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10月2日(金)
人なっつこくそばに寄ってきたので、「カアチャン…」って呼んでみた。 しかし、どうやら親烏は「カアチャン」という名前をつけなかったらしい…。 今日は新刊の詩集を一冊紹介したい。 すこし前に九州の福岡より原稿をもってご来社くださった浦歌無子さんの第一詩集『耳のなかの湖』が出来あがった。やはり九州在住の毛利一枝さんの装丁によって美しい本となった。装画は、Nicoletta Ceccoli の「Catgirl」。詩集の世界とよく響きあっている。担当のPさんは、この絵を気に入っておもわず「欲しい…」とつぶやいたほど。「物語りのように一篇一篇の詩がつづられていく…」とPさんは言う。 湖に落ちたのはあなただったのかわたしだったのか 夜が明けたのはついさっきだったのに 耳のなかでは湖が揺れて もうこんなにも闇が深い 湖のなかは気持ちいいね これは、最初の詩「はじまりの森」のなかの詩行である。 いつ迷い込んだのだろう湖は 耳が耳であるよりももっと前 耳からは湖はあふれて リンパ液は回転し さらに深い夜の向こうへ迷い込んでゆく わたしはどこでもない方向へ落下しつづける あふれだした湖に少しずつ溶けてゆく あなたのくるぶしを道づれに 最後の詩「目眩」は、こんな風に終わっている。 この詩集『耳のなかの湖』に、詩人の杉本真維子さんが栞を寄せておられる。「脆くない愛のガラス」というタイトルで、「浦の作品の複雑なところは、『みみがもげそう』なほどの極限的なさびしさの遥か遠くに、もう一枚、小さな扉があることではないか。それを開けると、じつは『さみしくありません』とでも言ってしまいそうな、すっと熱の引けた、『空洞』が静かにひろがっている。」と杉本さんは書く。 あなたという 血の金属を いまこそわたしに 処方してほしい 「など、ここまでストレートに、迫力をもって、愛の見返りを『正当』に求める言葉にはなかなか出会わないだろう。愛は奪うもの、という聞きなれない言葉が、鋭い刃となって更新されている。」と。 この詩集は「目」からはじまり「くるぶし」でおわる。果てしない愛憎の物語は肉体の奥深くさらに奥深くへと血の迷宮をさまよっていく。身体はそれをとりまく無限の水と融通し響応し、自在な愛の物語をかたち作る。 わたしの骨髄で海が揺れている 「現代詩手帖」10月号で、鳥居万由実さんの詩集『遠さについて』が、対談のかたちでとりあげられている。というか、佐々木敦さんの連載「パロール・ポエティック」にゲストとして鳥居さんがよばれて、その詩集について語っているのだ。わたしがよく知っているとおもっている鳥居さんとはちがう鳥居さんがそこにいて、その対談はとてもおもしろい。詩集『遠さについて』が、中心となって語られていくわけだけれど、たとえば、鳥居さんは詩集『遠さについて』で、人称をぼくと使っているのだが、それについて「私は主体性というのは、特権として匿名性の次元を持てることだと思うんです。書くときになぜ「私」と書きづらかったかというと、ジェンダー的なこともあって、女性が「私は」と語りだしてしまうと、それだけである内面、ある同一性が措定されることになる。男性に許された「ぼく」は公的な含みを持ちますが「私」はプライベートです。どうしても匿名な場所から「私」と言いにくい…」「だから、男性のほうが小説って書きやすいんじゃないかと思うんです。男性が「私は」と言っても、そこには縛りがないわけです。でも女性が「私は」と書いた場合には、ある内面がそこでできてしまう。ある種の女らしさがまとわりついてきて、それによって筋やその物語の関係性が自動的に組み上がってきちゃうところがある」「だから、ひとつの『私』みたいなものに収斂するというよりも、むしろ屈折率みたいな感じで、プリズムというか透き通った石みたいにして、世界のさまざまな風景や光を独特なしかたで透過させて、そこだけほのかに明るかったり、キラキラしていたり、そういうものが理想的な作品のイメージです」 ああ、だから石の写真を装丁にのぞんだのですね。鳥居さん。 以上の文章は対談のほんの一部であるけれど、わたしはよくわかるし、とても興味ふかい。 たとえば、卑近な例で恐縮だけれども、「わたし」ということば。わたしは「わたし」と言う言葉をふだんつかわない。「わたくし」と言う。きどっているとおもわれているかもしれないが、「わたくし」は、私にとって女の私ではない、つまり公的な私なのである。「わたくし」と私が言うとき、そこには、さっきまでじゃがいもの皮を向いていた、あるいは母親として子供しかりとばしていた私ではない「わたくし」がいるのだ。「わたし」と自分をよぶたびに私は自分を女であると意識してしまう私がいる。XXではない「わたくし」。 詩の表現という次元からはすこしずれてしまったかもしれないが、「わたし」への人称へのこだわりはよくわかる。 ふっとおもったのだが、俳句というものは、この人称というものから自由なのかもしれない。つまり出発においてすでに匿名性を獲得しているのではないか… 鳥居さんの発言はまだまだあって、すごく刺激的だ。 この間おめにかかってまったりとお酒を飲んで笑いあった鳥居万由実さんとはちがう、詩人としての鳥居さんが歴然といる。 すごく長いブログになってしまった。 ここまで読んで下さった方、お疲れさまでした。
by fragie777
| 2009-10-02 20:31
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Comments(2)
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