後の運動場を眺めながら、疲れた腕を伸ばすのだろう。鉄筆から生まれた文字は、読みにくい字であれ、きれいな字であれ、どれも先生の匂いがするようなぬくもりがあった。 と土肥あき子さん。 能村登四郎は、その人生の長い時間を学校の教師として生きた人だった。
by fragie777
| 2010-11-30 20:52
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||