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9月24日(木)
この写真の意図は、連休明けのふらんす堂の心意気である。 「一生懸命・営業中」 まさに。 9月は俳句関係の版元はどこもそうであるのだが、句集の出版がたてこむ時期である。 ふらんす堂もここにきて一挙に新刊句集が出来上がってくる。 今日は何冊このブログで紹介できるかしらん…。 まずは、山本純子さんの句集『カヌー干す』。山本純子さんは、詩人でもありH賞を受賞されている。俳句グループ「船団の会」に所属し、坪内稔典氏が跋文をよせている。その跋文で何篇か、坪内氏が好きな詩を引用している。その中から一篇を紹介すると、 男の子が三人 男の子が三人 向こうからやってきて こんにちは こんにちは こんにちは って、通りすぎるから 私も こんにちは こんにちは って、通りすぎたら ぼくの分が足りない というつぶやきが聞こえた こどものころ 母が すいか、とか ようかん、とか おいしいものを切るとき 私の分は って、いつも見つめた こんにちは、も きっと おいしいんだ 坪内氏はこう書く。「言うまでもないが、山本純子さんの575の息の言葉もとてもおいしい。」と。 その「おいしい息の575」は、こんな風だ。 カヌー干すカレーは次の日もうまい 七月をぷるぷる歩く天然水 もうとっくにもうとっくに吾亦紅 花疲れうどんは粉にもどりたい 梅雨穴へセロハンテープが延びていく 罫線をまっすぐに行け冬木立 オットセイ泣けばトド鳴くクリスマス 昼休み三方向へバナナ剝く これらの句を読んでいるとふっと「何ゆえに」という言葉がのどのあたりまでやってくるのだが、その「何ゆえに」という言葉をわたしの脳にある司令塔がおしとどめて、却下してしまう。そうして、「フーン、…」とか「へえーっ」とかの単語がわたしの心を支配してそれからちょっと可笑しくなりふっと笑ってしまう。 坪内氏は次のように書く。 「長く句を作ってきた体験から言うのだが、(山本さんの句には、)世間の多くの俳句とは微妙にずれた何かがある。五七五音、季語を用いたごく普通の句作りなのだが、言葉が俳句的にねじれていないのだ。」と。 「俳句的なねじれ」とは、「無理な言葉づかい」のことであり、山本さんの俳句はそういうものから「言葉を解き放そうとしている、と言うべきだろうか」と。 詩を書いていた山本純子さんがどうして俳句をつくるようになったかは、坪内氏の影響である。「俳句をつくる時は、少し季節を先取りして作るのがよい」。それは「ことばというイメージの世界で季節を先取りすることで、からだに新しい季節への準備性ができるようになる」ゆえに。という坪内氏の話を聞いて、山本さんは「すぐ、俳句を作りはじめました。」「私は大学院で、詩の朗読を通して、こどもたちの心やからだを元気にする、というテーマの研究をしていましたが、『ことばで元気になる』という目的地に、俳句を作る、という道も通じているのだ、と気づいたからです」と「あとがき」にある。 なにもかもまたいで歩く海の家 雲になりたいセーターを投げ上げる つまりまあ木の役なんだ聖夜劇 このごろをポンと蹴とばし春爛漫 銭湯の人も金魚もみなはだか わたしのからだの中をマイナスイオンが流れてゆくように、たしかに何だか爽やかに元気になる山本純子句集『カヌー干す』なのである。 その句集『カヌー干す』を、今週のねんてんで、坪内さんが紹介をしている。 秋の浜大人になったから座る わたしもこの句は好きだ。やはり「どうして?」って思ったのだが、やがて「そうなのか…」と思ってしまう。さまざまな体験をした夏の若者もいつまでも子供じゃいられないんよ、ってこころを沈めて学習したのかなあ、なんて思ってしまうのも楽しい。 そして、「増殖する歳時記」は、三宅やよいさんによって、坪内稔典句集『水のかたまり』より。 あの頃へ行こう蜻蛉が水叩く この句には、「ノスタルジックな味わいがある」と三宅さん。そう、「あの頃」と「蜻蛉」ですものね。わたしも「あの頃」と「蜻蛉」はこころの引出しに持っている。そして遥かなるノスタルジー。「水叩く」がいい。この言葉が、坪内さんが実際に野山で蜻蛉をおっかけていた少年だったことを語っている。「水叩く」とは、なんと美しい詩情にあふれた言葉だろうか……。 ああ、ホントはもう一冊、新刊句集の紹介をしたかったのに。 今日はここで力尽きた。 明日は支払日。まだ、その準備もしていない。 今日はもうここまで。 お許しくださいませ。 お代官さま…。
by fragie777
| 2009-09-24 20:05
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