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9月11日(火) 二百二十日 旧暦8月2日
鎌倉・鶴岡八幡宮の蓮池。 昨夕は、帰りがけに予定どおりヨーグルトを買ったのであるが、無花果がおいしそうだったのでそれも購入。小粒のものが六個入っている。 今朝、ヨーグルトのなかにその無花果をひとつ細かめに切っていれてみた。 (なんでもいれちゃうヨーグルトなので……) そして口にいれたところ、これがたいへん美味しいのである。 ヨーグルトと一緒に無花果を食したことがこれまでになかったのであるが、これほど美味しいとは。 とろりとしたヨーグルトに無花果のまろやかな甘さとやさしい酸っぱさ、いい感じでミックスされて、ちょっと癖になりそうである。 無花果がでまわる季節はとても短い。 わたしはせっせと無花果を買うことになりそうである。 食したことのない方、 お試しあれ。。。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 第一句集シリーズ。 著者の石戸菜々花(いしど・ななか)さんは、昭和42年(1967)生まれ、東京在住。俳句は、超結社句会にさそわれて始め、「結社に入ってもっと勉強するように」と言われ、平成22年(2010)に「円虹」(山田佳乃主宰)に入会し、現在に至る。 本句集は、平成22年(2010)から平成30年(2018)年までの作品を収録。山田佳乃主宰が序文を寄せている。 菜々花さんの俳句は対象の独特の把握と視点のユニークさで一味違った趣がある。 斬新ではあるが、現代的な感覚が豊かな語彙と的確な表現で微妙なバランスを保っている。 モダンですらりとした菜々花さんの雰囲気がそのまま俳句にも表れていて、いつも俳句を読むと菜々花さんらしいなと思うのである。 徳利の首より冷むる春の果 手折らぬも手折るも寂し野紺菊 ポケットの奥のざらりと磯遊 水菓子のよそよそしさや迎盆 かたかたと椅子の傾ぎて氷店 寒木に抱きつけば象の手触り 鋭い五感を働かせた対象把握は印象的で実感を伴って伝わって来る。なんでもないような皮膚感覚が菜々花さんにかかれば、心のどこかを揺り起こすような一句となるのだ。 序文より抜粋して紹介した。「伝統的なものと現代的なもののバランスが絶妙である。」とも書かれているが、まさにその通りであると思う。 体温をうつさぬやうに桃を剥く 手の平の体温がどうしても桃にうつってしまうように、句には私の体温がうつっていると思い、この句集を「体温」としました。 「あとがき」の言葉である。 「句には私の体温がうつっていると思い」という発想がすばらしい。いままでそんなことを言った人がいただろうか。たしかに、そうだと思う。「体温」というタイトルがとても素敵に思えてきた。 本句集の担当はPさん。 空腹の体春日のとほりけり のどとほる水の勢ひ夏に入る もうすでに裏窓はジャスミンのもの 口紅のゆるびはじむる温め酒 体温をうつさぬやうに桃を剥く 花冷やそろり触れくる犬の鼻 虫時雨一振り半で消すマッチ 「体温」と句集名をつけたように、身体意識が鋭敏な人なのかもしれない。身体を通過させて季節を感じるというか。Pさんがあげた句を見てもそう思う。ほかに、 くちびるを鶯餅にうばはるる 手のひらに残す泉のしづくかな 着ぶくれて臍なくしたる心持ち 腹くちくなりたる心地日向ぼこ 鶯の声のやうやうふとりたる 犬ふぐり手をついてから座る土手 次の足どう出さうとも春の泥 どれも面白い句である。 まず、身体ありき、なのである。身体感覚によって確かめる季節がある。 「小さな変化に気付くこと、何かの気配を感じること、じっと待つことなど、庭にたくさんのことを教えてもらいました。」と菜々花さんについて佳乃主宰が序文で書かれているように、「気配を感じ、じっと待つ」ことを菜々花さんは、自身の身体をとおして学んだのである。 香水を選びて今日のわらひかた 有楽町地下半坪の香水店 香水をまとひ八割方無敵 香水に遅れて声の届きけり 一瓶は誰にも会はぬ日の香水 香水の句がたくさんある。香水もまた身体につけるもの。香水がお好きなんだなあって、おもった。だって誰にも会わない日のための香水があるのだから。香水をつけて女は武装する。そう、「八割方無敵」とかなり強気になる。そして石戸菜々花さんには、声よりも先に香水の香がとどくのである。わたしも香水はきらいじゃないけど、夏の季節は気に入った香水(これがそうはないのだが)をつけるくらい。しかし、著者の石戸さんは、そんなハンパなことはしない。香水はわが身のゆくすえを左右するほどのもの(?!)らしく思える。人に会わない日にも香水をつける。自分のために。それにもこだわりの香水がある。こういう女性ってわたしは好きだなあ。素敵じゃありませんか。美しい心意気だ。 子供の頃から本を読むのは好きでしたが、自分から積極的にものを書くことはありませんでした。俳句と出会い、何かに真剣に向き合ってきちんとした形で表現することがどれほど難しく、どれほど面白いかを知りました。そして、私はずっと自分の思っていることを表現してみたかったのだということに気づきました。掬い上げたと思った途端に逃げていく言葉をどうにかして自分のものにできたらと日々模索しています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 美しい心意気のある石戸菜々花さんのために、和兎さんが選んだ色は、薔薇色。 華やかさと温もりのある薔薇の色だ。 犬ふぐり手をついてから座る土手 都会的な感覚に田園的な感覚も加わって豊かな詩情を描き出しているのである。 と山田佳乃主宰。 花衣たたみ終はつてから泣かむ いいなあ、この心意気。やはりこういう人なんだって思った。背筋をのばし首をシャンとたて矜持をもって生きている女性。美しいものへの愛おしい思い。泣くまいとがんばっている意気地、悲しい、悔しい、無念、さまざまな思いを心によぎらせながら、丁寧に花衣をたたんでいく。映画のワンシーンのようだ。ああ、わたしまでも悲しくなってきた。 石戸菜々花さんは、きっと自身の生きるスタイルをもっている人だ。わたしはこういう女性、のみならず男性、のみならず人間にぐっとくる。 わたし? もっちろん もっているわよ。 伸縮自在ないい加減さをね。 あはっ。 #
by fragie777
| 2018-09-11 19:36
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9月10日(月) 旧八朔 旧暦8月1日
青柿。 すでに今ごろは色づいていると思う。 愛猫ヤマトの薬をもらうために、出社まえにご近所の動物病院へ行く。 ここは、近くの人たちが散歩がてらに立ち寄って診てもらうという構えのない動物病院で、わたしは気に入っている。 なんでも検査、検査という病院でないのもいい。飼い主の実情にあわせて診療してくれる。 今日は月曜日とあってか、混んでいた。 それも犬ばかりだ。 みな一見元気そうに思えるのだが、それぞれ病気をかかえているらしい。 犬連れの人同士の会話である。 「いくつ、元気そうね」とパグをつれた老婦人が訪ねる。 「元気そうに見えるんですけど、13才、もうおじいちゃんなんです」と応えたご夫人はプードルを連れている。 (そうか、犬は13歳でもうおじいちゃんなのか。) 「あら、そう? ああ、でもよく見ると、そうかしらねえ。うちのこ、もう15歳よ。アトピーがひどくてねえ。」 床にへばりついているそのパグは「ゼイ、ゼイ」と息をしてちょっと苦しそうである。 身体中に無数の点のようなものがある。 「犬にもアトピーってあるのですか?」って無知なyamaokaは、聞く。 「あるんですよ。」 「そのぶつぶつがそうなのですか」 「いえ、これは老斑かしら、アトピーはお腹がひどくって」 そうなのか。 その犬は雌犬らしくおしゃれなドレスのようなものを着ている。 見わたすと犬たちはどれも老犬らしい。 みな定期的な診察をうけながら、頑張っているらしい。 長生きをすることは犬もなかなかシンドイ様子だ。 いまは、犬も人間もなかなか死ねない時代なのだ。 そういうわが家のヤマトもすでに17歳である。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 216頁 著者の滝口滋子(たきぐち・しげこ)さんは、昭和22年(1947)神奈川県・川崎市生まれ。平成6年(1994)「百鳥」(大串章主宰)に入会し、平成14年(2002)「百鳥」同人。平成16年(2004)に「百鳥」を退会し、平成17年(2005)「いには」(村上喜代子主宰)の創刊同人となり現在にいたる。平成25年「いには」同人賞を受賞。平成28年(2019)千葉県俳句作家協会賞受賞。俳人協会会員。本句集は平成6年(1994)から平成30年(2018)までの356句を収録した第1句集である。序文を村上喜代子主宰が寄せている。序文によると滝口滋子さんの家は俳句一家である。 滋子さんは俳句一家の家庭の育ちといってよい。お父さんは「濱」の同人だった後藤湖月氏、弟の雅夫さんは「百鳥」の同人として活躍中、上の弟さんは最近「いには」に入会、めきめきと力をつけてきている。俳句のある家庭に育つと、実際に句作をしていなくても俳句が身についているように思う。 集中、父母や家庭を詠んだ句は多い。 病む父へ通ふ車窓のさくらかな 蟇父を永らへさせ給へ 逝きて知る父の信仰栗の花 長女であった滋子さんは看病のために足繁く実家に通っている。「父を永らへさせ給へ」は真実の心の叫びとして胸に響く。神や仏ではなく「蟇」としたところに、共に俳句を愛した父と娘の俳諧精神が垣間見える。 秋海棠母の白髪うつくしき 鰯雲髪を切つたんだねと母 月今宵九十七の母端座 名月の光を浴びながら端座している母。夫を見送り三人の子供、更に孫や曾孫を見守りながら、なお矍鑠と背筋を正して過ごされているお姿に、刀自の佇まいが窺える。 この句集名『ピアノの蓋』は、 夏怒濤ピアノの蓋のあいてをり から名付けられている。滋子さんは小学校に入った頃からヴァイオリンを習い、大学卒業後小学校教師として奉職しながら声楽等も学び、常に音楽とのかかわりが深かったようだ。そのためか集中どの句にもリズム感があり、ひらがなを多用する等、表現はやわらかくやさしい。特にオノマトペには手垢の付かない独特の感性が感じられる。 鰯雲髪を切つたんだねと母 この句を読んだとき、わたしは自分の母親を思い出し懐かしさがこみあげた。滝口さんのお母さまはご健在であるが、わたしの母は70代で亡くなってすでにいない。これはわたしの母の口調でもある。この句、娘にそそぐ眼差しがかぎりなく優しい。なんだか切なくなってしまう。わたしの母はすでにこの世の人でなく、わたしが髪を切ったってこんな風な言葉は聞こえるはずもなく、ああ、でも言ってもらいたいよ、今だって。この一句には娘の存在を全面的にうべなう母がいる。あくまでわたしの場合であるが、顔が不器量だって、鈍くさっくても、なっちゃなくてもそのままそれを受け入れてくれる母がいるのだ。そして「鰯雲」である。その母の思いは、卑近なところからではけっしてなく遙かなところからやってくるのだ。鰯雲の先には母の顔があるではないか。ああ、お母さん。。。きっとお母さまが思い出の人となっても、著者の滝口さんにはこの「髪を切つたんだね」という母の声のぬくもりがありつづけることだろう。 草笛の父の音にはならざりし 父を詠んだ句はたくさんあるが、わたしはこの句がとくに好きである。草笛を吹くのが上手なお父さまだったのかなあ。草笛なんて誰が吹いてもおんなじ音じゃないのって、思ってしまうのだが、滝口滋子さんにとっては「父の音」はとびきりのものだった。それはお父さまが草笛吹きの名手っていうことではなくて(そうだったかもしれないけど)、その草笛を吹いて一緒にあそんでくれたお父さまが吹いてみせた草笛だからそれはもう天下一品の音に聞こえたのだ。父亡き今草笛を吹いてはみたが、どうしてあのときの父の音のように吹けないのか、それはそう、父の音はすでに失われたものであるから取り戻すことはできないのである。父とのいろいろの思い出の籠められた至福の時間の草笛の音。それは失った今、もうどんなに頑張っても「父の音」にはならないのだ。 滝口さんの父母の句は、ノスタルジーでむせかえるような父恋、母恋の句である。 二十五年に渡る句を一冊にまとめるにあたり、作句場所やその時の自分の考えなどが甦り、この句集に自分史が詰まっていると思いました。加えて、辛く悲しく苦しい時に、俳句が支えになってもいました。それぞれの句が幼くて、奥深いものでは無いことに忸怩たるものがありますが、この句集を一区切りにし、新しい自分を発見できるような句を作れるように、自分を磨いていこうと思っています。(略) 最後に、俳句の先達であった今は亡き父と、六月に白寿となる母にこの『ピアノの蓋』をささげます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 メモ帳に筆圧残り八月尽 ふとん屋の軒に顔出す燕の子 義士討ち入りの日の溜まり来る静電気 俎の寒鰤の目の盛り上がる 夜桜の灯影鼻梁に揺れにけり 船べりの鱗に春のひかりかな みづうみの底のひびわれ黒揚羽 冬満月蛸の頭の伸びにけり 夕日まで秋草をかきわけてゆく 鰯雲髪を切つたんだねと母 綿虫の吸ひ込まれゆく埴輪の眼 女郎蜘蛛糸を曳きたる能舞台 鬼やんま死しても空を飛ぶかたち 先に眼を逸らせしは吾檻の鷹 さざ波へ伸びてゆきたる桜の芽 祭笛ささら摺る子の伏し目がち 的中の矢の熱からむ麦の秋 本書の装丁は、君嶋真理子さん。 すべてお任せという滝口滋子さんだった。 ブルーを基調に爽やかな一冊である。 見返しは淡いブルー。 扉。 夏怒濤ピアノの蓋のあいてをり 句集『ピアノの蓋』は、着実に研鑚を重ねてきた滋子さんの満を持しての第一句集である。二十五年前のあのうぶな瞳の輝きは今も健在であるが、一瞬を掬い取る眼力、表現力は逞しくなった。 長命の家系でいらっしゃるので、まだまだ未来は長い。俳句があれば何よりの生きる力となってくれることだろう。 村上喜代子主宰の序文である。 女郎蜘蛛糸を曳きたる能舞台 この一句、演劇的である。能舞台のどこかに女郎蜘蛛が糸をかけたのことを詠んだのだろうが、女郎蜘蛛となったシテが糸を曳いて舞いながら能舞台を去っていくような、そんな一瞬をおもわせる。物語性をひめた一句だ。写生句としてもアングルが重曹的で構図的だ。能舞台の入り組んだ手摺のどこかに糸をかけた女郎蜘蛛がいる。そこからさっと目をあげれば大きな骨組みの簡素な能舞台へと視線がひろがる。静から動、そして静へと動きを運動も内包している。やはり演劇的だとおもう。面白い一句である。 今日はこれから近くのクイーンズ伊勢丹に寄ってから帰るつもり。 ヨーグルトを切らしてしまった。 朝は納豆とヨーグルト、 これ わたしの定番ね。 ヨーグルトのなかにはそれはもういろんなものをいれるの。 ヨーグルトを食べる、というより、混沌を食べるっていう感じかな。 いつかそれを写真で紹介しますね。 驚くよ。。。。 #
by fragie777
| 2018-09-10 19:51
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9月9日(日) 草露白(くさのつゆしろし) 旧暦7月30日
けぶる秋草。 まさに草の露白し、といったところか。 「鎌倉の大仏は、江ノ電の極楽寺ではなくて長谷ですよ」って、今朝さっそく折勝家鴨さんよりツッコミのメールをいただいた。 あらもう、何から何まで間違っていて、ほんとうに当てにならないyamaokaです。 鎌倉の大仏さまへ行こうとおもったら、江ノ電の「長谷」駅でおりてください。 極楽寺はおとなりの駅で、そこからだって行けないわけじゃないけど、どうしてそう思い込んでいたか。 極楽寺には、かつて大学で「パスカル」を学んだ安井源治先生が住んでおられて、期限すれすれになったレポートを送ったような気がする。その時住所をしらべて大仏のそばっておもったか、あるいは講義のときに大仏の話がでたかは記憶はさだかではないのだけれど、大仏というと安井源治先生を思い出すのだ。 それがどうして昨日のことのようになったか、つまり鶴岡八幡宮のうしろの森に大仏様がおられるって思い込んだか、わたしにもさっぱりわからない。 今日は寝坊をした。 大急ぎで仕度をして「太極拳」に向かう。 今日から新しい学期となる、その手続きもしなくはならない。 少しの遅刻ですむかもしれないとおもってややほっとしたのである。 しかし、である。 エレベータでお仲間に会う。 「あらあ、早いですねえ」 「ええっ、今日は早いですか。」 「yamaokaさんとしてはずいぶん早い方じゃないですか」 「そうですかあ、わたしは遅刻だと思ってました。それに今月からあたらしい学期ですよね」 「いいえ、まだですよ。10月からですよ」 「ひやあー、そうでしたかあ」 このあと会う人ごとに、「今日は早いですねえ」と言われたのである。 と言われても、さっぱりわけがわからないyamaokaである。 すべてがこんな具合である。 わたしは太極拳をもう10数年やっているが、毎回何時に家を出たかを記憶していない。というより毎回違うような気がする。し、何時に出ればいいのかが、頭の中に記憶されていないのだ。 つまりはいつも出たとこ勝負である。 家の時計もすすんでいたり、遅れていたりさまざまである。 よくこれまで無傷でやってこられたものと驚くばかりである。。。。。 電車には乗り遅れ、乗り過ごし、わたしの時間は伸縮自在である。 太極拳でのわたしの課題は、身体がお腹のあたりがややつぶれていること、そのことをいつも指摘される。 もっとのびのびと、って。 これって案外難しいのである。 友人のYさんがこうアドバイスをしてくれた。 「お腹や腰を意識するのではなくて、頭を高く置く、といいかも」 頭を高く、ね。。。。 「腰をのばす、とか背筋をのばす、とかはどうしても筋肉を緊張させてしまうでしょ、頭を高く置く、というのはどこも緊張させないから身体に負担がかからないのね」と。 なるほど。 そしてYさんはわたしのこれまで聞いたことのない言葉を教えてくれた。 「アレクサンダーテクニーク」 そばで聞いていた声楽をなさっているお仲間が、「ああ、それ知ってますよ、わたしたちも取り入れてます」って。 「アレクサンダーテクニーク」とは、「頭と身体の関係や身体構造を考察し、身体を再編成させる心身技法」とでも言うのだろうか。 ブログを読んでいる方は、ご存じだろうか。 Yさんはいろいろな例をもって、アレクサンダーテクニークについて教えてくれたのである。 腰痛対策としても効果があり、演劇人や音楽家など多くの人が取り入れれているという。 Yさんは、中国医学を学んでいて漢方の知識も豊富である。 先日は漢方の加味逍遥散を教えてもらって、わたしはたいへん助かっている。 そして今度は「アレクサンダーテクニーク」である。 腰痛でなやんでいる方、 洗顔をするとき、片方の足だけすこし高いところにおくとそれだけで、腰への負担が軽減されるそうです。 お風呂の椅子のようなものでいいらしく、それを洗顔などでかがむときにただ屈むのではなく、片方の足のみをその椅子の上においてかがむのですって。それだけでいいらしい。 わたしは腰痛はないけど、腰痛のある方、是非にためしてご覧ください。 すごく簡単なことですもの。 よくなったら、 yamaokaあてに金一封を! なんて嘘、嘘。 わたしの課題は、頭を高く置く、っていうこと。 これが案外むずかしい。 つねに意識なんてできなからね。 家にかえるとパンダのごとくゴロゴロしてしまう。 アレクサンダーテクニークで、わたしの出たとこ勝負もなおるかしらん。。。。 #
by fragie777
| 2018-09-09 18:03
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9月8日(土) 白露 旧暦7月29日
今日から「冬野虹素描展」が鎌倉のミルクホールにて開催される。 →「冬野虹素描展」 今日は午後2時半から行われるギャラリートーク「冬野虹ー光とともにときはなたれ」(詩人・中本道代 俳人・鴇田智哉 俳人・四ッ谷龍)が行われる。 わたしは申し込んであったので今日は楽しみにしていた。 そしてせっかく鎌倉に行くのだからちょっと早めに出て「鶴岡八幡宮」や大仏を見ようと決断し、残暑厳しい日であったが出かけたのだった。 結婚式が行われていた。 白無垢の美しい花嫁。 しかし、この暑さである。 (キツイだろうな…)なんて思って花嫁さんの顔をみたら汗ひとつなく幸せに輝いていた。 わたしの後ろで見ていた中年の女性が、「いいなあ、結婚式、わたしももう一回やりたいなあ、何度だってやりたいよ」って隣の女性に言っている。 わたしはひたすら感心してしまう。 秋の空である。 本殿というのかしら、一通りみて、(大仏はどこ?)って頭をめぐらした。 (あの森の向うかしら)ってしばらく歩いてもそれらしきものはない。 わたしはアイフォンのグーグルマップで「鎌倉 大仏」で検索してみた。 すると、まあ、歩いて40分とある。 あれー、こんなに遠いところに大仏って、と思ったとたんに思い出したのだった。 鎌倉の大仏って、江ノ電の「極楽寺」におはしますんだってことを。 すっかり忘れていたおめでたいyamaokaだった。 そうよ、そうだった。 時間をみるとあと45分くらいある。 どうしようかな、江ノ電に乗って大仏をみて由比ガ浜の海でも見ようかしら…… ああ、だめだ、きっと間に合わない。 状況判断が甘いっていつも言われているじゃないの。 ということで、大仏はあきらめてその代わりに、 氷あずきを食べたのだった。 おいしかったけれど量が多くて残してしまった。 運のいいことにたまたま入ったこのお店からミルクホールまで歩いて1分。 わたしはミルクホールへ向かったのだった。 まず二階の冬野虹さんの作品を見る。 (作品は写真に撮れないのですてきな展示室のみ紹介します) 間村俊一さんによる美しい造本である。 右から句集『雪予報』、歌集『頬白の影たち』、詩集『かしすまりあ』 階下ではそろそろトークショーがはじまる。 中本道代さん、時田智哉さん、それぞれがまずご自身の作品の朗読をされた。 中本道代さん。 中本道代さんの最新詩集『接吻』(思潮社)は本年度の萩原朔太郎賞をご受賞された。 鴇田智哉さん。 鴇田さんは、冬野虹さんの作品へむけて三句つくられて発表された。 (どの句も面白い句だったのだが、耳で聞いただけで時田さんから裏をとってない(?)ので発表はひかえます。きっと「オルガン」で発表されるのではと期待しています) トークショーはとても面白く、いい時間だった。 冬野虹さんの素描をみたおふたりの感想は……。 中本道代さん:あどけなく無垢で、どこか傷ついているものを感じた。 鴇田智哉さん:冬野さんが何を大事にしているのかすこし見えた。ものが重なっている表層にいるのだけれどそうでないところ(もっと深いところ)にかえっていく。素描という線で描くことはスリリングなものがある。 わたされたレジメより。 「病からの恢復、再生の感覚が、あえかな光のヴェールをかけわたしている」(中本道代「光のヴェールを『冬野虹作品集成』」) 「透きとおる明度は、虹さんの句の命だと思う。砂時計の筒のような明度、スライドのフィルムのような明度」(鴇田智哉『気と明度』) トークショーが終るとワインパーティとなる。 その間の休憩時間。 四ッ谷龍さんにうかがったのであるが、このミルクホールは、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」の舞台となったところだという。 虹さんの作品が展示されている二階を見上げる。 展示に集まった人立ち。 存じ上げている人たちが多い。 橋本直さん、西村麒麟さん、小川楓子さん、宮本佳世乃さん、江田浩司さん(今日始めてお目にかかった) 詩人の杉本徹さんに久しぶりでお目にかった。 お元気そう。散歩にいそしんでおられるようで日焼けをされていた。 「俳句アルファ」の中島編集長さん、思潮社の藤井一乃さん、書肆山田の鈴木一民さん、俳人の永嶋靖子さん、折勝家鴨さん、大西朋さん、堀田季可さん、 高橋睦郎さんもお見えだ。 会場はそれはたくさんの人であふれていた。 ワインパーティがはじまる。 あしたりすにさんによる「シャーロットは見ているー冬野虹を歌うー」のライブもある。 くもりガラスをとおした夜の青が美しい。 盛況のうちにイベントは終る。 とても楽しかった。 二次会もあり、心引かれたがわたしは失礼をする。(ブログも書くしね) 誰よりも先に帰ったのに途中で日傘をわすれとりに戻ったり、忘れ物をした私を待っていてくださった永嶋靖子さん、折勝家鴨さん、大西朋さんとご一緒して、電車にのる。 すると楽しいおしゃべりがはじまって、話に夢中になってしまいわたしときたら、武蔵小杉で降りそびれ、新宿で降りそびれ、新橋でのりかえてどうやらこうや仙川に到着したのだった。 ちょっとした小旅行でございました。 長いブログを書いていたら夜中をまわってしまった。 これからお風呂にはいる。 そして寝るわ。 その前に、 虹さんが愛飲していたもので、いつも箱買いをしていらしたそう。 わたしのお気に入りの素描の前で。。。。 じゃ、 おやすみなさいませ。 会えなかった大仏の夢でもみようと。。。。 #
by fragie777
| 2018-09-09 00:32
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9月7日(金) 旧暦7月29日
なんきんはぜの木。 この近くには胡桃の木などもあって緑が美しい。 最近は夢をみることがすくなくなったなあ、と思いながら今朝も目覚めた。 狭庭に四十雀のつがいがチラチラと影をみせている。 カーテンをそおっと開けたのだが、さっと飛び立ってしまった。 (ふふふ……、かわいいヤツめ)ってわたしは呟いた。 さて、新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル。72頁 第1句集シリーズ。 著者の白戸麻奈(しらと・まな)さんは、1969年東京生まれ、現在は東京・調布市在住。2012年に「紫」に入会、2014年「紫」同人、2017年に「紫賞新鋭賞受賞」を受賞されている。現代俳句協会会員。本句集に「紫」主宰の山崎十生氏が序文を寄せている。 山崎十生主宰は、「私が唯一声を大にして言えるのは、白戸麻奈の句集は、本シリーズ参加の他の句集とは異質と云うことである。」とその序文に書く。確かに句集名「東京(ばびろん)の地下鉄」も異色である。「東京」を「バビロン」と読ませるその思いを直接には白戸さんに伺っていない。 「バビロン」は「イラク中部にあった、メソポタミアの古代都市。」であり、「世界都市として栄えたが後代に荒廃した」とある。「バビロンの捕囚」は有名で、「起源前6世紀ユダヤ人が新バビロニア軍に捕らえられ、バビロンに強制移動させられたのであるが、そのことは旧約聖書などを読むと頻繁に登場してくる。「さらにイザヤ書とエレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録(ヨハネへの啓示、啓示の書)の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては、退廃した都市の象徴(大淫婦バビロン、大娼婦バビロン)、さらには、富と悪徳で栄える資本主義の象徴、として扱われることが多い。」とウイキペディアにある。本句集において、白戸さんは、なにゆえ「東京」を「バビロン」と読ませたか、あるいは「退廃した都市」のイメージなどをそこに籠めたのかもしれない。いずれにしても、「東京(バビロン)」であることを念頭に本句集は読まれることを要求されているように思える。 目次もユニークである。第1章ーユングとブランチ、第2章ーフロイトと外食、第3章、東京(バビロン)のネズミ達の3章立てで、第3章に収録された106句にはすべて「ネズミ」が詠み込まれている。 山崎主宰は、第1章から第3章までそれぞれ句を挙げながら鑑賞をしているが、ここでは第3章のところを紹介したい。 ネズミの目犬のふぐりと空映す 風車じっと見つめているネズミ 名月を見るもネズミは命がけ 一匹のネズミを肩に雪女 どの「ネズミ」も作者の分身とか化身であるかのようである。「ネズミ」に固執することで自らを慰撫している。それだからこそ、「ネズミ」の語から離れられないのである。作者自身が、「ネズミ」に縋って生きて行くしかない環境を、どう処したらよいのか迷うところである。しかし、貪欲なまでに自己に、詩に執着することで、宇宙の中の小さな一生命体である自己の鎮魂の叫びを聞くしかないであろう。オンリーワンの詩を、世界で一番短い詩形式である俳句で表現することに白戸麻奈は身を削っているのである。俳句は、たった十七音であるけれども、言語宇宙を構築するには、これ以上にないエネルギーを内蔵している形式である。言葉が長くなれば長くなるほど、反比例して減ってゆくのである。そういう矛盾が、俳句の核であり、諧謔を生み出すのに適しているのである。 本書の担当はPさん。 虫の音に夜の深さを測りたる 孕み猫シャーと全身発光す 秋の声つまりはパイを切り取る音 春立つや赤子の髪のふわふわす 木瓜の花ガンガン放つ口答え フルフルと震えるネズミ春浅し 木瓜の花ガンガン放つ口答え 「木瓜の花」は、バラ科の落葉低木であるが、バラの洋風な雰囲気よりもどちらかというと古風な趣がある。この一句「口ごたへすまじと思ふ木瓜の花」という星野立子の有名句へ挑戦か。星野立子のつつましい佇まいの一句に、過激に挑んでみせる。それは「木瓜の花」の持つ情趣への挑戦でもある。意識的な挑戦でもあり、あるいはなにかそう表現せざるを得ないような内的な必然があるのか。威勢のいい句だ、が、少し切ない。 マネキンの陽炎に濡れ並び立つ わたしの好きな一句である。「陽炎」は春の季語だ。「うららかな情趣のため春の季語となった」と歳時記にある。「陽炎に濡れ」の措辞がいい。しかし、濡れているのは並びたつマネキンである。人の形をしているが命なきものだ。「物のすべてのゆらぎに古人が畏敬の念をいだき人間の命の姿を感じ取ってきた」陽炎であるが、しかし、ここには人間はいない。この一句において生の息吹は疎外されている風景だ。人間も植物も動物も生きているものはみえず、陽炎に濡れたマネキンだけが並び立っている。不思議な都市空間であり、死の静けさが支配している。こんな絵をどこかで見たかも知れない、と記憶の底をたどってみる。ふっとポール・デルヴォーの絵などを思い起こしたりするが、デルヴォーだと「月光に濡れ」だよな。。。 家には、体長一・五メートルで翼のある虹色のネズミがいます。 噓です。冗談です。ただ、この広い大きな宇宙には、そうした生き物が存在するかもしれません。 私は動物番組が大好きなのですが、それにしても、ネズミが登場するとなると獲物として食べられるシーンばかり。とても悲しい。 ネズミは可愛いんです。 「あとがき」の最初の部分を紹介した。 第3章を読んでいくと、山崎主宰も書いておられうようにネズミは白戸麻奈さんの「分身」かもしれない。 ほかに、 馬酔木の花生きるに重い五臓六腑 頭上には無数の金魚泳いでる 鰯雲見上げる無数の目玉たち ふるさとは東京なりし寒雀 ミモザ咲く原宿というおもちゃ箱 ふるえてるゼリーへネズミ歯を入れる 雌鶏の下にネズミと寒卵 本句集の色は紫色。 CF0451番。 ダンディでノーブルな色とある。 本句集との取り合わせが面白い。 落ち着いて読める色である。 装丁は和兎さん。 白戸麻奈にとって、俳句は決して身から離せない詩形である。そのことを充分に理解しているからこそ、白戸麻奈は、命あるもの全てに愛情を注ぎ、真面目に俳句と向き合っているのである。 白戸麻奈の四十代の締め括りの句集として意義ある刊行となった。輝かしい第一歩を踏み出した作者の将来に期待するものである。これから先、どんな作品を披瀝してくれるのか楽しみな作家である。 山崎十生主宰の序文の言葉である。 見つめあうネズミとネズミ網戸越し この句も好き。だって可愛らしいじゃないの。想像しただけでウルウルしてきてしまう。可愛いなあ。「網戸越し」っていうのがいい。相手の姿がみえ、その息づかいを感じることもできるし、わずかに触れ合うこともできる。しかし、隔てられているのだ。切ないなあ。。しかし、わたしはこういう切なさはかなり好きである。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、 麻香田みあ句集『羽音』より。この句集も第1句集シリーズである。 ぐつしよりと濡れて芒の獣めく 麻香田みあ 濡れたススキが獣みたい、という見方がおもしろい。植物だって生物、その身の内には獣性を持っていても不思議はないかも。句集「羽音」(ふらんす堂)より引いた。そういえば、夏目漱石の小説「二百十日」では、阿蘇山へ登山する若者がススキの中で苦闘する。ススキに飛び込んだり、ススキの中を泳いだりする。ススキは手ごわい。 今日のおやつはゴージャスだった。 先日、わたしが失せ物をして大騒ぎになってスタッフに見つけて貰ったという事件(?)があったのだが、スタッフたちへの御礼として今日はケーキのモンブランをふるまった。 仙川駅に一ヶ月だけお店を開いている京都の店のモンブランである。 三種類のなかで甘味をおさえたものを購入。 これ。 ゴージャスでしょ! な、なんと値段は一個につき540円! 大盤振る舞いでございました。 #
by fragie777
| 2018-09-07 20:04
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