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2月6日(木) 旧暦1月9日
![]() 黄鶺鴒(キセキレイ) 矢川の水辺を歩いていた。 鶺鴒は、秋の季題となっている。 別名石叩(いしたたき)など。 鶺鴒の水際明りに二三匹 鈴木花蓑 鶺鴒を詠んだ句のなかで好きな句なのであるが、鳥をかぞえるのに、羽ではなく匹でもいいんだと思った次第。おなじ花蓑に、〈奔端や又飛び消えし石叩〉というのもある。 今日は、詩集を校了にすべく、午後はずっとゲラにむきあう。 現代詩のゲラを読むのは、俳句や短歌のゲラを読むときとは違う脳の領域をつかう、 そんな気がする。 私のお粗末な脳細胞がすこしおどろきつつ新鮮な刺激をうける。 そんな感じ。。。。 以下は、余談。 先日、道路をあるいていてふっとバランスをくずして、転んでしまった。 とっさに手をついたのだが、左膝をしたたかにうち、すりむいてしまった。 ちょうど自転車で通りかかった男性が、おもわず自転車をとめてわたしの方をみて「大丈夫?」という表情をしたので、 「大丈夫です」とにっこり笑ってみせた。(若い男性のまえでカッコ悪いったらない。) 転んだときはそれほど痛くもなく、膝がヒリヒリしたくらいだった。 しかし、わたしくらいのR女となると、あとで衝撃があると聞いている。 しばらく様子をみることにした。 数日間、膝は押せば痛むがたいしたことはなさそう。 で、月に一度いく整体の片山洋次郎先生にそのことを告げたところ、 「手をついて膝をついたのですね、それはいい転び方をしましたねえ」と褒められてしまった。 要するに、転んでもいいから転び方が大事なんですって。 バランスをくずしたら、手をついて膝をつくように転ぶこと、そうすることによって衝撃を弱めることができるのだそうである。 しかし、上手に転ぶのでもやはり下半身を鍛えておくことが大事なんだそうである。 思ったのであるが、バランスを崩すって、ほんの些細なことからである。 家の階段ののぼりおりでも、平淡な道をあるいていても、ふっと転びそうになることがある。 気をつけましょうね。 この日、ハクセキレイもみかけた。 #
by fragie777
| 2025-02-06 18:26
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2月5日(水) 旧暦1月8日
今朝の障子。 障子に映った影がいいなあって。 しばらく見とれる。 そんなこと思うのはyamaokaだけかもしれないけど。 これはわたしの朝のともだち。 わたしが太極拳をやるのを見てくれている。 今日は、寒い朝だった。 仕事場まであるくつもりが、すぐにくじけて車で出社。 今日は一日中、机にへばりついて仕事。 地上におりることもなかった。 1月31日づけの東京新聞の俳句時評は、安里琉太さんの「正直日和」。 「切迫感」と題して、藤井あかり句集『メゾティント』をとりあげている。 抜粋して紹介したい。 (略)切迫感といえば昨年刊行の藤井あかりの「メゾティント」には、そういう良さがあった。〈胸に森その一本に鵙来る〉〈卯の花がなだれ込まないやう瞑る〉〈踏み込みてこよ草の絮とばしつつ〉―この句集の主体は心が、脳ではなく胸にあると思っている。瞼を閉じて世界を閉ざすこともあるが、瞼の裏や身体の内側にも景を映すことがある。内と外との隔絶があり、他者とは基本的には分かり合えない。390句程の句は章立てで区切られることなく、一連として進んでいく。(略) 〈幻聴か氷菓の溶けてゆく音か〉ー感覚に鋭敏な主体だ。句集の冒頭から特別音が意識される。音は瞼で閉ざせてしまう風景とは異なって意思に関わらず流れ込んでくる。〈花辛夷声出して喉取りもどす〉の”肉声”の感じは音によって自らに身体が現れている点で特徴的だ。 坪内稔典さんから、著書『モーロク日和』(創風社出版)を送っていただいた。 パラパラとめくっていたら、「枕はアリストテレス」と題したエッセイが目に入った。坪内さんは、岩波文庫版の「アリストテレス全集」を定期的に買っておられるという。第15回目の配本は、「弁論術」と「詩学」。その「弁論術」に「老人というものの」定義があってそれを書いておられる。その定義がおもしろくてR女のわたしはニヤッとしてしまった。アリストテレスと言えども、斬新なことは言ってなくて今の老人の定義とほぼ変わらないのも面白い。 このエッセイでわたしがいちばん興味深く思ったのは、次の一文。 四年前に胃がんの手術を受けたとき、死を身近に感じた。その感じの中で、今の自分からもっとも遠いものにアクセスしたい、と思った。 そこで、出版がはじまったアリストテレス全集を買うことにしたというのである。読んでもわからないだろうし、読み始めたらすぐに眠ってしまって枕になるかも(で、「アリストテレスの枕」か)と、坪内さんは書いておられるのだが、 「でもいい。とても遠いものにつながっていたい」 と更に書いておられる。 わたしは坪内稔典さんの心の動きに興を起こしつつ、坪内稔典さんを思いうかべ、また、会ったことはないのだけれどかつてヴェニスでみたラファエロの描いたアリストテレスの姿などをしばし思い浮かべたりしたのだった。 #
by fragie777
| 2025-02-05 18:21
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2月4日(火) 東風解氷(はるかぜこおりをとく) 旧暦1月7日
水仙。 心惹かれる花だ。 今日の朝の天気予報だったかしら、 「春になりました。梅もほころび、このように水仙もきれいです」と予報士さんが言っていて、 「あら、水仙は冬の花よ」っておもわず突っ込んでしまった。 季語と向き合う仕事をしていると、つい言ってしまいたくなる。 立春を過ぎたのに超絶さむい。 身も凍るさむさである。 今日も野暮用があって、半日以上でかけてしまいさきほど戻ったところ。 すでにスタッフたちがいないところでこうしてブログを書き始めた。 昨年の12月11日に俳人の高橋悦男氏が亡くなられた。 享年90歳 俳誌「海」を創刊主宰をされた俳人である。 師は、野澤節子。 俳誌「海」は、ご息女の日下野由季さんによって主宰継承、まだお若い由季さんが頑張っておられる。 次の生(よ)は月の兎にならめやも 高橋悦男 句集『月の兎』より。 子供の頃、月には兎がいて萬月の夜になると餅をついている、と教えられた。萬月を見るとたしかに黒い影があり、餅をついているように見えた。その月に住みたいというのが、私の夢であり、ロマンである。(あとがき) ご冥福を心よりお祈り申し上げます。 四ツ谷龍さんより「むしめがね」を送っていただく。 連絡をいただいていたのだが、「特集 『編棒を火の色に替えてから』」にフランス文学者であり、「ふらんす堂通信」にも連載の執筆をしてくださっている高遠弘美さんが、寄稿している。 タイトルは「寛衣からヴァイオリンへ」 高遠さんは、俳句という文芸にたいするある複雑な想いをかたりながら、四ツ谷龍編『編棒を火の色に替えてから 冬野虹詩文集』について語る。ここではほんのすこしだけとなるが紹介をしたい。 舌足らずだったらごめんさないさませ。 高遠弘美さんは、(以下抜粋です) ここで『集成』ではなく素粒社版選集をあへて取り上げるのは、本稿の依頼がさうだったからだけでなく、詩作品の選集といふ魅力的な問題に同書がみごとな答へを出してゐると思はれたからである。 いまさらことごとしく言ふまでもなく、詩作品はアンソロジーに収められたときはじめてその真価を現す。史上どれほど重要とされようとも、個人詩集には傑作と呼べない作品が必然的に入り込む。(略) その観点から素粒社版『冬野虹詩文集』収載の俳句について見てみると、美点と呼ぶべきある特徴が浮かび上がってくる。 として、冬野虹の俳句について(『集成』に収録してあるが『詩文集』から省かれたものなどを紹介しながら)四ツ谷龍さんが、編者として詩文集にのこしたものを6句紹介して、その幾つかを連句的観点によって鑑賞ほどこしている。そして、 煩瑣を避けて此処あたりで筆を止めるが、以上、粗略ながら見て来た冬野虹に俳句の四ツ谷龍による二度目の編纂はかにかくに俳句の本質に「孤心と宴」の存在を探り当てた上で、現代俳句ににはなかなか見られない連句的発想を冬野虹の俳句の裡にしかと掴んでゐる点で高く評価されなくてはならない。 高遠さんがあげた6句を紹介しておきたい。 冬芝の上のひかりの忘れ物 冬野 虹 寛衣着て庭を掃きたく候ふよ 慈姑むく螺旋の皮やヴァイオリン 慈姑置く重箱の隅清きかな だから矢を放つた神へ菊枕 烏賊のやうに平らかにフェードルは死ぬ 「むしめがね」では、四ツ谷龍さんによる「再論・田中裕明」が、連載されている。 四ツ谷さんが力をそそいでいる論考である。 これから帰ります。 寒さにビビるわ。 #
by fragie777
| 2025-02-04 19:52
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2月3日(月) 立春 旧暦1月6日
遠くからみると梅か桜かわからないときがある。 友人たちがながめているところに行って、 「寒桜?」というと、 一瞬みな呆れ顔になって、 「寒梅!」って訂正された。 「あら、ま、そうよね」というといっせいに笑われた。 「完敗(かんばい)だわ」というと、 「それを言うなら、完敗(かんぱい)」とこれまた訂正された。 一事が万事、こんな具合なyamaokaである。 それでも春はやってくる。 ということで、今日は立春。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんの「季語刻々」は、中村和弘句集『荊棘』より。 馬糞(ばふん)海胆(うに)呟くごとく泡放つ 中村和弘 坪内稔典さんは、「バフンウニ」を「ウマノクソ」と呼んで、磯でとったものを茹でて食べたという。「海胆」は知っているけど、「馬糞海胆」は知らなかった。名称はチョットだけど「海胆」であるようだ。坪内さんは、四国の愛媛県出身だからきっと海の近くで育ったのだと思う。わたしは海をしらずに育ったので、海の幸とは長ずるまで無縁だった。お魚などたべるけど、お鮨もたべるけど基本的に生臭いのはあまり好きではない。多分魚の本当の美味しさを知らずに今日まで生きてきたのかもしれない。海とは無縁で生きてきてしまったけれど、海がみえるところに住むというのも素敵だなあと思う。 引っ越すか。 冗談ですってば。 あはっ。 立春や腕より長きパンを買ふ 津川絵理子 #
by fragie777
| 2025-02-03 18:55
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2月2日(日) 節分 旧暦1月5日
今日は節分である。 明日は立春。 冬の最後の一日を武蔵野・矢川緑地をあるく。 雪になるかもしれないと覚悟をしていたが、雪にはならなかったが、たいへん寒い一日となった。 今日はいろんな鳥に出会った。 翡翠もいたが、撮れなかった。 尉鶲(ジョウビタキ)。 なんて可愛いんでしょう。 この尉鶲に何度も「可愛いわねえ」って言うと、 首をかしげるようにして聞くそぶり。 私の目の前で、枝移りしながら、 ずいぶんそばにいてくれた。 こちらはちょっとわかりにくいのだが、 多分、鶯(ウグイス)だと思う。 鶯って地味な自分の身体にコンプレックスがあるのだろうか、ほとんどその姿をとらえることができない。笹鳴きのときも、成長して美声を聞かせるときも。 ほんの一瞬その姿をキャッチしたのだが、えらいピンボケでしょ。 今日の緑地はいたるところ節分の雨に濡れていた。 春がすぐそこに来ているせいか、どこも明るい。 わたしはいつも一人遅れて。。 ずぶ濡れとなった水仙。 好きな花である。 ややっ、湿原にはいることができない。 工事がはじまるらしい。 湿原を通ることができないなんて。。 残念な気持ちまま、わたしたちは来た道をもどったのだった。 今日の朝日新聞の「風信」に、中村和弘句集『荊刺(おどろ)』が紹介されている。 「陸」の主宰の第4句集。「人間の影こそ荊刺夜の秋」「張子(はりこ)の岩は燻銀(いぶしぎん)なり初芝居」「深海魚渚(なぎさ)に崩れ春暑し」 春を待つ鳥たち。 #
by fragie777
| 2025-02-02 20:28
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