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10月27日(火)
よく晴れた朝だ。 ひさしぶりで富士山がよく見える。 句集『カヌー干す』の著者の山本純子さんが、京都新聞を送ってくださった。山本さんの写真入りで、句集『カヌー干す』が大きくとりあげられている。山本さんは俳句との出会いをこんな風に語っている。 「俳句はそれまで、息をおさめるイメージがあった。切れ字などがあり、しっとりと落ち着いた世界を作り上げる。でも、船団の作品には、息が弾んでいて、やんちゃな俳句が多い。踊りでも日本舞踊よりダンスが好きなように、自分の呼吸にぴったりだと感じた。」 詩人でもある山本純子さんにとっては、俳句は「コーディネートの楽しみ。二つのものをつなぐセンスを磨く場。言葉の世界での鍛錬」であるという。 焼き肉に決めたレガッタ通過した 純子 「現代詩手帖」11月号で高柳克弘さんは、岸本尚毅句集『感謝』を論じている。 「高浜虚子へ原点回帰する現代俳句において、虚子の俳句観を継承する岸本の存在感は、いっそう増している」とし、その著書『俳句の力学』のなかの、「俳人は創作者」であるよりも「俳句とは季題を演じる」ものであるという岸本の論に焦点をおく。俳句が詩や短歌などのジャンルの読者を得られないのは、この「季題という概念にあるのではないか」と高柳さんは書く。そのはじめにおいて赤尾兜子のもとで前衛俳句を通過した岸本の季題主義的理論はあまりにも堅牢で、多くの若い俳句の書き手に前にたちふさがっているように思える。その岸本の理論を超えていくものは何か?高柳さんはこう記す。「『季題』ではなく、『季語』の意識から俳句のあり方を考えることが、一つの契機となるだろう」と。「季題」と「季語」のちがいを俳文学者乾裕幸氏の説を引用しながら、こう締めくくっている。「『季語』はあくまで過去と現在、虚構と現実との仲介者、すなわち一句の時空間に奥行きを与えるために用いられるのであり、そこに主題の自由が担保されているのだ」と。季題と季語の概念の違いについては、じっくり読んでみる必要があるとおもう。が、高柳さんの批評をよみながら、若い俳句世代がどう新しい俳句の方法を見出していこうとしているか、呻吟にも似た表現への苦しみがみえるようだ。こういう若い俳人の存在によって俳句はあたらしい命を吹きこまれていくのだ。 今日の「増殖する歳時記」は、土肥あき子さんによって、岸本尚毅句集『感謝』より。 末枯や子供心に日が暮れて 土肥さんは、子供の心にそわせてこの句を鑑賞されている。それはそれでとても陰影のあるもので、子どもの気持ちをとりもどしたようによくわかる。しかし、わたしは、この句を読んで、この句をつくった岸本さんの立ち位置をおもってしまった。「子供心」となったような岸本さんがそこにいるのだろうか…。それとも、「子供心」を見ている岸本さんがいるのだろうか…。あるいは目の前に子供がいるかどうかは、「子供心に日が暮れて」には関係ないのだろうか…。考えているとよくわからなくなってしまった。 今日は、この度ふらんす堂に倉庫を提供しその管理やら品だしいっさいをしてくれるワタナベ流通の小泉さんと小島さんが来社された。はじめての請求書をもって。 どんだけになるんだろう?ってドキドキだ。 提示されて、まあ、どうにか払える金額だったので、良かった! これからお世話になるお二人です。 サービスしてくださいませね。 どうぞよろしくお願い致します。
by fragie777
| 2009-10-27 19:45
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