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9月1日(土) 二百十日 旧暦7月22日
木槿(むくげ)の花。 底紅とよばれるもの。 底紅や黙つてあがる母の家 千葉皓史 午前中は用事があってでかけ、午後よりはふらんす堂で仕事。 目下追い込みの最中である。 昼は出先の成城で昼食をとる。 お気に入りの店「あんや」でいつもの「稲庭肉味噌うどん」を食べる。 やっと写真に撮った。 いつも食い気が先行し、写真に撮るのをわすれてしまうのだ。 冷たいバージョンと暖かいバージョンがあって、わたしはいつも暖かいバージョン。 これを箸でぐぐっとかき回してしっかりと混ぜて、七味をたっぷりかけて食べる。 実はわたしは玉子は苦手なのだが、このうどんに限っては歓迎。 しっとりねっとりとして肉の甘辛とまざってたいへんおいしい。 そして、前回食べてたいへん美味かった「ミニ氷あずき」を食後に頼んだ。 yamaokaとしては上出来である。 「餡屋」だけあって小豆がめっぽう美味いのである。 氷の細やかさと小豆のシンプルな美味さ。 量がそれほど多くなく、デザートとして最高である。 多分、今年最後のかき氷となると思う。 今日から九月である。 雑貨屋さんに立ち寄ったら、すでに2019年のカレンダーと手帖が売られていた。 わたしはいつもこの雑貨屋さん「HANSEL & GRETEL(ヘンゼル&グレーテル)」でカレンダーと手帖を買う。 カレンダーは次に来るときにまわして、とりあえず手帖のみ購入。 ここも好きな空間である。 立ち寄ると必ず何かを買ってしまう。 今日は、シリーズ自句自解1 ベスト100 『大木あまり』より。 ひとりして萩のうねりをたのしめる 大木あまり 子供のころから、ひとりが好きである。人間や動物や植物も好きだし、幸せなことに良い友達も沢山いる。もしかして、ひとりが好きなのではなく我儘で自分勝手なだけなのかもしれない。この句。ひとりで吟行したとき、白い萩を見て作った。風にうねる萩のしなやかさと優美さを堪能し、じっくりと自分と向き合った。久しぶりに満ち足りた一日を過ごした。 そして、私はまだ本当の孤独というものを知らないと痛感した。 「本当の孤独」か。。。。 わたしはそれを知っているのだろうか。 わたしにもわからない。。。 ちょっと唐突であるが、シェイクスピアの作品のなかで孤独がどのように扱われているか、ふっと思って調べてみた。 まずは、「孤独」という言葉がふさわしい二つの作品を見てみた。(ともに福田恒存訳) 解説のところで「リア王」は4箇所出てくる。ところが「ハムレット」には一箇所も見当たらない。 リア王の孤独はわかる、ハムレットだって相当に孤独だったはずだ。 死がすぐ先にある老いゆくものの寂しさと、復讐の思いで煮えたぎっている若者の孤立した思い、 リア王は孤独であったが、ハムレットには孤独という思いをもつ余裕もなかったのか。。。 孤独とは何か。 人が孤独であると感じるときはどんなときなのか。 このブログを読んでいる、あなた。 いかが。 かわいいでしょ。 #
by fragie777
| 2018-09-01 22:18
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8月31日(金) 旧暦7月21日
野山はすっかり秋の風情である。 生落花生を生のまま食べてしまったyamaokaをはじめふらんす堂スタッフ総勢5人はすべて無事であった。 ひょっとして心配してくださった皆さま、 大丈夫です。 今日も皆元気に仕事をいたしました。 「生落花生生食事件(生がなんと三つ!)」の危機を乗り越え、今日はみなにお給料も支払えたのである。 生落花生をくださった山下きささんによると、わたしは二度もいただいており、一度目は湯がいたもの、二度目は生をそのままいただきそこに湯がき方が添えてあったもの。そしてわたしは、どうやらその通りに湯がいてスタッフたちに配ったらしいのだ。 全部忘れはてていた。 覚えていたのは、乾燥落花生とはちがうひんやりした舌触りのみ。 こんな感じで大事な手順をわすれさり、身体の感触と喰い意地だけで生きちゃってるyamaokaである。 それでは新刊紹介をしたい。 俳人・対中いずみ(たいなか・いずみ)さんの前句集『巣箱』に次ぐ第3句集である。「あとがき」によれば、 『水瓶』は私の第三句集です。二〇一二年春から二〇一八年春までの二六〇句を収めました。前句集『巣箱』上木後、「びわこ吟行」という会を始めました。メンバーは十名ほど、一回の吟行は車一台で移動できる五名以内という小さな吟行句会です。毎週金曜日に堅田に集合し、湖西か湖東に参ります。このひそやかな行のような営みから、本集の大半の句はうまれました。 とあり、主に琵琶湖周辺を吟行して生まれた第3句集である。毎週ということは週に一度は吟行をしていたことになる。そもそも対中いずみさんは、大津の本堅田というところにお住まいで、ここは琵琶湖の南西に位置している。琵琶湖は生活の風景のなかにいつもあるところだ。そのよく知っている親しい場所を毎週吟行したという。 それは瓶に一滴一滴水をためるような日々でした。また、日本最大の湖であり、近畿の水瓶と言われる琵琶湖へのリスペクトもこめて集名といたしました。 「水瓶」とは「琵琶湖」のことでもあった。 魚そよぐやうに竹の葉降りきたり 季語は「竹落葉」。夏の季題である。竹の葉が散るさまを「魚そよぐやうに」と喩えたのであるが、これは湖を自身の一部とみなしている人でこその措辞である。「そよぐ魚」とは、海でもなく川でもなく湖の魚である。澄みきった淡水にきらりと魚がひるがえるさまをよく目にしているのだろう。この一句における著者の視線は上方に向いていてきらきらと竹の葉が降ってくるのをやや眩しそうに眺めているのだが、それはまさに湖中の小さな魚のようだと思ったその時に、地上の風景と湖中の風景が混然一体となったような涼やかな甘美ともいえる思いに捉えられたのだ。「竹の葉降りきたり」という表現は、竹の葉のふるさまをまるでスローモーションのように呼び起こす。竹の葉が著者の足元にまで達するまでのたっぷりした静謐な時間。それもまた愛おしい時間なのだ。 水引に雨粒あたることわづか 栗鼠の目に冬日ともりてゐたりけり 雨のほか何にけぶらふ柳の芽 はなびらのすりぬけてきし桜かな 水を見てゐて沢蟹を見失ふ 上る蟻下りくる蟻と口つけむ いくつか句を紹介したが、これらはすべて凝視の句である。対中さんは目の前のものに「見入って」いるのだ。それは生命に「見入る」と言ってもよい。精魂こめて見入ることによって生まれた作品だ。 ほかに、 二三本鶯色の蘆の角 浅春の岸辺は龍の匂ひせる 白南風の雀が首を伸ばしけり けふ空のとほくなりたる稲穂かな 人待てばからだ傾く石榴かな 月朧音楽室に人満ちて 掌にうみたて玉子日永し 着信の青き光やみづすまし 古蘆に青蘆の丈まじりあり 芋の露赤子のつむじ大きかり 枝越しに象見え春の町が見え みづうみの入江にたまる木の実かな 思ふより熱き兎を抱きにけり この一句も好きな一句である。本句集を紐解いていくと私たちにはつねに「水」を感じる。それは著者の対中いずみさんの本句集への演出効果なのかもしれないが、(装丁からはじまって)著者の心に奥におかれた琵琶湖の風景が読み手へと伝わって「静謐な水韻」に支配されるのである。だからこそ、この一句の「兎」の体温の熱さが際だってくる。しんとした水の手触りのある作品世界のなかでの生き物の温もり、それは市井の雑踏のなかで感じるもの以上のものだ。ひんやりとした世界のなかで、命の手触りを愛おしむ。 本句集の装丁は和兎さん。 対中いずみさんにはかなりはっきりしたイメージがあって、それを和兎さんがブックデザイン化したことになった。 カバーの色はブルーであること。 龍のカットをいれて欲しいということ。 和兎さんは龍のカットをいくつか用意したのだが、採用になったのが、これ。 帯色は黄緑色に。 以上が対中いずみさんのこだわりだった。 表紙。 金箔の龍がこの句集に神秘的な趣を与えている。 対中さんの「龍」へのこだわりは、本句集をよめばうなづける。 龍がそこここに登場するのである。二句のみ紹介したい。 浅春の岸辺は龍の匂ひせる わたくしの龍が呼ぶなり春の暮 龍はきわめて身近な存在である。 亡き人の眼をのみ畏る稲の花 この一句にはっとした。 対中さんは、田中裕明を師とあおぐ俳人である。田中裕明の句に、 空へゆく階段のなし稲の花 裕明 がある。「亡き人」とはきっと田中裕明さんだ、ってすぐに思った。 龍をてなずけ呼び寄せちゃういずみさんでも、田中裕明さんの眼はコワイのだとおもった。 畏いものがあることは、よいことよ、いずみさん。 #
by fragie777
| 2018-08-31 20:31
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8月30日(木) 旧暦7月20日
萩の花。 三日月やこのごろ萩の咲きこぼれ 河東碧梧桐 雨粒のひとつひとつが萩こぼす 山口青邨 かつてイケメン仏像をもとめて奈良に遊んだときに立ち寄った新藥師寺の萩の花がきれいだった。 萩の花は古寺によく似合う。 生落花生がでまわる季節である。 以前いただいたことがあり、美味しかった記憶があるので、わたしも大地の会より購入してみた。 今日届いたそれを、さっそく今日のおやつにとおもって仕事場に持参した。 おやつの時間になり、お皿にのせてそれらは配られた。 「おお、これね」 と言ってわたしはすぐにパクついた。 うん? ちょっと生っぽいかな、でも、みずみずしいや。 ということでまたひとつ口に入れる。 ちょっと塩っ気が欲しいかな。。。。 と、塩を振りかけてみる。 そしてまた一つ。 前に貰ったのってこういう味だったかなあ。。。。なんて思いながら。 また一つ。 スタッフの一人が、 「何だか草の匂いがします」って。 「これって前のと全然味がちがうよねえ」とも。 で、 「生じゃ食べられないんじゃなかった。。。前に食べたのは茹でてあったよ」とスタッフ。 ひえー!! そうだったかも知れない!! 急いでインターネットで「生落花生の食べ方」を検索する。 「茹でてたべるように。生では食べられません。」ですって、ゴメーン! 幸いなことにわたし以外のスタッフは一つくらいしか食べていなかった。 わたしは? ええっと、お皿にある半分くらいを食べちゃった。(がっついてんのよ) すぐにインターネットで「生落花生を生で食べてしまった場合」を検索する。 どうやら死ぬことはなさそうか。少し安心。 しかし、かつては土壌が汚染されているため、絶対に食べてはダメだったらしい。いまは土壌の管理もされているので大丈夫な場合もある、ということ。だが、どんな菌が付着しているかわからないということである。 「ねえ、わたしが腹痛で苦しみだしたら、すぐに救急を呼んでね」とスタッフたちにお願いした。 その後は、ほとんどそのことを忘れて仕事に没頭した。 ブログを書いている今、ふたたびこうして思い出しているのだが、いまんとこ大丈夫。 明日の朝まで大丈夫かなあ、、、、 明日わたしが倒れたら、それは生の落花生を食べてしまったことによります。 ピンピンしてたら、明日は新刊紹介をします。 かつて落花生を下さったのは千葉にお住まいの俳人の山下きささん。 ふらんす堂より2009年に第1句集『水路』を上梓されている。 お料理が上手で、美味しそうにゆであげたものをいただいたのだった。 冷蔵庫で冷やしてそれを食したのだが、そのひんやりとした食感だけを覚えていて、粗忽者のわたしは生だと勘違いをしてしまったらしい。(驚くほどのアバウトさ。自分でも呆れる) 山下きさんがもしこのブログを読まれていたら、びっくり仰天ものだわ。 茹でて食さなくてはいけないと気づいたあとの私たちは「生落花生」をどうしたかというと、封筒のなかに落花生をいれてレンジでチンしていただきました。 「そうそう、この味よ」って言いながらスタッフたちは食べていました。 わたしも4粒ほどを貰って食べて、ああ、この味ねって思った次第。 まったくもってガサツな人間のyamaoakでございました。 こんなyamaokaですけど、お見捨てになりませんように。 #
by fragie777
| 2018-08-30 19:17
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8月29日(水) 旧暦7月19日
羽黒草(はぐろそう) 昨日の松風草とおなじ下名栗の杉林に咲いていた。 その杉林とは、 なんとも杉の霊気にみちたところである。 触ればひんやりと冷たい。 この草叢に目を凝らしてようく見ると、松風草や羽黒草などがひっそりと咲いているのだ。 いったい誰が気づくだろうか。。。 そんな杉林を背後に里の祭りは行われる。 朝日新聞の連載「語る」は、今週から詩人の谷川俊太郎さんだ。 今日は最初の詩集『二十億光年の孤独』が刊行されたころのことを語っている。 このブログを見ている人たちのなかではきっとこの記事を読んだ人がいると思うけど。。。 面白かったのは、「宇宙内存在」という言葉。谷川さんは人間には「社会内存在」と「宇宙内存在」があるという。 「社会内存在」というのは他人との関係のなかでなりたつ自分。「宇宙内存在」というのは、他人が全部消えて自分一人になったのが宇宙内存在。単独の人間として宇宙と対峙する、宇宙を感じる、ことなんだそうである。そうして谷川さんにはそういう感覚が当時から、ということは若いころからずっとあるのだということ。 そうなのか。 なんだかすごいな。 単独の人間として宇宙を感じる。。。。 そんな思いありました? すくなくとも私にはなかったな。 きっと谷川さんは、この「宇宙内存在」を認識したときに詩を書くのだろう。。 二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした この詩の2行はきっと「宇宙内存在」から発信されたものなんだろう。 「社会内存在」としての自分ではない、もう一つの自分をあえて見いだすとしたらわたしは「物語内存在」かなあ。 「物語内存在」というのは、自分が出会ったさまざまな物語のなかで自分を自由にするということ。それは夢想と言ってもいいのかもしれないけど。。。夢見る乙女だったんよ。。(今もその尻尾を持っている) だからね、 そんな風にして自分の「◯◯内存在」を見つけていくというのも楽しいんじゃない。 さて、 あなたは。 さて、 「社会内存在」としてのわたしは、目下しゃかりきで仕事をしている。 まさに仕事は追い込み状態である。 今日は新涼の一日だったせいか、身体がホッとしたとみえてヤケに眠い。 なにしろ今年のすごい暑さに身体がおびえ緊張していたようだ。 「わたしだけかしら、眠いのは?」ってスタッフに聞いたら、 「わたしも眠いです」とスタッフが口を揃えた。 今日は睡魔との闘いの一日となった。 この杉もすごいでしょう。。。 圧倒的である。 #
by fragie777
| 2018-08-29 19:33
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8月28日(火) 天地始粛(てんちはじめてさむし) 旧暦7月17日
松風草(まつかぜそう)。 下名栗の杉林に咲いていたもの。 「可憐な花がたくさん咲いていたよ」って、友人の正人さんが連れて行ってくれた。 そこには、ほかに羽黒草や盗人萩なども咲いていた。 しかしながら、仕事人yamaokaであったらすべてを黙殺していただろうと思うが、遊び人いや風流人(?)に変身をしたyamaokaであるので、小さな花にうずくまってその健気な命に触れたりしちゃうのである。 ほんとうに可憐である。 「松風草」という名前もゆかしいではないか。 少し歩くと、こちらにも似た白い花が咲いている。 これは松風草か。。 いや、ちがう、葉っぱのかたちがちがう。 この花も愛らしい。 名前はわからない。 花が答えてくれるのなら、聞いてみたい。 新聞の記事を紹介したい。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、新家月子句集『赤い靴』より。 飴玉を噛み砕く癖赤のまま 新家月子 句集『赤い靴』(ふらんす堂)から。作者は1971年生まれ、建築士、俳人として活躍する女性だ。季語「赤のまま」はイヌタデ、粒状の赤い花をままごとで赤飯に見立てたのでこの名がある。今日の句の「癖」はままごとで遊んだころから続いているのか。「流星に願ひ一つが見つからぬ」「玻璃のやうなる翅残る秋の蝉」も月子さん。 おなじく今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、古賀しぐれ句集『大和しうるはし』より。 露の文より余花朗の句を拾ふ 古賀しぐれ 中井余花朗は高浜虚子の弟子。琵琶湖の西岸、堅田の人である。古賀しぐれはその孫娘。句帳や手紙から祖父の句を集めているところだろうか。いい俳号はそれだけで一片の詩。一句の中にしっくりとすわる。句集『大和しうるはし』から。 昨夕は帰りがけに夕立がひどくなりしかも凄まじい雷である。 とてもこのままじゃ帰れないと近くの店に飛びこんで、夕飯を食べてしまうことにした。ワインを一杯とコーンの天ぷら(これがめっぽう美味い)やアボカドとトマトのサラダや肉炒めのサンチェ巻等々もろもろを食べたりしていたらどうにか雷もおさまり雨も小降りになったので、帰ることにしたのだった。 たまにはいいでしょ。 お腹もいっぱいになりすっかり満足したyamaokaであった。 しかしではある。 このところ200グラムずつ体重が減っていたのであるが、今日体重計に乗ったら見事に増えていた。 ガーーン!! またやり直しだな。。。。。 朝の猫。 「しっかり働いて来なさいよ」って目が語っている。 #
by fragie777
| 2018-08-28 19:26
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