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11月27日(土)
帰りが遅くなりしかも、松本清張原作のテレビ番組の「球形の荒野」を観ようかどうしようか迷っているうちに時間がどんどん経ってしまった。 結局あきらめてブログを書くことにした。 今日は石田郷子さんの暮らす山里の名栗村を訪ねて名栗観音のある近くの山を歩いた。 紅葉の盛りは過ぎたとはいえときどき火のように燃えている紅葉に出会う。 ![]() 回りの山々が見渡せて気持ちがいい。 ![]() 山はすでに冬枯れの様相を呈している。 ![]() さんざん歩き回って郷子さんの住む「山雀亭」に戻って薪ストーブで身体をあたためる。 干し柿がつるしてあり、その干し柿をひとつさっそくご馳走にる。 ![]() ![]() ![]() 瑞々しい甘さがなんとも言えずおいしい。 二階からねこの「こゆきちゃん」も降りてきて、久しぶりになでさせてもらってわたしはご機嫌だった。 ![]() 夜に仕事場へ行くとやはりいくつかしなくてはいけないことがありそれらを片付ける。 図書新聞12月4日号が送られてきた。 野木京子著『空を流れる川―ヒロシマ幻視行』の書評が掲載されている。評者は松本潤一郎さん。「言語労働者」と肩書きがある。はじめて見る肩書きであるが「言語労働者」とは面白い肩書きだ。「言語」を用いて仕事をする人間はあまねく「言語労働者」だ。そういうことから言えば、詩人も俳人も小説家も評論家も「言語労働者」であることになる。 タイトルは「片仮名の地またはかくれんぼの本」とあり副題は「現在に測鉛を下ろすこと、見えないものを見、聴こえないものを聴くこと」とある。筆者は、「ヒロシマ」という片仮名表記に着目する。本来なら全文を紹介したいところであるが、パッチワークになってしまうことを許されよ。 通例、漢字で綴られる地名が、片仮名で記される。そのことによって、ある異化作用が生まれ、経験は表記に託される。その地名が初めて片仮名で刻まれたその日その瞬間の感覚、怖ろしい経験の一つの様相がある表記に込められたときの〈始まり〉の思いを、現在を生きる私たちの方から遡る、あるいは沈潜するようにして、現在の中に探しにゆくことができる。そのようにして経験は私たちの身体に逆流し、現在を生きる私たちにおいて歴史化され、私たちの身体を支えとして、瞬間は持続するための存立性を獲得する。 「広島」が「ヒロシマ」となったとき、広島の出来事は過去のものとしてではなく、「わたしたちの暮らす地の下で犇き轟き続け」「その諸々の感覚が私たちの現在を構成する不可欠の一部であること、そうしたことが明らかになってくるほどに、その経験が私たちに浸透してくる」と筆者は語る。 現在に測鉛を下ろすこと、わたしの生きる現在において自明視された感覚を測量するために、見えないものを見、聴こえないものを聴くこと、さらにはイメージを聴き、声や音と見ること。そのような異様な知覚、いわば片仮名で綴られる「チカク」において、「日常」の中に、非在のものたちの在り処を触知し、召喚すること。 野木京子著『空を流れる川―ヒロシマ幻視行』は、「そのような測量の一つの試みである」と筆者は書く。 空に川を見ること、「ヒロシマ」を幻視すること。それは音声においては聴きとらえないはずの地名の「片仮名」性を聴きとることである。 では、「見えないものを見、聴こえないものを聴く」この本の「私」とはいかなる者なのであるか……。この本に語られた「私」の体験を通して見えてくるものはなんだろうか……。 「私の子どもたちが幼かったころ、夜、彼らを寝かしつけながら、、時折こんな(おかしな)考えが頭に浮んでしまい、苦しかった。人の営みは、ほんとうはとても虚しいものなのではないか、と」。そのような「私」であればこそ、「ヒロシマ」と出会うことは、必然であったようにさえ、思ってしまう。 慎ましく静謐なエッセイの体裁をとったこの本は、深い衝撃を伝えてくる。この本が「ヒロシマ」について語っているから、というだけではない。「人の営みは、ほんとうはとても虚しいものなのではないか」という視点から「ヒロシマ」の「片仮名」性と聴きとられているからだ。 そして、「この本はかくれんぼのようだ」という。「存在のかくれんぼ、誰が『おに』で誰が隠れているのかはっきりしない、それでも確実に続いていく」と。「この本を読んでいると、自分が何処にいるのかわからなくなる」とっ松本氏は言う。 しかし、彼女はそこにゐる。生きることを受諾した彼女が、そこゐる。私は誰の生を生きているのかという問いを吹き飛ばしてしまう場所に、縫いぐるみの「くまちゃん」を抱き締めて。その場所で、この本は、埋められたまま、震え続けている。 私はこの本をみつけられただろうか? このようにしてこの書評は終わっている。 大分はっしょった紹介となってしまった。 是非この書評は全文を読んでいただきたいと思う。 この評の末尾の問いかけがわたしのなかでリフレインのように繰り返される。 「わたしもまたこの本をみつけられただろうか……」と。
by fragie777
| 2010-11-27 23:29
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