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11月29日(月)
![]() 昨夜のことであるが、テレビで「ライラの冒険」という映画をやっていた。「真理盤」という時計を複雑にしたようなものを読み解くことのできる少女ライラの冒険譚である。原作があるらしいのだが、わたしは映画ではじめて知ってすっかり夢中で観てしまった。 素敵なのはすべての人間にダイモンという小動物が分身のようにいることだ。子どものときはその分身がさだまらずある時は猫になったり鳥になったり鼬のような動物に変身したりで大人になるとそれが定まるというものだ。 わたしも愛猫のヤマトをダイモンのごとくかかえて見入ったのだ。 白熊たちの凄まじい戦いのときには、思わず 「ああ、恐いよう、どうしよう、やられちゃうよう」 と悲鳴をあげテーブルの下にヤマトを連れて隠れたり、戦いに勝てば、 「おうおう、よくやったあ」 とヤマトを高く掲げて観ていたら、そばにいた息子が、 「お母さんは幸せな人生を送っていると思うよ。つくづくとね……」 と笑いながら少し冷やかに言うのだ。 (へっ、) わたしはライラではなかったことを思い出した。 東京郊外の小さな家に住みあくせくと日々の生業に右往左往しているひとりのオバサンだったことを思い出したのだった。 残念。 今日のことである。 おやつの時間にスタッフたちにこの「ライラ」のことを話した。優明美さんとPさんはよく知っていた。 「ダイモンがいるっていいよねえ……」 とわたしはうっとりとして言った。 「わたしのダイモンって何なのだろう…知りたいなあ…っ」ていうと、今度はPさんがしらじらと、 「ホントに幸せな人ですねえ」。と。 (フン、悪かったわねっ) (ちなみににコール・キッドマン演じる恐ろしいほど美しい女のダイモンは金色の猿だ) ビッタシである。 さて金色といえば、新刊の仁平勝句集『黄金の街』を紹介しなくてはいけない。 団塊の世代と呼ばれ心太 第一句目におかれている。 もうこれで決定である。「団塊の世代」が象徴するものをすべてこの句集は背負ってしまうことになる。いや、この句集は「団塊の世代というものは何か」をあらゆるツールを用いながら語っているものなのだとあえて言いたい。ちなみにわたしも見事なる団塊の世代である。わたしが団塊の世代というものをいささか揶揄をこめながら語るとしたら「易しいことを難しく言う季節を通ってきた人間たち」である。 ではこの仁平勝さんの句集『黄金の街』は難解な句集であるか、といえば決してそうではない。しかし、いろんな仕掛けがある。それを仁平さんは「あとがき」にこんな風に書く。 俳諧(つまり俳句)は古来、謎解きの文芸である。謎がなければ、たかだか十七文字の詩など成り立たない。この句集にも、謎がいくつも仕掛けられている。ゴダールの映画に名作のパロディが登場するように、本歌取りもいくつかある。もしその謎がみんな解かれれば、わたしは煙のように消えてしまうかもしれない。 謎解きをしながら読む句集というのも面白い。 目次からしてふるっている。 「世代論 」「風景論」 「恋愛論 」「国家論 」「疎外論 」「肉体論 」「都市論 」「辺境論 」「転向論」 「習俗論」 「祝祭論」 「他界論」 という部立てとなっている。これが句集か…、とあなたが思ったら仁平さんはにんまりするのだ、きっと。 靖国の暑いの暑くないのつて 世代論 秋の夜のサマータイムを聴いてをり 〃 ポスターの森雅之に秋の雨 〃 美しく秋刀魚の骨の残りけり 〃 三島忌のレインコートを始末せり 〃 わたしはもう最初のページを開くやいなや反応してしまう。つまり青春がわっと押し寄せてきてしまうのだ。「靖国問題を考える会」あるいは「靖国ついて考えよう」というシンポジウムや会に参加しその書を読んだあの必死だった時間、サマータイムはジャニス・ジョプリンだ、なんといっても、切なくて胸が引き裂かれる。森雅之という静謐な俳優を忘れないでほしい、作家有島武郎の息子だった。「秋刀魚」と聞けば石田波郷ではなく、きっとこれば小津安二郎の「秋刀魚の味」のことだろう。三島が自決した日、わたしは大学の食堂で安い定食をサークルの友人や先輩たちと食べていた。「三島が死んだ…」誰かが言った。(こんなに明るい昼間なのに……)白い外を眺めてわたしはそう思った。 同世代であるということは、それはいやおうなく時代を共有してしまうことだ。わたしは仁平さんの句集を読んであきらかにその演出にとりこまれてしまっている自分に気づく。ものすごくやばいくらい懐かしいのだ。 ナジャと呼ばれてセーターのいつも黒 恋愛論 豆撒くや鬼の四機を散らさんと 国家論 新涼のバッハ無伴奏チェロである 疎外論 この三句にしたってそう。「ナジャ」と言えばアンドレ・ブルトンだ。学生は分かっても分からなくてもシュルレアリスムを信奉しなくてはカッコ悪い。鬼の四機(機動隊)の恐さって知ってる?彼らはものすごく体格がいいのだ。絶対に負ける。バッハの無伴奏チェロはもう失恋につきものだ。いっそう胸が引き裂かれる。 つまりわたしはこの句集を冷静に読むことができないのである。 しかし、この句集は冷静に読まれなくてはいけない。 異世代の人たちがこの句集をどう読むか……。わたしはそこに興味がある。 何が悲しくて青野に石投ぐる 叔父といふ人が西瓜を提げて来し 春昼の突つかひ棒が揺れてをり 働いて眼鏡のくもる万愚節 数へ日のどこに床屋を入れようか 旧道の大きな家の草の花 婆さんを叱る爺さんあたたかし 猫の子のもう猫の目をしてをりぬ 春を待つかたちに人の列があり 「悲劇はクローズアップでとらえられた人生であり、喜劇はロングショットでとらえられた人生である」というチャップリンの言葉を、ゴダールは好んで引用した。俳句はさしずめ、「カットバックでとらえられた人生」というところか。すこし悲しく、すこし可笑しい。それを古人は「俳諧」と呼んだ。 「あとがき」から引用した。ここに仁平勝の「俳諧論」がある。 集名「黄金の街」にも仕掛けがある。「おうごんのまち」が読み進むにつれて、あの新宿の飲み屋街の「ゴールデン街」であることに気づかされるのだ。本のトレーシングカバーより透けて見えるのはすでにかつての賑やかさを失ったゴールデン街である。「黄金」とはこの句集においてはその輝きをすでに失いつつしかし確実に輝いた時代があった懐かしく淋しい「黄金」なのである。もはやその栄光は戻って来ないのだ。 暗がりへ手をかざしあふ寒さかな 論争の黄金の街(ゴールデンがい)明易し この句集は、「暗さ」や「かたくなさ」が甘美な栄光をともなっていた時代への仁平勝による挽歌なのだ。 「件シリーズ」の一環として刊行。「件」の仲間があたたかな言葉を寄せている。それらもまた仁平勝の愛されるべき横顔を語っている。 句集『黄金の街』は評論家仁平勝の実績とその装丁の所為もあるのか書店受けがとてもよく、書店で平積みにしてくれるところが多い。営業スタッフのカトさんの発案で仁平さん直筆のポップのことばを貰った。 このことばに仁平さんのこの句集への思いの一端が見える。 ![]() 仁平さんの句集が17年ぶりだとしたら、今日来社されたいさ桜子さんは、第1句集より25年以上が経過している。第一句集『さくら』はわたしが前の出版社にいたときに担当したものである。 10年以上の約束の句稿をいよいよいただくことになった。 感慨深いものがある。 ![]() わたしがよく遊びにいく武蔵野の里山の近くにお住まいという。 各新聞などにとりあげられた句集についてはまた明日紹介します。
by fragie777
| 2010-11-29 20:06
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