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4月22日(木)
青木の花。 「どうしましょう! カガリをやっている途中でハリが折れてしまいました!」 慌てた感じで並木製本の高橋さんから電話があったのはすこし前のことだった。 「カガリで針が折れた」というのは、つまりかがり製本の過程で職人さんが使っていた針が本文の用紙が厚いため折れてしまったということなのである。 かがり製本とは、本の製本過程で糸でかがっていく製本なのである。 いまの製本のほとんどは、このかがりではなくてボンドなどでがっちりと背をかためてしまう製本がほとんどで、このかがりをする製本屋さんがどんどんなくなりつつあるのが現況だ。 本を開いたときに、糸が見えるのがかがり製本の特徴で、この製本だと本の開きが充分で読みやすい。むかしの本はほとんどこのかがり製本だったが、いまの本では希少価値となりつつある。 針が折れるというハプニングもかがるという行為故でのこと、と驚きながらも納得してしまった私たちだった。 さて、その針を折らせた本とは、新刊句集の須原和男句集『國原』のことである。須原和男氏はかつてふらんす堂より刊行された『川崎展宏の百句』[の著者である。氏にとっては、第四句集になる。菊判変形上製本の堂々たる一冊となった。 國原に水あまりをり殘る鴨 の作品における「國原」だが、「あとがき」に寄れば、「國原」には、「香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来し印南國波良」の万葉集の用例があるということだ。しかし、著者は、この句集では「一つの限定された場所というより、ひろく日本の國土一般を指す言葉として用いたい」とある。また、この句集の、 愛しけやし水の大和のお玉杓子 の「大和」もまた、「舊國名の一つ」というよりは、「日本國そのものを意味する語」として、また。、「お玉杓子」については、古今和歌集の仮名序に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とあるのを念頭に置いている、ということだ。 このように須原和男氏は、古来より用いられてきた言葉の枠をおおきくひろげ、観念的な領域まで普遍化しようとしている。その須原氏には危惧があるのだ。すこし長くなるが、「あとがき」を引用したい。 「いま現在の日本國では、和歌や俳諧の元祖とも言うべき『鶯』や『蛙』の鳴き声が、以前ほど容易には耳に入らなくなっている。地球規模の環境破壊と化学薬品の大量散布より、鶯や蛙を初めとする野生動物の生態系が、未曾有の激変を蒙っているためかと思われる。(略)このままの事態が進行すれば、鶯や蛙もまた、朱鷺と同じような絶滅危惧種の仲間入りをするかもしれぬ。俳諧という名の文藝は、紀貫之が仮名序で述べているような世界、すなわち、自然界の草木蟲魚と人間とが円満に共生し得る世界でしか成立しないもとの考えられるが、果たして、俳句という文藝の未来はどうなって行くのであろうか。」 昨年11月29日に逝去した俳人川崎展宏もまた、そのことを憂えた一人だった。川崎展宏は、須原氏にとってはかけがえのない俳句の師であった。 「 おでん酒百年もつかこの世紀 あらぬ方へ手毬のそれし地球かな 早梅のすさまじき世に咲き出でし と詠まれた川崎展宏氏の霊前に、謹んでこの句集を献じたい」と「あとがき」を結ぶ。 以下は収録作品より。 菜を洗へ布をさらせと春の瀧 春の蚊に千の腕をさらしたる (渡雁寺・十一面観音) 小父さんはどこから来たの里櫻 桃の日の大きな簾嵐山 夕立の玉つけて入り鳩居堂 薔薇とさへ面会謝絶したりける (母) くしやみする西も東も稻の花 枝豆へ大言海をはなれけり 彼の世から鶴下り立ちし如くなり (『季語別 櫻井博道全句集』 成る) みしみしと二階から来て成人す 観音の世へと開けたる白障子 (悼・川崎展宏先生逝去) 今日の「増殖する歳時記」は、三宅やよいさんによって、現代俳句文庫『澤好摩句集』より。 春闌けてピアノの前に椅子がない 「春も終わろうとしているのに誰にも触れられないまま古びてゆくピアノは孤独かもしれない」と三宅やよいさん。すぐに自分家(ち)のことを言うのは恐縮だが、わたしん家にも孤独なピアノが一台ある。椅子がついていても孤独であることには変わりがない。その孤独さ加減は、そうねえ、かつての栄光の輝きを失い、すっかり錆びがまわって、しかし玄関に置かれたままいまにも倒れそうになっているフランス製プジョーの自転車といい勝負かもしれない。 どっちが孤独か、聞いてみたいもんだわ……。
by fragie777
| 2010-04-22 19:52
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