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10月6日(土) 旧暦8月27日
今日の成城学園駅まえの空。 天辺に烏が止まっている。(なぜかこの烏を撮りたかった) これって朝日新聞の集配所である。 お金持ちのお屋敷街の新聞の集配所は建物でさえゴージャスである。 今日は夕方6時より「銀化」(中原道夫主宰)20周年のお祝いの会があって、先ほど戻ったところである。 会場はホテルニューオータニのガーデンタワーの5階。 (実は間違えてアルカディア市ヶ谷に行ってしまった。。。) しかし、安心してほしい。 すぐにタクシーを掴まえることができ、間にあったのである。 たくさんの来賓の方々と「銀化」の皆さま。 華やかなお祝いの会となった。 とうとう20年になりました。10月10日ということが覚えやすいということでこの日を出発の日と決めました。 あっと今の20年、もう成人式なのですね。いままでは追いかけて行くような立場だったものがいまではもう中堅というか追いかけられる立場であるという意識をもたなくてはいけないんだとおもっております。 46歳ではじめた銀化ですが67歳になりました。 あと10年でなにができるか暗中模索です。 いまいろいろな若手が出現して私たちの存在を脅かしつつあると言ってもいいでしょうか。しかし彼らもあと10年もすれば追いかけられる存在となる。そう考えるとあくせくすることもないかというふうにも考えました。 あと10年、なにをしていくか、と考えると非常に慌てるんですよねえ、どんどん身体は劣化し脳は劣化する。ところにきておりますので一日一日大事にしてやっていこうかということであります。 今日で「銀化」は終わります。 と言ったら皆さん驚く、と思ったらあまり驚かない。。。。 「銀化」止めます。 で、明日から reborn(りぼーん)で、リセットで行きたいと思います。 りボーン & リセット、 死んで生まれ変わる、ということにしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 ご挨拶を抜粋して紹介した。 一センチ以上の厚さの「銀化」20周年記念号。 内容も豊富で充実している。 が、 これについては書いていると夜中を越してしまうので、 止めます。 中原道夫主宰、 「銀化」の皆さま 20周年おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 リボーン&リセットですね! 今日は向ヶ丘遊園の駅でパスネットをなくし、出られずに泣きべそをかいて「さっきまであったのに信じられません」と女性の駅員さんに訴えていたところ、中年男性が、「あのうこれではありませんか。一番ホームに落ちてましたよ」と拾って届けてくれた。 なんということ、すぐに見つかるとは強運なyamaokaである。 ホテルを間違えたことも一瞬青ざめたが、すぐに目の前にタクシーが現れて連れて行ってもらえた。 これも楽勝ね。 (こんな風に思わないとやってられないのである。だってどうして間違えたのか、わたしには意味不明である。わけがわからんことが多すぎるのだ) 会がおわったときに関悦史さんにお目にかかって、おしゃべりをしながらホテルを出た。 関さんは二次会に出られる様子、わたしはそのままかえるのだけど方向がわからない。 「わたし、どっちから今日来たのかなあ、地下鉄の駅もう忘れちゃった」と関さんに言うと、 「yamaokaさん、タクシーでしょ」と。 ああ、 そうだった。。。 強運とはいえ、大汗をかいた一日であった。 #
by fragie777
| 2018-10-06 23:22
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10月5日(金) 旧暦8月26日
数日前にこのブログにショパンのピアノ曲が聴きたくて結局CDを持っておらずあきらめたことを書いたが、その代わり(?)にバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番とパルティータ第1番を聴いた。 胸がかきむしられるようだった。 かつて20代だったころ、男友だちが「恋をしてパルティータを聴くと胸がかきむしられる」と言っていたが、別に恋をしていなくても胸がかきむしられるとそのことを思い出して思った。 日頃、ツラの皮厚く心臓に毛をはやして生きているyamaokaであるので、たまには胸がかきむしられる時間というのも悪くない。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 198頁 著者の牛田修嗣(うしだ・しゅうじ)さんは、昭和44年(1969 )神奈川県生まれ、現在は横浜市在住。平成9年(1997)「狩」入会、鷹羽狩行に師事、平成12年(2000)「狩」弓賞受賞、平成116年(2004)「狩」評論賞受賞、平成29年(2017)「狩」巻狩賞受賞。現在「狩」同人、俳人協会幹事。本句集は、平成9年(1997)から平成29年(2018)まで21年間の作品を収録した第1句集である。序句、帯、鑑賞2句を鷹羽狩行主宰、跋文を片山由美子副主宰が寄せている。 白南風にのりて一気に湾を出づ 狩行 騎初のオートバイでふ鉄の馬 夏潮のコバルト裂きて快速艇 ペガサスの駈けて夜もまた天高し 若くして俳句とめぐりあい、内容も表現も現代性にあふれていること、人柄の誠実であること、大いに将来に期待ができる。 鷹羽狩行主宰の帯文である。 牛田修嗣さんに期待すること大である。 花火果て千夜一夜を経しごとし 絢爛豪華な花火が次から次へと揚がり、思わずわれを忘れて仰ぐ。そうした花火を堪能したあとの満足感を「千夜一夜を経しごとし」と表現。花火が終ったあとのむなしさも出ている。日本版「千夜一夜」。 鑑賞二句より一句紹介した。 鷹羽先生のみならず跋文を書かれた片山由美子副主宰もまた、牛田修嗣さんへ期待するものは大きい。 本句集を読まれた方は、著者の牛田修嗣さんとはどのような人物なのか、その素顔を知りたい、と思われるかもしれない。爽やかで清潔で、ミントの香りがしそうな作品の数々が、著者への関心を抱かせるのは当然のことだと思う。 あとがきにも著者略歴にも、ほとんどその手掛かりになるようなことは書かれていないのだが、そこに著者の明確な意図がうかがえる。作品によって自身が何者かを訴えようとはさらさら考えていないのである。(略) 『白帆』を通読して感じたのは、作曲家が心に浮かんだ美しいメロディーを書き留めようとするように、牛田さんは心に映る風景を描いているということだ。句集をまとめる際に意識したと思われるのは、一巻を通してのテーマを「横浜」とすることである。自身が横浜に住んでいるばかりでなく、敬愛する鷹羽狩行先生の「横浜」であることが重要なのだ。 馬車道の火ともし頃をぼたん雪 白南風や操舵輪めく観覧車 マスト掠めて横浜に燕来る 横浜に馬車のまぼろし黄落期 三鬼忌やバーの窓より港の灯 匂ひ濃くただよひ中華街の夏 古くて新しいのか、新しくて古いのか、横浜という街には独特の魅力がある。その味わいは牛田さんの俳句のもつ味わいに通うものがある。 ところで、「白帆」というタイトルが語るように、牛田さんは白く清潔なものに惹かれるようだ。 白きもの干されて靡く薄暑かな 白樺の梢さざめき風の秋 婚礼の鐘たんぽぽの絮とばす 参道の少し端ゆく白日傘 車窓ぬぐへば雪の村雪の嶺 こうした作品に対して、美し過ぎる、あるいは屈折がなさ過ぎるという感想を持つ人がいるだろう。作者は何の苦労もない人生を送ってきたのではないかと思われるかもしれないが、そうではない。青年期に心に痛手を負う経験をしたことを牛田さんは書いたことがある。その苦しさから救ってくれたのが俳句であったという。俳句が牛田さんの人生に希望をもたらしてくれたともいえる のである。つらい現実から離れるためであった俳句が暗くなろうはずはない。 跋文を抜粋して紹介した。 本句集の担当はPさん。 夜をさらに深めむと打つ鉦叩 夏潮のコバルト裂きて快速艇 捨てられしもをあらはに川涸るる 朗読の少年の額みどりさす 時差ぼけの欠伸もらひて春隣 影落すことなき高さ鷹渡る 乗り換へて一人となれり花疲れ 春日傘美しければ追ひ越さず 足が日に触れ雲に触れ梯子乗 春日傘美しければ追ひ越さず 春の長閑さがたっぷりとあり、それは「追い越さない」人の心の長閑さでもあって、いいなあと思う。前を行く美しい春の日傘、ゆっくりといく日傘、それを楽しみながらあとを行く、ロマンを感じてしてしまう。映画のワンシーンのようにまず日傘が見えてきて、その日傘との距離を楽しんでゆっくりと歩いていく青年の姿がみえてくる。素敵だ。牛田さんは「日傘」にロマンを思うらしい。集中「日傘」の句がかなりある。ほかに「コクトーの詩集に栞浜日傘」「参道の少し端ゆく白日傘」「沖の帆と汀の日傘すれ違ふ」「つひに振り向かずに去れり白日傘」「たたまれて莟に戻る春日傘」など。「日傘」は牛田さんに詩心を呼び起こすのである。どれも牛田さんらしく清潔に詠まれている。美しいものに距離をもつこと、それが大事だ。 この一句に出会って、牛田さんは師・鷹羽狩行の叙情の美しさを継承している俳人だと思った。 端居して勝ち負けの世に遠くをり 「勝ち負けの世」にいささか疲れてしまった心をがあるのだろうか、牛田さんはまだ充分わかい俳人である。社会生活においてはまさに「勝ち負けの世」の真っ只中にいることだって余儀なくされているかもしれない。ほとほとそんな世の中なんて嫌だなあとも思いながら、それでも生きて行かなくてはいけないので大変である。せめて端居のときくらいは、その呪縛から解き放たれてぼおーっとしていたい。「勝ち負けの世」という現実かららすこし距離をとっていたい。「遠くをり」この心象的な距離感が大切なのである。 牛田さんにとって「距離」というものが大切なのかも、なんてわたしは勝手に思ったりしている。 俳句を始めたきっかけは鷹羽狩行先生の海外詠を読んだことである。その明るく現代的な作品には、新鮮な魅力が満ち溢れ、俳句への扉を大きく開いてくれた。すぐに「狩」に入会し、たちまち俳句の虜になった。その頃、現代的でエキゾチックな趣のある横浜の港へ通いつめたのも懐かしい思い出である。 同時に、季語の背後に広がる伝統の重みや五・七・五の調べの妙味にも魅了されてきた。季語と調べは俳句を支える二つの柱といえるだろう。俳句の伝統を大切にしながら、現代を生きる私の俳句を目指してゆきたいと念じている。 「狩」のモットーである「古典を現代に生かす」は、これからも変わらず私を句励まし、支えてくれるに違いない。(略) 句集刊行にあたり、二十一年間の歩みを振り返ることができたのも幸いであった。素材・発想・表現、いずれも幅が狭く未熟であることを痛感した。今後の課題としたい。一方でこの歳月は、狩行主宰の言葉「俳句は人生に潤いと安らぎをもたらす」を実感した日々でもあった。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 春深し頰杖とけぬ乙女像 黒猫の影も黒ねこ日の盛 花火果て千夜一夜を経しごとし 爪先のさきに海原籘寝椅子 寝ころべば傾ぐうなさか苜蓿 耳をすませば四方より枯るる声 夏岬地図ひろぐれば風はらみ 一対の松のあはひの淑気かな その翼呉れよ五月を飛ばぬ鳩 短日や箱を運ぶに積み重ね 初夢の覚めて地球に戻りけり ネクタイをゆるめて我も花見人 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 爽やかで清々しい一冊となった。 「白」を基調とした清潔な一冊である。 表紙も白の布クロス。 タイトルと名前は濃紺の箔。 青と白の本。 富士といふ白帆を張つて初御空 牛田さんは、「狩」において鷹羽狩行主宰はじめ多くの信頼をあつめる主要同人のひとりである。「狩」が創刊四十周年を迎えた今年、その成果の一冊として『白帆』を世に送り出せることはこの上ない喜びである。白帆をいっぱいに張り、大海原へ滑り出して行ってほしい。さらなる広い世界を目指して─。 片山由美子副主宰の跋文をふたたび紹介した。 爽やかな祝福で世に送りだされた一冊である。 余談であるが、牛田修嗣さんとは、先月の23日に蔵王で行われた「狩」40周年ではじめてお会いしたのだった。 長身の爽やかな清潔感あふるる男子だった。 わたしはお会いして、(『白帆』の装丁はピッタリだったな。良かった!)とまず思ったのだった。そう、この装丁のような人である。 (今日は爽やかという言葉をずいぶん使ったような気がする) #
by fragie777
| 2018-10-05 20:54
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10月4日(木) 旧暦8月25日
蔵王の紅葉。 昨夜の緊急地震速報には驚いた。 猫を膝にのせてまったりしていた矢先だった。 結局どうしたかというと、 ただウロウロしただけだった。 今日も新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 254頁 著者の内山花葉(うちやま・かよう)さんは、昭和18年(1943)新潟県柏崎市生まれ、現在は茨城県つくば市在住。昭和55年(1980)生涯学習講座俳句教室で俳句を始める。昭和61年(1986)「草紅葉」入会、平成12年(2000)「草紅葉」同人、平成15年(2003)「沖」入会、能村研三に師事、平成20年(2008)「沖」同人。俳人協会会員。本句集は平成15年から平成30年(2018)までの作品を収録した第一句集である。序文を能村研三主宰が、跋文を吉田政江さんが寄せている。 麦の芽の風に逆らふ力あり 神々の白さに雪嶺かがやけり 本句集の巻頭一頁に据えた二句である。「沖作品」に投句し始めた頃の作品と思うが、一句目の麦の芽の句、秋に蒔かれた麦が一月になると春草のように畑にあざやかに青い芽を出し、折からの寒風に萎えることなく自然に向かう力に着目した。二句目は雪嶺の神秘的な神々しさを捉えている。いずれも確かな写実の眼と独自の感性をたたみこんだ句である。 序文より抜粋して紹介した。 武蔵野の沸点桜ふぶきかな 句集名となった一句である。「沸点」とは「液体が沸騰しはじめるときの温度」で、この句は俳人協会の「花と緑の吟行会」の句であるという。「桜の散るさまは雄大さや潔さを感じさせるが、それを見た自らの高揚感を「武蔵野の沸点」という言葉で表現して多くの選者の特選に輝きこの日の大会賞を取った思い出の句でもある。」と能村研三主宰は序文に書く。 晩年の未知へ葉桜くぐりけり 昨今、日本人の寿命が延びてきた。何歳からを晩年と云うのか個々夫々であるが、まだまだと思っていてもやって来る晩年、「晩年の未知へ」とポジティブに受け止める余裕が清清しい。総て見るものを吸収して作品にしていくバイタリティを秘める花葉さん、これからも洞察力を持って、更に精進されて第二句集に向けて進んで頂きたい。 吉田政江さんの跋文より。吉田政江さんはたくさんの句をあげて鑑賞されている。内山花菜さんについて「常に新しい情報に敏感で意欲的に取り組む精神が作品にも表れ、その上達の早さに驚かされる。」とも書かれている。 本句集の担当はPさん。 麦の芽の風に逆らふ力あり 鯊の潮埋め立てて国角ばれり 眠らんとする泥揺すり蓮根掘る 初蝶に山野浮き立つひかりかな 弦は風ストラディバリウスなる冬木 梨を剥く刃先は夫へ向きたがり 初蝶に山野浮き立つひかりかな 初蝶のかがやきがよく見えてくる一句だ。「山野浮き立つ」という叙法が自然もまた春の訪れを喜んでいることを知らせ、その初蝶を見ている作者も心浮き立つように初蝶を迎え入れている。山野のなかの一点の蝶に急速に焦点をしぼって「ひかり」として初蝶を浮き立たせた。蝶がもっとも光ってみえるのはやはり初蝶なんだと思う。 梨を剥く刃先は夫へ向きたがり ドキッとする句である。「梨」と「刃先」と「夫」との関係が平穏ではない。しかし、梨を剥いているのは作者であろう。作者が梨を剥いているのだが、作者が刃先を夫に向けているわけではなくて、あくまでも「刃先」に主体性があって、その「刃先」がわが夫へ切っ先を向けたがっているという、作者はどういうことかしら、などと嘯いている感がある。この句「梨」だから一瞬の不穏も許されるのかもしれない。シャリシャリと剥いてそれでおしまい。あとは甘くてさっぱりとした梨を味わうのみ。 「沖」の「伝統と新しさ」の精神は私の俳句の核となり、類句類想のない自分らしい句をと心がけて参りました。 以来十五年間の自分の俳句はどんな色合いを帯びているのだろうかと考えるようになり、句集という一冊にまとめてみたくなりました。もとより不器用な句ばかりで何かと躊躇する自分を励ましようやく纏めることが出来ました。 人生の後半にあっての俳句はドラマチックな出来事のない平穏な毎日を詠んだものと思っておりましたが、来し方を振り返ってみると親の死や日本列島を揺るがす地震などそれなりの起伏があったことに気付きました。幸い健康に恵まれ句友に恵まれ今日まで自由に楽しく俳句を続けることが出来ましたことに改めて感謝しております。 「あとがき」より抜粋して紹介した。 ほかに 水が水押し上げ軋む下り簗 原始鳥類の骨かと蓮の枯れきつて 薄氷のひび虹色を放ちけり 大根蒔くひたすらな身を二つ折り 喪の家の今朝上げてあり秋簾 雪降るや空気しづかに重くなる 泣くことが言葉よ烏瓜まつ赤 ジュラ紀より立ち泳ぎして孑孑は 長き夜の本閉づ純愛に疲れ 本句集の装丁は和兎さん。 白を基調に金茶色が差し色となっている。 見かえし、花布、栞紐を華やかに。 出来上がった一冊をみて、わたしは「なんか、クリムトの絵みたいね」って言ったのだけど、どうかしら。 ふっとそんな風に思ったのだった。 トマトのやうな笑顔で負けず嫌ひなり これは正に内山さんの人格そのものを表す句のようで、温厚な人柄で人に対して優しく接しながらも、俳句の表現においては常に類型を脱する努力を怠らず、これからの俳句作家として俳句に新しさを求めていく詩魂を固められたような気がする。この句集の上梓をステップとして一層の活躍を期待したい。 能村研三主宰の序文より。 この「トマト」の句、わたしも好き。 いいじゃあありませんか。「トマトのやうな笑顔」なんとなくわかる。で、「負けず嫌ひ」なんて、きっと愛されキャラだと思うな。トマト好きの人にとっては愛らしく美味しそうな笑顔である。 トマト嫌いの人にとっては?、、、 ああ、 そこは考えなくていいんじゃない。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、戸田菜々花句集『体温』より。 秋蝶の過ぐるを待つてゐる球審 戸田菜々花 句集「体温」(ふらんす堂)から。句集ではこの句の前に「猫じやらし遅刻ばかりの草野球」があるが、蝶が去るのを待っているのも草野球の球審だろう。ところで、わが家の孫の家では、父親がもっぱら仲間とサッカーを楽しんでいる。草相撲、草野球のように草の名を冠すると素人のスポーツになるが、今は草サッカー(?)の時代かも。 ここまで一気にブログをかいてきた。 疲れたし、お腹もすいた。 わたしはおもむろに机の右側におかれている抽出ボックスの第二段目をあけて「アーモンドチョコレート」の箱を取り出して、ひと粒、口に放り込んだ。 (フッフッ、隠してあんのさ……) さっ、 帰るとするか。。。 今日は緊急地震速報なんてありませぬように。 #
by fragie777
| 2018-10-04 20:09
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10月3日(水) 水始涸(みづはじめてかる) 旧暦8月24日
今日行ったレストランに飾られていた白菊。 「孔雀草っていうんだそうです」と女主人。 すこし前に見た映画でつかわれていたためか、ショパンのピアノ曲を聴いてみたいと思った。 今朝のことである。 わたしはCDラックからショパンのそれを取りだそうと思ってしばらく見ていたのだが、 (あら、まっ、ない。1枚もないじゃん!) ということに気づいたのだった。 自分でも驚いたのであるが、わたしはショパンのピアノ曲のCDを1枚も持っていないことにはじめて気づいたのだった。 埃をかぶったCDラックをみていくとあるのはモーツアルトとバッハの作品集ばかり、それにすこしずついろんな音楽家の作品があるのだが、俳人にしてピアニストの蓜島啓介さんからシューマンとリストのピアノ曲をいただいたりもしている、しかし、ショパンがないとは、自分でもびっくりしたのだ。クラッシックに関しても全然造詣が深くないので、ミーハー的に聴く(って?ってどういことかよくわからんけど)くらいであるが、2018年の10月3日の朝、わたしはショパンのピアノ曲を聴きたいと思ったのだが、わたしは聴けなかった。そしてすでに聴きたいと思った心は遠くへ行ってしまっている。まっ、いいか。 そういうところがあるのよね、固執しないというか、すぐにどうでもいいわって思ってしまうというか。。。 新刊紹介をしたい。 シリーズ「大阪の俳句ー明治篇8」の野田別天楼(のだ・べってんろう)である。 句集名は「雁来紅(はげいとう)」。 帯の句とその言葉を紹介したい。 露光る夕あるきすこし酔うてゐる 冬雲のぐるりがぽかと明るくて 野田別天楼(1869~1944年)は「倦鳥」同人として活躍しながら、川西和露などと古俳書の研究に取り組み、『芭蕉珍種百種』などを世に残した。 本書の編集は小寺昌平氏により、あとがきは塩川雄三氏が寄せている。 年譜によると別天楼は、明治2年に生まれ、昭和19年に75歳で没している。16歳で教職に就き、教員仲間と作句したのが俳句の始まりであったようだ。その後子規の指導をうけ「ホトトギス」に投句をする。松瀬青々と知り合い青々の「倦鳥」の同人となる。興味ふかいのは、大正6年(1917)に奈良県畝傍中学校に奉職し、そこで阿波野青畝の担任となったことだ。大正9年(1920)に第1句集『雁来紅』を刊行。 それが本書である。 小寺氏の解説に別天楼が、「倦鳥」(大正9年第5巻第5号)に寄せた句集『雁来紅』発行の経緯を紹介しており、それがすこぶる面白い。長くなるが抜粋して紹介したい。 私が俳句に指を染めてから殆んど三十年になる。これを三期に分けてみる。第一期は月並俳句に没頭してゐた六年間、第二期は日本派俳句を信仰してゐた十九年間、尤もこの中十四年間は休止してゐた。第三期は句作に復活した最近の五年間である。この長い歳月の間に私の作つた俳句は、少なくとも一万には達してゐるだらう。雑誌や新聞に発表した丈でも二三千あるだらう。 その間私は自分の句集を刊行したいと考を起したことは無かつた。一家の句集は一代の宗師たる人が没後に、その門下などによつて編まるべきで、作者自ら句集を刊行することは、烏滸の沙汰であるといふ考さへ持つてゐた。随つて私は自己の俳句を書き留めておくことすらしなかつた。自己の俳句に対する執着心は毫も持つてゐなかつた。 然るに私は昨年の十月になつて、ふと自分の句集を編んで見たいと思ふ心が起つた。それによつて私の過去を反省して、将来の句作に資したいといふやうな考も心のどこかに潜んでゐたのであらうが、それよりも私は私の暗い、弱い、悲惨な生活の記念として、私の生活の反映と見るべき最近五年間の俳句を集めて見たいと思つたのである。 私は大正三年から現在へかけて悲惨な生活を続けてゐる。富田林から御影へ、御影から畝傍へ、畝傍からまた元の富田林へと、僅か五年間に転々して席暖かならざる生活を続けてゐる。悲しむべきこと、憤るべきこと、恥づべきこと数々を、この小さい弱い心で堪へて来た五年間、常に私の心を慰め、私の心を励まし、私に鞭つて呉れたのは俳句であつた。若し私が俳句に親しむことが出来なかつたら、私は煩悶の余りにどんなことをしてゐたかも知れない。修養の乏しい私は絶望、落胆も、悲観の極に陥つて仕舞つたであらう。私が兎にも角にも小さい努力を続けて来たのは全く俳句の賜であつた。この忘れることの出来ない五年間を記念する為に句集を編むことは、あながち無意味なわざでもあるまいと思ふ。 この後もまだ文章は続くのであるが、ここで句集をつくろうと思いたったその契機を、悲惨な状態にあった5年間の自身の心を励まし鞭打ってくれたのが俳句であったことに気づき、その辛い5年刊を記念する為に句集を編むことしにしたとあり、その心のさまが率直に語られている。 そして、そのあともくどくどと、自分の俳句はつまらないのではないか、とか平凡で嫌味だとか、小主観が現れすぎているとか、句集を辞めようと思ったが、それをする勇気もない。と読んでいると面白い。そして序文や題字を頼もうと思ったが迷惑だろうと考えすべて自分ですることにしたが、こんどは印刷屋さんとのやりとりでなかなか思うように事がはこばない。その辺をツラツラと書き連ね、 こんな貧弱な句集一つ出す為に、半年間もやき〳〵思ふのはいやなことだ。寧ろ刊行を止めて仕舞たいと思つたが断行する勇気がない。意思の弱い私自身を奈何ともすることが出来ないのである。 という文章で終わるのである。 もうヤレヤレである。が、その当時の出版状況なども見えてきて興味ふかい一文である。 そんなこんなで生まれた『雁来紅』である。 「あとがき」で塩川雄三氏は、 大阪の誇るべき俳人野田別天楼句集『雁来紅』は大正九年四月に刊行された第一句集で作者五十一歳のときのものである。 と記し、季節別に好きな句をあげておられる。それを抜粋して紹介したい。 春 思ふこと一人となりて春の雨 よるべなき旅や焼野の火に立ちて 夏 生きてゐることが暑くて尊くて 雲の峰水の都へなだれけり 秋 百舌鳥鳴きて日はおほどかに昇りたり 稲刈りてあらはな土を見てありぬ 冬 我を襲ふやうに冬雲のびてくる こんな暮しがいつまでつづく焚火せり 新年 恵方よりそれて渚をたゞありく 本句集の担当はPさん。 春浅き野に裸木のかげりかな 待つとなく土の朧をふみてゐる 優しくやはらかき眼のかゝやき短夜の 蚊帳をたゝむ夏痩せの眼はうるみたり 雲のはづれの日をふるはして渡り鳥 稲を刈るあすの分れの胸にあり おもふことひたと小春の壁に寄る わたしも好きな句をここでは二句のみ。 寝にもどる紫苑は月をあびてあり 生きてありやと我が影を見る寒き 今日の坪内稔典さんの「船団今日の一句」は、本著からである。 天の川ふらふら河に出てゐたり 野田別天楼 河に天の川が映っていて、その河へふらふらと入ってしまいそうな気配だ。大阪俳句史研究会が出している「大阪の俳人―明治編8」の野田別天楼句集『雁来紅』(ふらんす堂)から引いた。別天楼は明治の大阪の学者俳人とでもいうべき存在だった。 尚、別天楼は、昭和10年(1935)に俳誌「雁来紅(がんらいこう)」を創刊主宰している。翌年、第2句集『野老(ところ)』を「雁来紅社」より刊行している。 そうそう、この『雁来紅』、「悲惨な生活の記念として」編まれたとある割には、それほど、いやほとんど悲惨ではない。まま、そういう句もないわけではないが、やはり自然に癒やされているのではないか。そんな風に思ったのだが、どうだろう。 タイトルになったのは次の一句。 雁来紅生きの悩みに燃ゆるかな 今日はお二人客さまがいらっしゃった。 「鷹」の俳人の折勝家鴨さんと、「鷹」の同人の鳥海壮六さん。 鳥海壮六さんが、この度第1句集を刊行されるにあたり、そのご相談に見えられたのだった。 折勝家鴨さんはご近所(?)のよしみで鳥海さんをエスコートして来てくださった。 いろいろと見本をご覧になられて造本をお気めになった。 鳥海壮六さん。 小田原市にお住まいで、「鷹」小田原支部長さんである。 藤田湘子に俳句を学んでより現在まで俳歴30年以上であるという。 「これまではなかなか句集をつくろうという気持ちにならなくて……やっとそういう気になりました」と。 「こういう町があるんですねえ」とおっしゃりながら仙川の街を眺めておられたのが印象的だった。 #
by fragie777
| 2018-10-03 19:42
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10月2日(火) 旧暦8月23日
秋の水。 今日は暑いのだろうか、寒いのだろうか、 まったくわけがわからない。 さきおとといは、猫たちのために床暖房(?!)をつけた。 昨夕は扇風機をまわした。 今日は。。。。 わたしの身体は、この天候の変化をどう思っているのだろうか。 わが身体に聞いてみたい。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装。 256頁。 俳人・三森鉄治(みつもり・てつじ)さんの遺句集である。 第5句集『栖雲』(2011年刊)に次ぐものあるが、次の句集の準備をされながら病気のために2015年に急逝され遺句集となってしまったものである。 三森さんの妹君である赤星美佐さんのご依頼をうけて、句友の舘野豊氏がパソコン等に残された句稿を丹念に集めて第6句集としそこに補遺も加えて収録したものである。平成23年(2011)から平成27年(2015)年までを第6句集とし、そのほか資料となるべき残された句を加え補遺とした。舘野さんの丁寧にして細心なご尽力によって成ったものである。そのことを「あとがきに代えて」で、舘野豊さんは、次のように記している。 句集『山稜』の内容は、最後の入院前に三森鉄治さんが〈新句集草稿〉と名付けて保存していた電子データに基づく。データには、第六句集『山稜』として、前句集『栖雲』以降に発表された作品が、ほぼ制作順、発表順に収録されている。 遺句集を刊行したいとのご遺族のご意向を受け、鉄治さんの生前、句座をともにさせていただいた舘野が内容の整理に当たった。 「補遺」についても、詳細な方針が記されているが、それは本書を読んでいただきたいと思う。 句集『山稜』と「補遺」から句をいくつか紹介したい。 吹きちぎれさうな月なり辛夷なり 蒼天へ抜ける石段辛夷咲く 目覚めたる子に囀りの不思議かな 振り向かぬ背を追ひゐたる春の夢 牛の子に藁を敷き足す五月闇 通夜の灯に一つ大きな白蛾かな 落鮎の目にも遠嶺の月あらむ 涅槃西風樹液ぽたぽた土に滲み どこからとなく現れて春田打つ 尾を振りて虫垂れてくる新樹光 霧を踏み杉の根を踏み大滝へ 夏旺ん若さは透ける耳にさへ 日の沈むまで日の色に寒牡丹 息洩らすやうにかさりと竹落葉 迎へには来るなと伝へ螢の夜 弥陀ならぬ掌なり蟻吹きとばしけり たましひといふ蒟蒻玉のごときもの 丸ごとが嬉しき冷し胡瓜かな 「補遺」より 正午の日しんと泉の底にあり 波のごと散りて夜の白さるすべり またの世も師を追ふ秋の螢かな (掉尾の句) 紹介はしなかったが師・龍太を思う句はところどころにあり、その師への思慕の深さを思わせる。 また、この間闘病をされていたはずであるが、自身の病気や生活を詠んだ句は極めて少ない。 ほんのすこし、それとわかる句が自然詠のなかにおかれているだけである。 いくつか紹介したい。 露寒の痰に混じる血うつくしき 副作用なきも神慮か花八つ手 柘榴の実仰臥の顔に当てゐたり 網戸なき病室に夜が来てゐたり 静かに病身の我を詠んだ句である。 妹さんの赤星美佐さんの「兄のこと」を抜粋して紹介したい。 平成二十六年、兄が五十五歳にして末期の癌であることが判明し、私は失意のどん底に落とされました。もちろん、本人は、誰よりもショックを受けていたはずです。しかし、兄は、癌であることを知ってから一度も諦めることはありませんでした。一人で痛みと闘い、一晩中うめいて一睡もできない日が続いても、「大丈夫。死なないから」と頑張っていました。結局最期まで一度も「もうだめだ」と言うことも、涙を見せることもなかった兄。いったいどこにあんな強さがあったのでしょう。そんな兄を誇りに思います。(略) 「俳句が作れるくらい元気になりたい」と亡くなる前の二週間の入院中、兄がいつも言っていました。早くよくなって俳句を作る、それを目標に病気を治そうと頑張っていました。俳句を書くことが生きがいだった兄は、数えきれないほどたくさんの俳句を残しています。入院中も、この第六句集を編集したくて、パソコンを持ってくるように言いましたが、すぐに亡くなってもおかしくないと言われるくらいの重篤な状態で、最後まで編集できずに旅立ってしまいました。(略) 生前、兄は、俳句を通して多くの方とお付き合いをさせていただきました。俳句に対する兄の思いをお仲間の皆さんが忘れないでいてくださることを妹として願います。 五十六年という短い人生でしたが、兄は、多くの皆様とともに人生を駆け抜けたのだと思います。兄が残した句と共に、兄の思いがいつまでもこの世から消えませんように。 編集をされた舘野豊さんの「あとがきに代えて」より、抜粋して紹介したい。 三森鉄治さんと親しく接するようになったのは、彼の呼びかけで始まった小さな句会がきっかけだった。吟行をして出句数は無制限という原則を堅持しながら、おおむね隔月開催で現在も続くその会に、亡くなる数ヶ月前まで、ほぼ毎回出席し、すべての回の記録を残してくれたのが鉄治さんだった。これまで彼が俳句に書き残したのは、三森鉄治という総体のごく一部に過ぎない。(略) 表現されない多くの未知を残したままの、早すぎる死だった。 三森鉄治さんは、俳壇的な栄誉や権威を求めることなく、常に真摯に俳句に向き合ってきた。一度句座をともにすれば、人間的な魅力に誰もが惹きつけられた。その早すぎる死は、仲間にとって大きな痛手であるだけでなく、俳句の世界にとっても、埋められない損失だった。このような形で鉄治さんの句業がまとめられ、その全貌に触れることができるのは、誠に意義深いことであると思う。 この句集のお話をいただいたのが2016年の始め頃だったのような気もするがもう覚えていない。遺句集をというお話をいただき、それならば季語別による全句とその初句索引をつけましょうとご提案し、快諾をいただいたのだった。全句集をつくることはなかなか大変であるが、季語別にして全句を収録しておけば資料性が高いものとなり歳時記を編集するときなど参考になる。生前の三森鉄治さんの俳句への情熱を思えば、きっとそのことを天上の三森さんは喜んで下さるのではないか、と思ったのだった。 全句を収録して季語別にしていく作業はかなりの時間と労力が必要になるが、こうして出来上がった句集『山稜』を手にしたとき、やはり全句が収録されている、ということはその作家の全重量を感じることができる。 この仕事の作業はたいへんであるが、わたしは好き。 しかし、舘野豊さんは本当に大変だったと思う。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 表紙。 見返し。 2011年3月30日にふらんす堂に句集の打ち合わせでいらっしゃった時の写真である。 天アンカットにして栞紐をつけた。 甲斐の山々に抱かれて三森鉄治さんは眠っておられる。 俳句作家にとって、なによりも自分の作品がおおくの人の眼にふれることが願いである。 先日、俳人の大西朋さんにお目にかかった時に、 「今度の角川書店の新しい歳時記の秋に三森さんの句がずいぶん載ってましたたよ。わたしは三森鉄治さんの作品が好きでその鑑賞を書いたこともあるので、すごく嬉しかったんです」と教えてくだった。 さっそく歳時記の「秋」を開いてみた。 句集『山稜』が刊行される前だから、『山稜』前の作品である。 紹介したい。 秋高し草の貼りつく乗馬靴 句集『魁』 今ここにゐる遙けさの花野かな 句集『栖雲』 草市の風に呼び止められしかな 句集『仙丈』 逢はざればこころ離れて秋の蝶 句集『栖雲』 山国の空引き寄せて通草挘ぐ 句集『栖雲』 三森鉄治さん最後の句集『山稜』もまた多くの人に読まれていくことを、版元として願ってやまない。 今日は大阪からはずばるお客さまがいらっしゃった。 いまふらんす堂では、川柳作家の樋口由紀子さんのあたらしい作品集「めるくまーる」を制作中である。 その装丁を、樋口さんの句会仲間である俳人の野間幸恵さんが担当されている。 野間さんが描かれたものを、樋口さんが気に入られてそれを作品集のカバーにしようということになった。 いかにそのイメージを実現するか、 いろいろとお電話でやりとりを致したのだが、なかなか埒が明かないということで、 野間幸恵さん、フットワークよろしく仙川までいらして下さったのだ。 いろいろな色見本をご覧になりながら、 「いやあ、楽しいわあ」と関西のイントネーションでおっしゃりながら、あれこれと思案されている。 野間さんのイメージを具体化するのはスタッフのPさんである。 「こういう色がいいって言ってもなかなか難しいもんやわ」と、おっしゃりながらも楽しそう。 そんなこんなで、いろいろとやり取りするうちに段々と決まって、あとは作者の樋口由紀子さんの了解をいただくのみというところまで決まった。 (良かった!)とわたしは胸をなでおろす。 野間幸恵さん。 俳人である。 伺えば俳句歴30年以上、亡くなられた永末恵子さんととても親しかったということ、それは嬉しい。 (永末恵子さんのこと、もっと伺いたかった……) 「わたしの句、難解俳句。だから結社とかには入らないで、インターネットで句会を仲間としてます」 「攝津幸彦さんが亡くなって、わたし等は地下に潜って活動するようになったんです」と笑う。 「地下に潜ったのですか…」と思わずわたしも笑う。 ご本人が言う「難解俳句」とは、いったい。 こわいようだが、読んでもみたいような。。。 野間幸恵さま。 はるばるご来社くださいまして、ありがとうございました。 無事に大阪へお戻りになられたでしょうか。 #
by fragie777
| 2018-10-02 20:45
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