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6月27日(月) 旧暦5月29日
先日文京区の根津まで野暮用で行ったとこのブログに書いたが、そして用を果たすこともなく炎天下を戻ってきたのであるが、その時に根津神社を通過したのだった。 広々とした境内を持つ立派な神社である。(この近辺にはるかむかし数年ほど勤めていたことがあるので、とても懐かしい場所だ) →根津神社 ちょうど「夏越(なごし)の祓(はらえ)」の季節で、「茅の輪」が置かれていた。 一円に一引く注連の茅の輪かな 松本たかし 一番に乙鳥(つばめ)のくぐる茅の輪かな 小林一茶 見つゝ来て茅の輪やまこと今くぐる 星野立子 母の手を離す茅の輪をくぐるとき 岸風三楼 この日はすさまじい猛暑日、それでも次から次へと人はやってきて、茅の輪をくぐっていく。 なかには、犬を抱きかかえてくぐっている人もいた。 さばへなす荒ぶる神もおしなべて今日はなごしの祓へなりけり 藤原長能 境内には古びた能舞台がある。 わたしの目の前に一羽の雀が飛んできてとまった。 この雀もあるいは茅の輪をくぐったのかもしれない。 わたしはくぐることなく、ただ見るのみ。 そして、用事が果たせなかった落胆とジリジリと照りつける暑さとでそうそうに退散する。 今日も暑い一日だった。 郵便局や銀行にいかねばならず、暑い最中に商店街の端から端までを往復する。 午後からはお客さまがひとりご来社。 石井洽星さん。 句集の打ち合わせに横浜からいらっしゃった。 しかも、乗ってこられた湘南ラインや京王線が人身事故や車両事故のため立ち往生したり遅れたりで、さんざんな思いをしてご来社くださった。 石井洽星さんは、俳誌「秋麗」(藤田直子主宰)に所属しておられ、この度第一句集を上梓されることになった。 装画にご本人の描いたパステル画を使って欲しいというご要望があって、それぞ持参してこられたのだ。 絵を描くことも趣味でいらしたということで油彩、デッサン、パステル画等々あらゆることをなさったという石井さん。 「そして、俳句をつくるようになって、俳句ですべてが書ける、ということに気づきました。で、絵を描くことを止めたのです」と語る。作品もほとんど処分されたしまったということ、今回装画に用いるのは手許に残ったそのたった一つの作品である。 俳句は、10年ほどやっていたが、2011年の東日本大震災を経験してより俳句が書けなくなってしまったということ。岩手県を郷里にもつ石井さんは、ご親戚が岩手や宮城におられて震災の被害に遭われたということである。 「震災で俳句が出来なくなってしまったんです。でも、しばらくするとまた俳句を作りたいと思うようになったのです。そして、『秋麗』の藤田直子先生のところで学ぶことを決心しました。『秋麗』に入って8年目となり、藤田主宰のおすすめもあって、句集を出すことに決めました」 「わたしって変わった句をつくるんです。以前はそれが良くないっていわれて、落ち込んだりしたのですが、藤田主宰は方法論にとらわれずに作りなさいとおっしゃってくださって、ホッとしました。良き師に出会えていまでは救われたと思っております。」と石井洽星さん。 石井洽星さん。 装釘や製本の相談をスタッフのPさんとしながら、色とりどりの花布やスピンを御覧になって、「なんて楽しそうなお仕事なんでしょう。いいですねえ」とおっしゃったということである。 石井洽星さま。 本当に、本作りの仕事はたのしいのです。 わたしも花布やスピンをみていると幸せな気持になってくるんです。 今日はお暑いところを、遠くよりご来社いただきありがとうございました。 帰りの電車はとどこおりなく動きましたでしょうか。。 昨日の夕方の雲。 ちょっとおもしろいでしょ。 明日は新刊紹介をします。 #
by fragie777
| 2022-06-27 19:19
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6月26日(日) 菖蒲華(あやめはなさく) 旧暦5月28日
合歓の花にとまるクロアゲハ。 この合歓の花にはたくさんのクロアゲハがいた。 こちらば、風に吹かれる合歓の花。 大きくたわみ地にとどかんばかりであった。 それにしても暑い。 で、 わたしときたらなんてイカレタ女なのだろうと、笑ってしまった。 というのは、「暑中お見舞い」をはやばやと口にしたのはいいが、だいたい「暑中お見舞い」というのは梅雨があけてからのご挨拶である。 梅雨もあけていないのに、能天気に「暑中お見舞い」なんて、ね。 スゲー、恥ずかしい。 けど、 ブログに書いたものはこのままにしておこうと思った。 「恥を知れ!」って自戒のために。 ![]() でも厚顔無恥だから、おなじことを繰り返すと思う。 今日は昼過ぎより仕事場にて仕事をしている。 自転車でやってきて、途中で自転車屋さんに立ち寄って自転車に空気をいれて、それから「島忠」によって猫のグッズと日焼け止めクリームを購入。 図書新聞「7月2日発売)に掲載された書評を紹介しておきたい。 詩人かつ文筆家の奥間埜乃氏による河津聖恵詩集『綵歌』評である。 河津さんが「詩集のすがたを精緻に描きだしてくれた素晴らしい書評で、嬉しかったです。」とメールを下さったように、深く読み込んだ筆力のあるものだ。 タイトルは「ここにはない何かへ近づくアプローチ――『絵師の物語』を蘇らせようとする河津聖恵の〈かたり〉の力」。 抜粋となってしまうが、紹介したい。 「ここにはない何か(太字に傍点)についてかたることはむずかしい。詩人・河津聖恵の新書『綵歌』(ふらんす堂、2022・2)はここにはない何か(太字に傍点)へ向けた投壜として繊細に精巧につくられた詩集である。(略)なにより特筆したいのは、このように本書『綵歌』について語ろうとする者はおのずと若冲を語ることへシフトするという事実だ。詩集名や解説文に留まらず、若冲の作品名が明示される各詩篇タイトル、さらに若冲の作品図版や巻末の略年譜の掲載によって本詩集が強く浮かび上がらせようとするのは、やはり伊藤若冲の存在そのものである。(略)それは「絵師の物語」を甦らせようとする河津聖恵の〈かたり〉の力である。そう、この一冊の特徴そして最大の魅力は詩篇の〈かたり〉に立ち上る「絵師」の息遣いであり、その前面に押し出される河津の「絵師」の活写に魅了されるからこそ、伊藤若冲そしてその画がただの材にとどまっていないことがわかる。 そして奥間氏は、ここで「若冲」という名の由来を詩集『綵歌」のなかの詩篇「欠けることで盈ちる者の名」より言及し、「真に満ち足りているものは空虚に見えても、その働きは尽きることがない」という意のこの言はいわば詩集『綵歌』のありようを示しているかもしれない」と書く。また、若冲の数少ない情報から、「若冲が心血注いだ『神気』という概念は重要になる」と述べ、河津さんの本詩集における「解説」のそれについての部分「そこにはつねに、鮮やかな『神気』あふれる絵に詩を触発されようとする自分がいました。」を引用して、「神気」という言葉をキイワードに評をすすめていく。 (略)「神気」とは、動植物や無機質な岩石にいたるまで生き物が内に秘めているとされる、若冲が写生の核としたものである。透徹した観察を通して知りうるとされるその「神気」を表象の核と言い換えてみれば、河津が「鮮やかな『神気』あふれる絵に詩を触発されようとする自分がいました」と述べる箇所は、「神気」の体得に傾注した若冲自身の「神気」を今度は河津が詩篇の核として感じとろうとする二重性を思わせる。この二重性が『綵歌』の魅力ではないだろうか。それは言語作品の根源的なありかたである。 (略) 伊藤若冲の「神気」へマトリックスとしての「正絵」を敷いた「絵師の物語」を丁寧に辿る本書は、ここにはない何か(太字傍点)を描き出そうとする〈かたり〉の力そのものであり、かつ詩こそがここにはない何か(太字傍点)へ近づくアプローチであることを鮮やかに浮かび上がらせている。 丹念によまれた400字詰め原稿用紙7枚におよぶ書評である。乱暴な引用となってしまったことはお許しいただきたい。 今日は、ブログを早めにアップ。 これから家に戻ります。 ヨーグルトを買うことを忘れないようにしよう。 帰りは仙川に沿っていこう。 ほかの場所でもかるがもの子がうまれているかもしれないしさ。 そして、 丸池公園まで行こうかな。。。。 仙川のカラスたち。 ここは好きな場所なようだ。 #
by fragie777
| 2022-06-26 17:38
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6月25日(土) 旧暦5月27日
今日の翡翠。 暑い一日となった。 わたしはちょっと野暮用があって、文京区の根津まで足をのばした。 行きの地下鉄で寝てしまって5駅も乗り越してしまった。 しかも、行ったことがすべて意味をなさないという、無駄な半日を過ごしてしまったのだった。 落胆しながら戻って、やはり帰りの京王線で寝てしまい、1駅を乗り越してしまった。 言ってみれば、寝過ごして乗り過ごすという、これもわたしのデフォルトである。 家にもどって身体をやすめ、夕方になったので、いつも行く丸池公園まで散歩に。 翡翠の子どもたちはその後、どうなったろう。 軽鳧の子たちは順調にそだっているだろうか。 木々の多い丸池公園は涼しい風が吹き、とても気持ちよい。 川に沿ってあるけば、行く先々で翡翠にあう。 子どもだ。 しかし、親をもとめて鳴いていない。自分で餌をとりはじめたようだ。 カルガモの親子。 7羽が無事にいる。 さっきからずっと川を見下ろしているおじさまがいる。 ご近所にお住まいのようだ。 ちょっと聞いてみた。 「今年は、翡翠の子どもは何羽くらい生まれたのですか?」 「ううんと、二組の親たちが雛をかえしたというから、5,6羽かな。」 (ああ、たくさん生まれたんだ) そして、おじさまは、心配そうにカルガモを見ながら、 「あそこにカルガモの子どもがいるけど、カラスにやられなければいいんだが…」と。 「カラスがそんなことをするのですか」 おじさまは深くうなづく。 たしかに、このカルガモ親子のそばに、数羽のカラスが行ったり来たりしている。 この辺カラスがやたらと多いのだ。 わたしはカラスに一目置いているのだけれど、ちょっとカラスが嫌いになりそう。 そんな気持がカラスに伝わったのだろうか、川を覗いていたら、バサバサと音がして、なにやら抗議するような鳴き方をしてカラスがわたしの傍に飛んできた。 そして威嚇しはじめた。 こんなことはじめて。 こんな感じ。 ちょっと怖かった。 カラスには負けそうなので、関わらないようにすることに。 川を離れて桂の木々の公園にはいる。 ここにはいろいろな鳥がいる。 水浴びをしにやってくるのだ。 やってきた一羽。 四十雀かしら。 四十雀だと頭が黒いので、日雀かしら。 この子も。 しかし、ネクタイをしているから、四十雀か。 あるいは、まだ雛なのだろうか。 きっと雛だ。身体も小さい。 可愛いな。 エナガもやって来た。 こちらも小さな鳥で、とてもすばしこい。 二羽だ。 警戒心のつよい鳥たちであるが、わたしの目の前の少し先に入れ替わりしてやってきた。 おなじ流れのやや離れたところにクロアゲハがさっきからずっといる。 疲れているのだろうか。 水を飲んでいるのか。 飛んでいきそうもない。 わたしはベンチに座って夕暮をたのしむ。 ほんとうに風がいい気持ち。。。。 それから、 仙川にそってもと来た道をもどる。 さっきのカルガモ一家である。 陸に上がって寝る体制である。 親と子どもたちは少し離れている。 前見たときよりも大分大きくなっている。 翡翠の子ども。 今日もたくさんの翡翠を見た。 大きなカメラをもった男性に、 「今日はたくさん翡翠がいますね。カルガモの子どもたちをみましたか?」と声をかけられる。 「ええ、さっき見ました。可愛いですよね」と笑って答える。 (寝ているときに、カラスに襲われないかしら)と不安になるが、まあ、大分大きくなったし大丈夫でしょう。 丸池公園の池の橋をわたるとき、ふっと右をみる。 (翡翠がいる…) これでわかるのよ、すごくない、わたし。 だれもすごいと言ってくれないので、ふたたび、言っちゃおう。 これならわかるかな。 ここにいます。 かなり小さかったのでズームにしてやっと。 徒労の半日の落胆を夕暮の散歩でなんとか埋め合わせをしたyamaokaである。 こころいま世になきごとく涼みゐる 飯田龍太 これは木の上から威嚇するあのカラス。 #
by fragie777
| 2022-06-25 21:36
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6月24日(金) 旧暦5月26日
今日は蛇がおよぎますので、嫌いな方は見ないでくださいませ。 神代植物園の赤松林。 ここだけ別の気が支配しているような感がある。 かならず見あげてふかく息を吸う。 木肌の色がなんともいえず、風情のある松である。 神大植物園はその樹木や草花の種類の多さと広さで素晴らしい植物園であるとおもうが、なんと言っても樹木がいい。 高い木々があるときは怖いくらいの存在感をもって立ち上がる。 わたしは息をとめて足早に通りすぎることも。 しかし、素晴らしい大緑蔭ともなる。 緑がたいへん美しい。 この緑の世界を鳥声に耳を澄ましながら分け入っていくときは幸せな気持になる。 そして、 この日、立ち寄った丸池公園の池では蛇が泳いでいた。 親子連れに「蛇が泳いでますよ」と声をかけた。 「はじめて……」とお母さん、感動したように見入っていた。 素早くてしなやかで美しい泳ぎである。 今日の毎日新聞の坪内稔典氏による「季語刻々」は、松永典子句集『路上ライブ』より。 六月のセロリ水より水の味 松永典子 鑑賞の所で坪内さんが、学生のころ「長野県諏訪市で路線バスの車掌」のアルバイトをしたと書かれていて、あらっと思った。あの頃は車掌さんがバスに乗っていて切符を切ったりしていたのだ。友人が持ってきたセロリに味噌をつけて食べたという思い出があるとのこと。セロリに味噌か。。。わたしはやったことがない。だいたいセロリを食べることが少ない。ミネストローネに刻んでいれるくらいしか思いつかない。セロリに味噌って案外合うかも。ちかぢかやってみよう。 夏が暑いものであるということを今日の気温で実感した。 今年になってはじめてかもしれない。 太陽の眩しさ、噴き出る汗、なんとなく身体に気がたまっているような倦怠感。 メールで、 暑中お見舞いもうしあげます。 ってはじめて書いた。 これから猛暑の夏がはじまりそうである。 (ただし、今日は風は涼しい風が吹いているのがスクイ) ブログを読んでくださっている皆さまへも、 暑中お見舞い申し上げます。 どうぞ、お身体お大切にお過ごしくださいませ。 ![]() 今日はアイスクリームをたんと仕入れて帰ろう。 食後のアイスは最高よね。 最近の日向子。 今年で18歳。 毎日撫でては、「たからものよ」って言っているので自分のことを宝物だと思っている。 #
by fragie777
| 2022-06-24 18:47
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6月23日(木) 旧暦5月25日
国立・谷保のハケの道に咲いていた。 可憐な花である。 ![]() 仙川の仕事場近くの耳鼻咽喉科に行った。 診察をしてもらいながら、ふっと診察台の一角に翡翠の写真が貼ってある。 むかしから診て貰っている先生なので、心やすく話ができる。 診察が終わったとき、 「この翡翠の写真は、先生が撮ったのですか?」と聞いた。 「そう、ぼくが撮ったもの、野川でね」 「ああ、野川ですか。仙川にもいますよ。いま子育てをしてますよ」って思わず言ってしまった。 「仙川っていってもどの辺?」と聞かれたので、 「いくつかあるけど、丸池公園のあたりにはかならず」とお教えした。 「ああ、じゃあ行ってみようかなあ」と先生。 「是非に!絶対会えますよ」と言ったあとに、(あーあ、また宣伝しちゃった)とちょっぴり反省をしたのだった。 だって、以前はほとんど人がおらず、撮影する人も一人か二人くらいだったのに、最近は大きなカメラを提げた人がやたら多くなったのである。 それがちょっとイヤだなって思っているのに、、、教えてしまうなんて、、、 でも、とびきり可愛いので、見て欲しいっていう気持もある。 そこんとこ、ちょっと複雑。。。 今日はお二人の方がご来社くださった。 おふたりは結社は異なるが、超結社の句会の句友である。 吉田林檎さんのご縁によって、種谷良二さんは、ふらんす堂より句集を刊行されたという経緯がある。 吉田林檎さんにも是非にお会いしたいと思っていたところ、お忙しいお仕事を終えてご来社くださったのだ。 吉田林檎さんは、句集を上梓されてからすでに3年が経過している。 「その後いかがですか」と伺うと、 「先日、朝日新聞に阪西敦子さんが、『スカラ座』より一句とりあげてくださったので、そのことで反響がありました」と、言ってその記事をみせてくださった。 それは、「家族俳句の現在地」と題して、「子育て俳句」について触れたものである。そこに阪西さんは、林檎さんの「コート着る着ない無理矢理着せにけり」という句を挙げ評している。句集『スカラ座』は、仕事をしながら子育てをする状況が生き生きと詠まれている句集である。伺えばそのお子さんもすでに大学生になったという。 そして、句集上梓後の句作りのヴィジョンを林檎さんに伺ってみた。 林檎さんは、多作多捨という句作りの方法はつづけながら、写生力を鍛えつつさらに自身をみつめ、自身の本音や生の実感を詠み込んでいきたい、と話してくださった。真実は自然のなかにある。そして自分の本音はなにか。そんな思いで俳句と向きあいたいと。 また、刊行されたばかりの種谷良二さんの句集『蟾蜍』はとても評判がよくて、いろんなところで取り上げられている。 「装釘がいいって、まず褒められます」と種谷さん。これは種谷さんの案を活かしながら、装画をかかれた永山伸一さんの絵の面白さを装幀家の君嶋真理子さんがとてもうまくデザインしたのだと思う。種谷さんの発案もすばらしく、それが良い形になった一冊である。 「本作り、楽しかったでしょう?」と申し上げると、「ええ、とても楽しかったです」と種谷さん。 「種谷さん、ご家族思いのいいお父さんですね。句集を拝見してそうおもいました」と申し上げると、 「いやあ、妻に叱られました。自分ばかりいいかっこをしていると。そしてプライバシーがあからさまになると」と。 「我が妻の男振りなる嚔かな」登場する妻の一句である。これは奥さまちょっと怒るかも。。。。 「奥さまは厳しい良き読者ですね。俳句はつくられないのですか?」と伺ったところ、「妻はつくりません。二人の共通の趣味は津軽三味線を習っていることですね。ただ、流派は別で、練習するときも別々の部屋でおたがいの音を聞かないように練習をするんです」と言って笑う種谷さんである。 吉田林檎さんと種谷良二さん。 吉田林檎さん、種谷良二さんおふたりに、お話を伺っていて面白く思ったのは、おふたりとも短歌をつくられるということだ。 種谷さんは、「俳句にとじこめられない思いを短歌にしてみる」という。そしてときどき新聞に投稿しておられるという。「岡井隆先生にはよく採ってもらいました」とも。 林檎さんも、最近になって短歌も作るようになったということ。「短歌をつくる面白さは、俳句ほどいろんなことを気にしなくていい、季語、助詞、切れ等々、そう意味で少し気持を楽につくれます」と。 「ただ、短歌をつくってみるとどうしても自分をさらけ出してしまった、という感じがしてしまうことなんです」「言ってしまった。。。」という感触。 そしてお二人が口をそろえて言ったことは、「短歌はキケン……」と。 これは、俳句を作っている俳人が短歌をつくるとそういう感じをもつのだろうか。 歌人はそのような感触はもたないのだろうか。 歌人の方に聞いてみたいところである。 ゲルハルト・リヒターの作品より。 #
by fragie777
| 2022-06-23 19:22
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