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8月2日(木) 大雨時行(たいうときどきにふる) 旧暦6月21日
狐の剃刀(きつねのかみそり)。 すでに7月末頃から咲いているが、歳時記では秋に分類されている。 この花が咲いているあたりに佇むとやはり秋の気配を濃厚に感じる。 きつねのかみそり一人前と思ふなよ 飯島晴子 俳誌「鷹」8月号で、南十二国さんが「魂の奇跡」というタイトルで俳句時評をされている。 長谷川櫂著『俳句の誕生』(筑摩書房)についてだ。 書評であるのだが、実作者として踏み込んだ書評だ。 「ぽーとするときに俳句は生まれる」 と長谷川櫂さんは芭蕉の「古池」の句生まれた瞬間をとおして論じ、それを南十二国さんが実作者としてそれがいかなるものであるのか、自身にひきつけて論じているのだ。 わたしはとても興味ふかく読んだ。 南十二国さんは記す。 ぽーっとするのはあくまで俳句のできる最終段階、いわば作句におけるクライマックスの話である。九九パーセントの努力ののちの一パーセントのひらめきの話である。 この本は入門書や指導書とは趣を異にするものだから、その部分については詳しく書かれていなくて当然だが、この放心(遊心)の状態に入るまでがどれだけ難儀であるか。心が我を離れて空白の時空に遊ぶというが、その夢見心地の数分数秒がいったいどれほどの精進の先に訪れるものであるか。どれほどの汗や涙、泥臭い地道な努力の集積のうえに賜るものであるかというところを決して見落としてはならないと思う。 (略) 俳句はぽーっとするときにできる。 しかし、俳句はぽーっとしているだけではできないのだ。 長谷川櫂さんが、これまでの著書において語り続けてきた「間(ま)」についても触れていて、わずか二頁の評であるが、読みごたえのあるものだ。この「間」と「ぽーっとする」は深い関わりがあるのだ。 『俳句の誕生』を是非読んでみたいと思わせる評である。 すごい余談(こんな言い方ある?) この「鷹」8月号で、髙柳克弘さんが息子さんをのせたベビーカーを押している写真がある。 なかなか見られないので見入ってしまった。 息子さん、大きくなったね! そしてよく似ている。 #
by fragie777
| 2018-08-02 19:30
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8月1日(水) 八朔 旧暦6月20日
灸花(やいとばな)。 今日は朝から、『福田甲子雄全句集』季語索引と本文との読み合わせである。 助っ人に校正スタッフのみおさんをお願いした。 わたしは銀行に行かなくてはならない予定があったのだが、今日はそれを明日にまわしてもっぱら読み合わせに専念した。 午前中にみおさんと文己さんとyamaokaの3人でやったのだが、2時間くらいやったらもうなんだか肩が凝ってきて、頭がクラクラしてきて、すごく辛くなったのである。 あれっ、わたしこんなに持久力なかったかなあ、若い二人は疲れた様子などぜんぜんない。 それでも我慢してつづけたのであるが、これまで何度も読み合わせはやってきたのにこんなことははじめてである。 (ああ、いやだ、歳の所為かなあ……)内心ショックだ。 お昼になった。 「ああ、疲れた、お昼にしましょ」と私は解放されてお昼を買いに行った。 肩こりはあまりないyamaokaであるが、ひどく肩が疲れている。 午後はPさんに交替し、おやつを食べてからまた交替することになった。 わたしはそうだ!って思い立って自分の座布団持参で椅子の上にそれを重ねた。 椅子を高くして今度はのぞんだ。 するとどうだろう。 ぜんぜん平気じゃん。 ふふふ、歳の所為じゃなかったみたい。 というわけで、仕事をするのに丁度良い机と椅子の関係というものがあるのだとしみじみ思ったのだった。 肩凝り症の方、ひょっとするとちょっとした工夫で肩凝りから解放されるかも、です。 新刊紹介をしたい。 第一句集シリーズ、第三回配本である。 A5判ペーパーバックスタイル。72頁 4句組。 著者の田中葉月(たなか・はづき)さんは、昭和30年(1955)岡山生まれ、現在は福岡県筑紫野市在住。俳句同人誌「豈」同人、現代俳句協会会員。俳人の秦夕美さんに俳句を学んでおられる。 父は伝統俳句を嗜んではいたが、私自身の俳句の出会いは、母校の福岡サテライト教室で講師を務められていた秦夕美先生との出会いだった。子供二人を世に送り出すまで、大所高所から胸に響く言葉を投げかけて頂き、どれほど助けられたか言葉に尽くせない。秦先生は、俳句を長年続けてこられただけに視野が広く何より客観的だった。また知性や人柄のみならず、句集やその他の著書も数多く出版されていて、その質の高さにも驚かされた。 と「あとがき」に書く。序文は秦夕美氏。 ふらここの響くは子音ばかりなり ギィーギィー、ぶらんこの揺れに伴う音、それが「子音ばかり」と捉えた妙。「子音」の読みが「しおん」なら、同じ響きから、十三世紀の古城跡やノートルダム大聖堂のあるシオン、ダビデの墓のあるエルサレム市街のシオンの丘。また四恩という仏教用語を連想する。四恩は天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、(『平家物語』)を言う。 句集名となった「子音」の俳句について触れている。言語感覚に冴え蔵するものの豊かな秦夕美さんらしい鑑賞である。そして、秦さんはこう書く。 子供の頃から、幾度も死と向き合いつつ生の側にとどまってくれた母を見て育った彼女は、人智を超えた何者かの存在を強く意識していたろう。「直感で」よくそう言う。知識や既成概念だけではなく、生の手触りを大大切に言葉をきりとっていく。それが思いもかけぬ世界を展開させ、奇妙な説得力をもつ。 まさに田中葉月さんの俳句は、どれもこれまで詠まれたことのない手垢のつかない世界が現れる。勢いよく飛び出してくるといった感じだ。それが面白い。 籠鳥の目玉の中の春の闇 鳥籠の中の鳥の目のなかに春の闇を見いだすなんて、面白い。焦点がどんどんしぼられていった先にブラックホールのような得体のしれない春の闇をみる。最初ちょっとおどろくが、「春の闇」に納得してしまう。鳥の目玉のなかに吸い込まれそうになる。 思い切った句が多いが、独りよがりになっていず、どんどん読んでしまう、面白さがあるのだ。 担当のPさんはどんな句を挙げているだろうか。 とりあえず鼻なめてみる芽借時 ふらここの響くは子音ばかりなり 短夜や心音独り歩きして 奔放な果実の匂ひ夕立後 月光をあつめてとほす針の穴 稲光音拾ふまで息を止め ゴスペルや水底の冬浮いてくる 鶏頭のうらおもてなく枯れにけり ゴスペルや水底の冬浮いてくる わたしもこの句にこころがひかれた。「ゴスペル」は辞書でひけば「福音。福音書。あるいはゴスペルソングの略」、通常「ゴスペル」と聞けば、わたしたちは「ゴスペルソング」のことを思う。ゴスペルソングが教会から聞こえてきたとき、「水底の冬浮いて」きたという。いったい作者は冬をどんな風に見たのだろうか。ふっと浮き上がった何かを心象的に捉えたのだろうか。重くれたものをまとって寒々と沈んでいたものがふっと浮き上がった。あるいは、この「ゴスペル」は「福音」と捉えても良い。序文で秦夕美さんが書いているように「人智を超えた何者かの存在を強く意識し」ている田中葉月さんだ。当然「神」を思うことがあるだろう。「福音」とは「神よりの良きおとずれ(知らせ)」のことである。ふっと神の言葉を耳にしたとき水底をかすかに揺るがすものがある。それはなにかの知らせのように。「冬が浮いてくる」とは、そこに救済のメッセージを見たのかもしれない。この句はかすかな希望を感じさせるのだ。心象句であるが、リアルな手応えがある。 ほかに、 鍵穴を無数の蝶の飛び立ちぬ 父の日やそろそろ父の顔をぬぎ 冷ざうこ全裸の卵ならびをり 鍵盤をはみだしてみる秋の蝶 どこまでも笑ひたくなる芒かな マスクしてみな美しき手術台 凍鶴やうざうむざうに脚あげて 世界最短詩とも言われる俳句とは何だろう。私にとって俳句とは心をキャンバスにして描く絵のようなもの。今更ながらそう思う。まだまだ思うに任せないのが現実だが、なぜか大抵言葉が遅れてくるような気がする。その奇妙な時間のずれが不思議な感覚となって快い。 夫の転勤を機に、住み慣れた東京から、知り合いのいないこの福岡の地で生活を始めて十数年後、俳句との出会いがあり、やっと自分の落ち着ける場所に立てている気がする。未だ定まらぬ句の傾向にもどかしさはあるものの、日常と非日常、実と虚を行ったり来たりできる自由な翼を持てる俳句が楽しい。 「あとがき」の言葉を抜粋して紹介した。 「子音」は、若葉の色である。 「葉月」という名前に響きあわせた。 風花す銀紙ほどのやさしさに この句もいい句だ。 爽やかな一冊となった。 色を正確に言うと、VERT ACIDE ヴェール・アシード フランスの伝統色である。 訳すと「酸性の緑」とある。「酸性は刺戟的で酸っぱい味覚をいう。例えばオゼイユ(酸葉=非常に蓚酸が強く北半球に多く、初夏に淡緑色の小花をつける)に見られるような色。」 さまざまな緑の中から、和兎さんが葉月さんのために選んだ緑である。 ペンギンの翼小さき春を呼び この句も好きな一句である。ペンギンの翼は飛べない翼である。そして小さな翼である。しかしペンギンの身体でいちばん多くを語るのがこの「翼」だ。ちょっと上にあげただけでも視線がいってしまう。泳ぐときは必死にこの翼をつかう。泳ぐための翼なんてなんとチグハグなんだろう。ペンギンってその「チグハグ感」が好もしいのだ。歩くときも翼を手のようにして振りながら歩く。身体にくらべて小さな翼、しかし必死な翼である。その小さな翼がせつせつと春を呼んでいる。 仙川にあったレンタルビデオ「ツタヤ」がなくなってしまった。 わたしはもっぱらここで韓ドラを借りていたのだが、いまや借りられない。 韓ドラにある、ちょっと常軌を逸しているような人間関係のありようが面白いのである。 すさまじく激しい。 温厚な(?)yamaokaには考えられないような激しさが、刺戟的なのだ。 #
by fragie777
| 2018-08-01 20:51
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7月31日(火) 旧暦6月19日
夏休みの小学校。 7月も今日で終わり、明日からいよいよ8月である。 明るい日差しに充ちていた7月が終わり、8月の声をきくと物影がいちだんと濃密さを増すように思える。 死者をいちばん身近に感じる月かもしれない。 小学生から中学性くらいにかけて夏休みが苦手だった。 ありあまる得体のしれない時間のなかにほうりだされて、いてもたってもいられないようなそんな気分になって、「人間はやがて死ぬ」という観念が頭からはなれずに息苦しくなることがよくあった。ああ、いま思い出しても胸が苦しくなる。 子どもの心って不思議だ。 「死」に充ちていることもある。 新聞の記事を紹介したい。 28日づけの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、西村和子句集『俳句日記2017 自由切符』より。 対酌といふも久々新生姜 西村和子 対酌は二人で酒を酌み交わすこと。李白に「両人対酌すれば山花開く 一盃一盃復(ま)た一盃」という詩があった。古い仲とはいえ久々に眺める友の顔が「新生姜」にぴったり。ひね生姜ではダメなのだ。俳句日記『自由切符』から。 30日のおなじく長谷川櫂さんの「四季」は、『シリーズ自句自解II ベスト100 仁平勝』より。 暗くなるまで夕焼を見てゐたり 仁平 勝 刻々と変わる夕焼けの空。太陽が西の空に傾くと、あたりが黄金に染まり、赤々と燃え上がり、やがて闇に沈んでゆく。その一部始終も見飽きないが、夜に包まれるまで眺め尽くす人の意志に思い及ぶべきだろうか。自解句集『仁平勝』から。 おなじく30日の讀賣新聞の「枝折」は、西村和子句集『俳句日記2017 自由切符』を紹介している。 白靴や乗り降り自由切符得て 西村和子 2017年の俳句日記。夏の句会は市営バスの一日乗車券を利用して吟行した。家族のぬくもりが伝わる句も多い。 30日づけの毎日新聞では、伊藤一彦歌集『短歌日記2017 光の庭』を紹介している。 牧水の何を語らむ希望なく博多訪れしころにもふれむ 伊藤一彦 歌人であり若山牧水記念文学館館長である著者の第15歌集。2017年の1年間の「ふらんす堂」ホームページに掲載の作品を収録。短歌と短文が互いに魅力を放つ。 「ふらんす堂通信157号」が出来上がってきた。 「こわい俳句」第一回は宇多喜代子さん。 受賞特集は、第33回詩歌文学館賞受賞の岩淵喜代子句集『穀象』と、第9回田中裕明賞受賞の 小野あらた句集『毫』。 小野あらたさんの「俳句について思うこと」はたいへん面白く拝読した。(思わず笑ってしまったのだけど、スゴいなって思う) ある意味恐るべき新人の出現かもしれない。 「小野あらたさんに会った時、20代の岸本尚毅さんにはじめて会った時に感じたのと同じ何かを感じたのね」って何人かの人に言うと、ほとんどの人が怪訝な顔するのだけど、おかしいかなあ。なんなのだろう。違うのかなあ。でも今回の授賞式でその思いをさらに強くしたのだった。岸本さんがご挨拶をしているときに、そばでニコニコ笑っている小野あらたさんも◯十年経ったら、きっとこんな風になられるのではないかしら、ちょっとそんな風にも思ったのだった。 お二人に失礼かなあ。ぜんぜん違うのに似てるなんて、勝手に言ったりしちゃってさ。 でもお二人を見ていると俳句が好きで好きでたまらない、という感じがあって、そこは共通している。 わたしが似ているというのはそこだけではもちろんない。不遜であっていじらしいという面白さ、ぶれない何かとか、実践を通して学んでいくやり方とか、いろいろと考えればそんな風にも言えるのだけど、それよりもまず会ったときにふっと感じた印象なのだ。たとえば、映画なんかの一シーンで、武士同士がすれちがったとき、「おぬしやるな」って直感する、そんな感触といったらいいのだろうか、どうだろう、わたしの直感。 あはっ。 責任はとらないから、聞き流してくださいませ。 #
by fragie777
| 2018-07-31 20:02
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7月30日(月) 旧暦6月18日
川遊び。 先日頭皮の湿疹のことをブログで書いたら、3週間頭皮の湿疹のかゆみに悩まれていた方がさっそく皮膚科に行って、お薬を処方してもらって3日で治ったとツィートされていた。 その方が、わたしの具合はどうかと尋ねてくださっているので、お答えします。 目下クスリを塗っております。 わたしの場合それほど痒くないので、完治したかどうかはまだ分からないのだが、こういうウイルスによる湿疹は治ったと見えて再発する場合があるので、投薬はつづけた方がよいのかも。 そしてもう一度お医者に行って、診察を受けた方がいいのかもしれない。 この猛暑、身体に変調をきたす人が多い。 友人のYさんは、耳が腫れてきて、結局その腫れがひかずお医者に行ったとおろ、帯状疱疹ですって。 わたしはまだなったことがないのだけど、痛いらしいわ。 早く分かれば早く分かるほどいいらしいのだけど、案外気付かずにいる人が多く、すさまじい痛みが出てからわかる人も多いらしい。 生きているといろんなことがありますね。 新聞の記事もあるのだけど、今日は新刊紹介をしたい。 第一句集シリーズのものである。 A5判ペーパーバックスタイル。72頁 4句組 著者の内田茂(うちだ・しげる)さんは、昭和28年(1953)宮崎市延岡に生まれ、現在は大阪・八尾市在住。平成15年(2003)に俳人のふけとしこに師事、平成22年(2010)ふけとしこさんの紹介で俳誌「青垣」に入会し、大島雄作に師事。現在は「青垣」の編集チーフである。俳人協会会員、現代俳句協会会員。平成16年(2004)から29年(2017)までの作品を収録。序文は大島雄作主宰、跋文はふけとしこさん。 内田さんが俳句の道に入ったのは五十歳になる直前だった。(略) 「知命」での俳句入門は早い訳ではないが、退職後カルチャー教室で始める人が多い昨今、決して遅い訳でもない。内田さんはこれからが脂がのる時期だ。今回、これまでの句をまとめて拝見し、初期の句にも光るものはあるが、第三章、第四章の後半に秀句が多いと感じた。 狂言のやうに人逝く寒の内 貝寄風や砂丘の襞に鉄の浮き 万緑へラップを聞かすスピーカー 釣り銭の硬貨熱々海の家 箱買ひの水積み上ぐる万愚節 目借時ぷしゆうと開くバスのドア 山の日の束子で洗ふスニーカー 出来秋の声を届ける宅配車 ロボットの声は少年冬ぬくし 日常生活や日常を取り巻く社会や自然をできるだけ今の言葉で詠みたいという内田さん。俳味と詩情の折り合いがついた句を求めてゆきたいともいう。それは私の作りたい句と同じだし、「青垣」もそのような句が目に付く。内田さんと「青垣」の相性はいい。これからますます深化するのは間違いないので、この『管制塔』の刊行を節目とし、更なる高みを目指してほしいと願って、紙幅に限りがあるので筆を擱きたい。 序文を抜粋して紹介した。大いなる期待を寄せた序文である。序文によると内田茂さんは、「青垣」で「蕪村の秀句」を連載されているということだ。退職後、藤田真一教授の下で1年間学ばれたということである。「俳味と詩情の折り合い」というのも古典を学ぶことでご自身のなかでうまれてきたものか。 跋文はふけとしこさん。「働く人も故郷も」というタイトルがある。初学からのお付き合いゆえか、作品の機微にふれた跋文である。 旋盤のグリスの匂ふ極暑かな 溶接の火花転がる夜業かな 近所に町工場があると聞いたことがあるが、通りがかりに立ち止って、そこでの仕事振りを見ることもあるようだ。景を写しただけにも見えるが、根底には働く人々への愛情ともとれる気持の動きが流れている。気持の動きと言ったが、決して重く詠むことはなく、ましてや情を乗せすぎることもない。実に淡々と詠みこなしている。 星飛んで管制塔に人の影 変哲もなき郷なれど星月夜 空港という言葉はないが、地方の空港の様が覗える。表現の抑制とはこういうことなのだ。「変哲もなき郷」と言いながら、被さるように降るように星の見えるこの場所を、やはり愛しているのだ。わざわざ「変哲もなき」という言葉を選んだのは逆の心理だろう。平たく言えば照れ隠しのようなもの。そしてこのことはとても大事なことでもある。 本句集の担当はPさん。 Pさん好きな句は。 初雪やなほなほ書きの筆走る 虫の音のまだ整はぬ夕餉かな 別れ雪らしい牛乳噛んで飲む 相席の大工の若き日焼かな 一斉に膝崩したる夏座敷 留守居して薄切りハムに巻く秋思 佳きことの一つ蜜柑の甘かりき 薄氷を踏んで光を解き放つ 山の日の束子で洗ふスニーカー ロボットの声は少年冬ぬくし 野暮用と雑用のあり台風圏 わたしもこれは面白いとおもった。台風圏のなかであちこちと彷徨する男がいて、野暮用だけでなく雑用もあるという。いったいどんな用なのだ。「野暮用と雑用のあり」と言っているのだから、明確にこの二つはことなる。わたしだったら、野暮用と雑用の違いをどんなふうに意味づけするだろう。この意味づけの仕方によってその人の人生観が見えてくると言っても過言ではない。いやいや、しかし、頭の上を台風が渦巻いているのだから急いでその二つの用事を果たさねばならない、意味づけどころではない。しかし、こだわる。「野暮用」を広辞苑でひけば、「(略)つまらない用事。趣味や遊びに関わらない仕事のための用事」とある。すると内田さんは、すでにお仕事を退職しておられるのだから、これはたとえば近くのコンビニに水道料金を払いにいくとか、そんなことか。して、雑用は? 「雑用とは種々雑多の事」であるらしいから、う~む、ということは編集チーフである内田さんのことだから、印刷屋さんへゲラを届けるとかそういうことか。どちらも台風がやってきていても先に延ばすことなんてできない。 で、内田さん、わたしのこの大雑把な推理、当たってまして? 飽き性と言われる私がこれほど長く続けられたのは、俳句の深遠さに魅了されたのは言を俟ちませんが、この間、いくつかの超結社句会に参加したり、近世俳句(与謝蕪村など)の勉強会に参加したりする中で、互いに切磋琢磨できる俳友に恵まれたことも大きな要因になっています。 『管制塔』は、私の第一句集です。平成十六年頃から二十九年までの二百三十句余りを収めました。句の配列は概ね年代順になっていますが、校正等により後年に収めた句もあります。なかなか結実しませんが、私が目標とする俳味と詩情の折り合いを少しでも感じていただければ、これほど嬉しいことはありません。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集『管制塔』は第一句集シリーズの第二弾となる。 装丁は和兎さん。 色を変えただけのシリーズであるが、すっきりとしていて割と評判がいいようだ。 扉。 和兎さんが選んだこのブルー。 青臭くなく、大人の男性にふさわしいいい色だ。 BLUE NATTIER フランスの伝統色である。「ナティエのブルー」と呼ばれ、「ナティエ」とは有名な肖像画家で、パリに生まれ1685年~1766年まで活躍した。素晴らしい色を出すので有名である。特にそのブルーは名高い。と、記されている。 ただのブルーではなくて、BLUE NATTIER。 そう思うとなんと素敵なこと。 すでに物語を秘めたオリジナルな一冊となった。 ロボットの声は少年冬ぬくし やっぱりロボットの声は少年でなくっちゃ。ほかの声はすべて「寒い」って思う。 季節を問わないとしたら、1 少年、2青年 3おばさん 4おじさん 5若い女性 6少女 の順序かな。少女をふくめた若い女性はどこか残酷でコワイ気がする。それが声に出る。(わたしも一度はそういう時期を通過したのだけれど。女子ってコワイよ) あなたはいかが。。。 #
by fragie777
| 2018-07-30 19:13
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7月29日(日) 旧暦6月17日
「おらほせんがわ夏まつり」がはじまった。 28日29日と続けて行われる予定であったが、昨日は台風で流れた。 写真は準備段階。 街をさまざまなイベント(?)が練り歩き、たとえば阿波踊であったり、神輿であったり、リオからやってきたダンスであったり いろいろと多彩なそれらが、この会場に結集するのだ。 この駐車場がその会場。 さっきここを通ったら、「あら、こんにちは」と声をかけられた。声の主はお洒落なブティックの女主人。今日は祭Tシャツをきて、焼そばを売るらしい。「たいへんですね。頑張ってください」とわたしは挨拶をして通りすぎる。 かつては祭をみることもあったが、もういまは祭の賑わいをいかに回避して、家にもどるか、ひたすら祭りの傍をとおり過ぎてゆく。 スタッフのPさんは、友人の息子さんがやっているビールバーの助っ人にかり出されて、道ゆく人にビールを売るらしく、張り切っていた。 台風一過のこの暑さである。 飛ぶように売れるだろう。 ただでさえ祭りのような賑やかさ。 この日はものすごい人出である。 祭りの前。 練習に余念がない。 男たちも華やぐ。 もう少ししたら、はじまるだろう。 友人のフランス文学者の高遠弘美さんから、『失われた時を求めて⑥第三篇「ゲルトムントのほうⅡ』を送っていただく。 前回の翻訳よりすこし遅れていたのだが、(お義父さまの介護があったりして大変だったのである)こうして手にすると、「ああ。出たのね」と感慨深い。高遠さんがどれほどこの仕事に精魂をかたむけているか、その思いの一端をいささかなりとも知っているので。 帯の裏面に訳者による本編の要約があるので紹介したい。 第三篇「ゲルトムントのほう」は『失われた時を求めて」のなかでも、社交界の皮相さを通じて、スノッブな人間たちが織りなす壮大な滑稽劇を見事に描きつくした類い稀な小説である。本巻の最後は悲しいエピソードで幕を閉じることになるけれど、そこにふと顔を出す人物たちの滑稽さを描くときにもプルーストは容赦しない。(訳者) 登場人物の中心はヴィルパリジ夫人である。ヴィルバリジ夫人については、本著の栞に主な登場人物のごく簡単な紹介がある。(これはすこぶる便利なのだ)それによると、「祖母の友人でゲルマント公爵夫人の叔母。サロンを主宰」とある。 本編は、「私」によるヴィルパリジ夫人への辛辣さにみちた人物評から物語ははじまる。 すこし読みすすんでいって、「私」による「才能」というものについてのごく短い考察がある。それがあまりにも正鵠を射たものであるので紹介したい。 才能はある種の精神的気質に由来する生きた産物である。ひとつの感受性だけが際立っていて、書物を通してでは気づかないそうした感受性のさまざまな現れ方はその人の生活、たとえば好奇心のあり方とか、折々の気まぐれとか、――社交界の繋がりを増やしたり維持したりするためでなく、また、単に社交上の関係でそうするのではなくて――もっぱら自身の喜びのためにどこそこへ行きたいといった欲求のなかに顕著に感じられるものだ。 この「社交界」という箇所をたとえば「俳壇」とか「詩壇」とか「文壇」などに置き換えてみてもいいかもしれない。わたしにはすごく納得できる考察であり、ふっとある顔が浮かんだりもする。 そしてまた本著の魅力のひとつは訳者・高遠弘美さんによる「読書ガイド」である。これは本当に面白い。 そこで「挫折」ということに触れている。すこし長いのだが、抜粋しながら紹介したい。 プルーストを最後まで読めなかったとき、人はしばしば「挫折」という言葉を使う。だが、岩波文庫で二十六冊の『マルドリュス判千夜一夜物語』を最後まで読めなかったとき、『千夜一夜物語』に挫折したと言うだろうか。十冊の『西遊記』を読み終えることができなかったとき、「挫折」という言葉を用いるだろうか。私の思うに「挫折」という陰鬱な響きを発する単語は、ことにプルーストやドストエフスキーといった世界の文学史に屹立する大作家の作品を完読できなかったときにしばしば耳にするような気がする。そこにはあとで紹介するファニー・ピションが指摘するようにあえて言えば知的スノビズムが関わっているのではなかろうか。「プルースト、読んだよ」とか「カラマーゾフ、面白いね」と言いたいのに言えないときの一抹の悔しさのせいと言えばいいのかもしれない。さりながら、読者にはとかくスノビズムがつきものだとはいえ、スノビズムを満足させるための読書はやはりどこか歪(いびつ)である。読書は根元的に生きる力、生の喜びに結びついていなければつまらない。それゆえ、「挫折」という、逆方向のスノビズムの存在を窺わせる言葉は、率直に言って、プルーストに限らず、中断した読者にふさわしい言葉ではない。(略) 皆さまも振り返って考えて頂ければと思う。買った本、借りた本で最後まで読み通した数はどれくらいあるのかと。途中で読みさした本は十指に余るという方が大半なのではあるまいか。ましてや『失われた時を求めて』は世界最長とも言われる小説である。途中で気力がなくなって本を置いたとしても致し方ない。ただいつの日かまた手にとる機会がないとは限らない以上、その日を気長に待てばいいのである。第一巻で書いたようにプルーストを読んだからと言って人に吹聴する必要なさらさらないし、読めなかったからと言って、それを「挫折」と考えることもない。いくらスノッブの生態を事細かに描いている小説だからと言って、読む側がスノビズムに陥った意味がない。繰り返すようだが、読書は内面の世界を豊かにし静かに変革してゆく人間の営為にほかならないからである。 この一連の文章には見出しがつけられていて「読書には挫折ということはなく、読むべき『時』があるだけ」とある。 読書というものに非常にポジティブな意味づけをしておられる高遠さんだ。 いつだったか、高遠さんと話をしていて、自分にとっての「読書」という話題になった。 わたしは、すごく率直に「読書はあるときの自分にとって、現実からの『逃避』(甘美な逃避)になることもある」と言ったことがあった。 するとその時、高遠さんはちょっとへんな顔したのだった。 あとから、「読書は逃避ではあらず」と、ちょっと叱られた覚えがる。 「挫折」についての文章のみならず常日頃から「読書」というものがいかに人生において、人間が生きることにおいて力となりうるか、それを思っておられる高遠さんである。 高遠さんには、「ふらんす堂通信159号」で、「プルースト翻訳のあれこれ」というテーマで原稿をお願いしてある。 いまから楽しみである。 『失われた時を求めて』の完訳(こういう言い方でいいのかしら)を目指している高遠弘美さんである。 「第六巻ではまだ全体の半分にも達していないのだ」とある。 目もくらむような道のりである。 一友人として、その志を心から応援したいと思う。 おっ、 大分下が騒がしくなったぞ。 イベントのひとつがとおり過ぎていくらしい。 写真にでもとるか。。。。 #
by fragie777
| 2018-07-29 19:14
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