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10月11日(木) 旧暦9月3日
竹林のむこうを流れる秋の水。 このところいろいろな雑事に追われて肝腎の仕事になかなか手がまわらない。 ゲラを送ろうと思っていたのが全然だめ。 さぼっているわけじゃないのよ。 銀行に行ったり次から次へと用事がある。 仕事の仕方をもっと合理的にしなくてはいけないのか、それともわたしの能力がいたらないのか。 それとも、能力が低下(?)しているのか。 ああ、 そんなことは考えたくないぞ。 しかし、ここは冷静になってしっかりと仕事をこなして行かなくてはいけない。 いや、こんなことを書くのは、 反省することが多い昨今だからなのである。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 190頁。 著者の北野惠美子(きたの・えみこ)さんは、昭和12年(1937)和歌山県生まれ、和歌山市在住。平成15年(2003)「狩」入会、平成25年(2013)「狩」同人、平成28年(2016)「岬」に入会。本句集は傘寿の記念として編まれたと「あとがき」にある。序句、帯文を鷹羽狩行主宰、跋文を桑島啓司氏が寄せておられる。 まづ肩のちからを抜けよひよんの笛 狩行 転びても泣かぬ子となり野に遊ぶ サーフィンの時に水平線の上 秋高し泣き虫が立つ表彰台 句集名に「瓢の笛」という俳諧味たっぷりの季語を選ぶだけあって、その感覚を活かした佳句が多い。 帯文を抜粋して紹介した。 ひとつ灯に仏の夫と夜長かな 春愁や亡き夫に来る招待状 サラリーマンの奥さんとして、幸せな生活をされていた北野惠美子さんであったが、平成六年に御主人が心不全で急逝。目の前が真っ暗闇になってしまい落ち込んでいた時、友達に絵画展へ誘われ俳画に感動。俳画教室に通うようになった。そこで、「俳句の作り方」を学ばなければ俳画の道は開けて来ない事に気付き、「狩」に入会されたのが平成十五年五月であった。句会で勉強している中にだんだんと俳句の虜になり、俳画は遠退いてしまい、俳句に専念するようになって十五年の年月が流れた。この度、傘寿の記念として、句集上梓を決意された事は俳句仲間の一人としてこの上ない歓びである。掲出句は亡き御主人を偲んでの力作である。 工房となりし校舎や小鳥来る どの部屋も光を入れてみどりの日 糸とんぼ水の光に見失ふ 帰宅してまづ青田風入れにけり 遠山の幕ひくごとくしぐれけり 新涼や水面を滑る鳥の羽根 あかときの光に濡れて稲の花 流れゆく水に重なり桐一葉 掲出句から伝わってくる通り、惠美子さんは豊かな自然環境の中に生まれ、今もその大自然の中に身を置き、俳句作家としては恵まれた環境にある。。時には、つい意気込み過ぎて疲れを見せる事もあった。そんな時に、芭蕉の名言「自然に問い掛ける気持ちを持って向かえば自然はきっと何かを語ってくれる」を思い、リラックスして出来た句が、 ひよんの笛素直に吹けば鳴りにけり であるとの事。正に、この句は意気込まず、リラックスすれば、佳句が生まれる事を啓示していると思い、句集の題名は「瓢の笛」にすることを勧めた。これからも、この句のようにリラックスして、のびのびと生きている証しとして俳句を作り続けられる事をお祈り致します。 桑島啓司さんの跋文を抜粋して紹介した。つねに身近にいる俳句の先輩としてまたよき理解者としてその言葉はあたたかい。 本句集の担当はPさん。 Pさんの好きな句は、 子育てに待つ事多し冬木の芽 春愁や夫より愛想良きインコ 一筆で眉書き上げて今朝の秋 紅葉舞ふ色に重さのあるごとく 産みたては母の温もり寒卵 どの部屋も光を入れてみどりの日 佳き事を告ぐる子の目や秋澄めり 紅葉舞ふ色に重さのあるごとく 色に重さを感じる時ってどんな時があるだろうかって考えた。そう考えると色に重さを感じることってあんまりないかもしれない。この「紅葉舞ふ」であるが、たしかに紅葉した葉が空気の抵抗にさからいつつ散り舞うときは、重さが見えるかもしれない。「色の重さのあるごとく」という叙法によって、わたしたちはもう一度目の前に散りかかるその紅葉の色を認識し、重さを見ようとする。それは美しい色の重さなのである。ふと思ったのだが、その重さって何グラムくらいなんだろう、て。いやいや、そこは追求するなって、詩情が壊れる、て、そうよね。。。 糸とんぼ水の光に見失ふ 桑島氏もあげておられたがわたしはこの句が好きである。糸蜻蛉って美しい繊細な蜻蛉である。水べりを好み、細い葉先などにそれよりも細い身を止まらせていることに気づく。碧色の光沢のある身体をもち、羽根は黒光りをしており、二匹つらなって冥界から湧いて出たように優艶に飛び交う。目を凝らして見ないとその姿に気づかないこともある。目の前で水のさざなみがキラキラと光ったとき一瞬その姿が消えた。ふたたび目を凝らす、もうどこにも姿は見えない。糸蜻蛉を見ていると必ずと言っていいほどこういう経験をする、それはきっと私に限らずだと思う。 何か一つ趣味を持ちたいと常々思っていたので俳画を始めました。しかし、俳画の句は自作の句を使うとの事で、俳句を作った事のない私には無理と思い、それならば、俳句の勉強からと考え友人に相談すると、『鷹羽狩行読本』を贈ってくれました。 その中の「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」の句に魅せられ、早速、「狩」に入会しました。 何も知らなかった私でしたが、句友の皆様の温かい御指導に恵まれて幸せでした。人生の後半を心豊かに楽しく過ごすことが出来ました事は俳句に出会ったからだと感謝しています。 この句集は十五年間「狩」で学んだ事を一冊に綴った自分史として私の宝物となります。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 畦焼きの煙の中より下校の子 初めから拗れる話ところてん 薔薇の香の身に沁むほどに長居して カラフルな介護バス来る麦の秋 川風を纏へるここち更衣 浮輪抱へてマネキンの海知らず 梅咲いて空の硬さのほぐれけり 日差してふ逃げやすきもの冬桜 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 傘寿の記念であるからやはり華やかなさがなくてはいけない。 表紙は深紅である。 光沢のあるもの。 花布は金、栞紐は白。 品格のある華やぎをもった祝福の一冊となった。 句集名「瓢の笛」は集中の「ひよんの笛素直に吹けば鳴りにけり」から採りました。 と「あとがき」にある。 涼しさや千年杉の影を踏み この句も好きな句である。スケールの大きさと深さのある一句だ。千年杉の幸いにあやかるように影を踏む、涼しい気につつまれる。千年の彼方からの涼気。身体が一新される。ああ、何という気持ちの良さ。。。。 北野惠美子さま、傘寿、そして句集出版おめでとうございます。 宝物の句集を大切にさらにご健吟くださいませ。 #
by fragie777
| 2018-10-11 20:24
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10月10日(水) 旧暦9月2日
湿原に咲いていた溝蕎麦(みぞそば)。 今日は燃えないゴミの日だった。 わたしのとこは隔週の水曜日である。 できる主婦はそういうこともきっときちんと頭ン中に入っているのだろうけど、わたしはデキナイ主婦なのでおおよそ間違える。 更衣をしたら要らないハンガーがたんと出て来た。 プラスチック製のもあるけど、燃えないゴミコースのものもある。 いつも燃えないゴミは溜まらないと出さないのだが今回ばかりはハンガーやらその他のものが加わって燃えないゴミの集団となった。 そして「出せよ」ってわたしに言っている。 「出すわよ」ってわたしも答えることにしているのだが、 見事に今朝出し忘れた。 あわててその集団のひしめく袋をつかんで飛び出したのだが、すでに回収車は行ってしまったあとだった。 。。。。。。。 わたしはその集団をまたもとの所に戻したのだった。 彼らの非難の目をもう2週間は我慢しなくてはならない。 新刊紹介をしたい。 詩集である。 四六判ペーパーバックスタイル 96頁 詩人・山本純子さんの4番目の詩集である。第2詩集『あまのがわ』ではH氏賞を受賞されている詩人である。本詩集の栞は詩人の松下育男さん。 詩集名「きつねうどんをたべるとき」がいい。まず美味しそうである。わたしはうどんは、「たぬきうどん」より「きつねうどん」派である。油揚げは大好物。そういえばここんとこ食べてないな。タイトルの詩もふくめて全部で20篇の作品が収録されている。言葉のリズムが躍動しているのでどんどん読める詩であるが、一篇ごとに立ち止まらせる詩である。むむって。それを著者は「あとがき」で「自分の中のむずがゆさの感覚」って書いておられるが、そうなのかもしれないが、あるいはそうでないものもあるように思える。ともかくも詩の作品を紹介したい。 いいことがあったとき いいことがあったとき 帽子をつかんで 空へ 思いっきり ほうりあげる人がいる 喜びが 空のあのへんまで わき上がっているんだ と はっきり 目に見えるように もちろん 帽子は すぐに落ちてくるから その人は 帽子をかぶりなおして また 何もなかったように 歩いていく つばをつかむと 帽子を 空へ 思いっきり ほうりあげやすい だから 帽子屋さんは ときどき 帽子を 空へ 思いっきり ほうりあげては つばの具合をみている 注文した帽子を 受けとりに行くと 帽子が 空に浮かんでしまう こともあります と書いた 領収書をくれる 読みながら私は、書かれた詩に幾度も驚かされていた。ああそんな見方があるのかという思いを幾度もした。この世界で、毎日みんな同じものを見ているのに、どうして山本さんだけに見えているものがあるのだろう。それは決して突拍子もないものではなく、ホントに何でもないもの、何でもないことの中にそっとある。山本さんの指だけが触れ、拾い上げることのできるもの。そうなのか、世界ってそういうふうにもとらえることができるのかと、そのたびに驚かされてしまう。(略) 山本さんの詩の素敵なところは、そういっただれにも見えないものを見る能力だけにあるのではない。「理由」を見極める目を持っているところにもある。どんなに見事な発想も、発想のよってたつところが明確でなければ読者は納得しない。その発想はこうだからだよというしっかりとした理由を読者は求めている。山本さんの詩にちりばめられている理由は、いつも柔軟であたたかい。(略) 詩集中どの詩も好きだが、特に「いいことがあったとき」に魅かれる。いいことがあったときにほうり投げるために帽子はある。そうなのか。そうだったのか。それならばこの詩集を読み終えたらまず何よりも、私は帽子を空高くへほうり投げよう。 松下育男さんの栞を抜粋して紹介した。タイトルは「きれいな理由を探しながら」。 本詩集の担当は文己さん。 文己さんは、「『とびばこよりも』 『ハイどうぞ』 などの篇が好きです! 」ということ。 そして、 「小さい頃の気持ちが蘇って、不思議な感覚で胸がいっぱいになります。『いもむし』みたいに、私もカーテンの中が好きでした。 雷の夜、怖がりながらも弟たちとくっつきあって、カーテンにくるまって隙間から空を見たりしていました。 」と感想をくれた。 では、文己さんの好きな詩を一篇紹介したい。 とびばこよりも とびばこ よりも 馬とびがすき だれか 馬とびしませんか さきに 馬になってくれたら わたしが つぎに馬になります じゃあ もうすこし ひくくなってね と いろんなひとに こえかけて とびつとばれつ とびつとばれつ とんでいったら もう そつぎょうのひに なりました がっこうじゅうを ひとあるき みんな せなかをかしてくれて ありがとう と つぶやけば がっこうは いちめん あおくさのにおいに みちていて てのひらは せなかのきおくで いっぱいだ 歯が生えかけるとき、むずがゆい。転んだあとの擦り傷が治りかけるとき、むずがゆい。全きものになろうとする手前のところが、どうもむずがゆい。 アホロートルという生きものがいて、それを見るとむずがゆい。アホロートルは通称、ウーパールーパー、和名はメキシコサンショウウオ。幼形のまま成熟する。成体なのに、その一歩も二歩も手前のような見た目がむずがゆい。 そのアホロートル、ゲノムが、これまでに解読された生物の中で最大なのだそうだ。アホロートルは、トカゲのしっぽの再生能力より、はるかに高いからだの再生能力を持っている。今年に入って、アホロートルのゲノムが解読されたと発表されたが、そのDNAの特徴が、再生能力の秘密に関わっているらしい。 自分の中のむずがゆさの感覚、それを追いかけることで、自分の中で何か新鮮に再生してくるものがないか、そんなことを思って、自分の中のアホロートルを何匹かつかまえようと追いまわした、これはそんな詩集です。 「あとがき」である。あとがきもまた、詩のリズムが生きている。 本詩集の装丁は和兎さん。 和兎さんの提案も取り入れて下さいつつ、 ご自身の希望通り形になって嬉しいとのこと。 図版はおなかいっぱいのきつね!トレードマークにされたいくらい気に入ったとのこと。 良かった! 帯の裏側にそっといるきつね。 これは山本純子さんから担当の文己さんがいただいたメール。 あまりにも面白いので紹介したい。 昨日、詩集を届けてくれたクロネコさん、 「ちょっとお聞きしますけど、 〝きつねうどんをたべるとき〟って、なんですか、 きつねうどんが入ってるんでっか」 「いえ、詩集なんです」 「そうでっか、また、 ふらんす堂って、うどん屋かいな、思いましたわ」 発送伝票に、品物欄がないので、 悩まはったみたいです。 重いから、うどんのつゆが入っていると 思わはったのかも。 私が、妙なタイトルをつけたからですね。 ふらんす堂という洋菓子屋さんはあるようですが、 たぶん、うどん屋さんはないですね。 「ふらんす堂」といううどん屋さんなんていうのもいいなあ。 ああ、むしょうにきつねうどんが食べたくなったぞ。。。 今日はお客さまがおふたりいらっしゃった。 俳人の藤本夕衣さんと画家の伊藤香奈さん。 藤本夕衣さんがこの度句集を上梓されることになり、そのご相談に見えられたのだ。 伊藤香奈さんは、藤本夕衣さんのご友人。 夕衣さんとは、小学校から中学校までの同級生で一緒にお絵かき教室に通っていた仲であり、夕衣さんが尊敬する友人である人とのこと。 句集を上梓するときは、伊藤香奈さんの作品を装画にしたいとずっと思っておられたということ。 今日は伊藤香奈さんは、作品と作品カタログを持ってご来社くださった。 伊藤香奈さんは、夕衣さんのためにあらためて装画を描かれるのである。 句集名のことなども話あいながら、どんな句集になっていくのだろうかと、わたしは楽しくなってきた。 藤本夕衣さん(左)と伊藤香奈さん。 藤本夕衣さんは、大学生のときに田中裕明さんと出会った。 おばあさまは、俳人の加藤喜代子さん。波多野爽波の「青」で俳句をはじめ、「青」終刊後は、田中裕明の「ゆう」に創刊入会、平成13年(2001)に「ゆう」賞を受賞されている。ふらんす堂からは、『聖木曜』と『霜天』の二冊の句集を上梓しておられる。今年94歳になられる。生前の田中裕明さんが、加藤喜代子さんのことをとても大切に思われていたことをわたしは思い出す。加藤さんもまたご自身よりはるかに若い師を心から尊敬されていた。 夕衣さんはそのおばあさまのおすすめで田中裕明さんが指導する「ふらんす堂」句会にいらしてくださったのだ。 「田中さんの指導を受けられたのはどのくらいの間でした?」と伺った。 「たった8ヶ月なんです。」と夕衣さん。 「はじめてお会いしてご挨拶したときに、裕明先生が『素直につくって下さい』とおっしゃったんです。それがわたしの原点です。」と夕衣さん。 「俳句をつくるときだけでなく、自分の句を選ぶときもその言葉が浮かびます」と夕衣さん。 田中裕明亡きあとは、綾部仁喜、大峯あきらの指導を受けたが、その両師もすでに亡くなってしまった。 おばあさまの加藤喜代子さんが、句集を心待ちにされているという。 すこし前はお身体の調子が悪かったが、ふたたびお元気になられたという。 わたしも、よく存じあげている加藤喜代子さんが、夕衣さんの句集を手にして喜ばれるお姿を想像すると嬉しくなる。 #
by fragie777
| 2018-10-10 20:26
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10月9日(火) 鴻鴈来(こうがんきたる) 旧暦9月1日
胡桃。 友人からもらったのを忘れていて今朝バッグの底に縮こまっていたのを取り出した。 友人は、 「殻付きのなんて珍しいでしょ」と言いながら、殻の割方を丁寧に説明してくれた。 実はわたしはこのところ毎朝胡桃を食べている。 細かくしたものをヨーグルトに入れて食しているのだ。 わたしのヨーグルト? おそろしいわよ。 混沌のヨーグルト。 ええっと、なにが入っているかっていうと、今朝は、 ヨーグルトのほか、クコの実(焼酎漬け)、チアシード、亜麻仁油、りんご、柿、キウイ、プラム、胡麻きなこ、うめジャム、蜂蜜、胡桃、etc,etc 全部をこう、えいやってかき回して食べるの。 まずいだろう?って。 とんでもございません。 ウマイよ。 わたしが朝食に食べるのは、このほか納豆だけ。 これはなにも味をつけないで、マズイマズイって食べていたのだが、いつの間にが慣れたせいで美味しくなった。 納豆になにかいれるともう納豆じゃないって思うくらい、 ヨーグルトはケフィアヨーグルト。いろいろと食べてみたがこれがわたしには一番あっているみたい。 今日の毎日新聞の新刊紹介に、対中いずみ句集『水瓶』と牛田修嗣句集『白帆』がとりあげられている。 第3句集。ごく静かな文体、そして季語をそっと扱うような雰囲気が読者の心を打つ。 何かよきものを銜へて雀の子 大木のかたがはに雪比良の雪 おろされて風嗅いでゐる子猫かな 第1句集。書名の通り、一冊を貫く清潔な抒情が、読む人に俳句のよろしさを実感させるのは間違いない。 生まれたる子犬の真白クリスマス 富士といふ白帆を張つて初御空 甲板に吹かれ夏服よろこばす 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパバックスタイル帯カバー装 174頁 俳人・川島葵(かわしま・あおい)さんの『草に花』(2008年刊)につぐ10年ぶりの第2句集となる。川島葵さんは「椋」(石田郷子代表)所属、その前は石田郷子代表のお父さまの石田勝彦について俳句を学んできた人だ。タイトルの「ささら水」は、 ささら水雀隠れを分けにけり に拠る。「ささら水」とは聞き慣れないことばであるが、「細水」と書き、「さらさらと流れる水」のことを言う。「さらさらと流れる水」であればべつに驚かないが、「ささら水」と聞くと水にあたらしい表情が加わる。「ささらみず」きれいな言葉である。「雀隠れ」もなかなか誰でも知っている言葉ではない。春になって草の葉が伸びて雀が身を隠すほどになったことを言うらしいが、普通に言ってしまえばさらさらと水が春の伸び始めた草を間をわけて流れて行ったということになるが、これでは詩にならない。「ささら水雀隠れを分けにけり」で、春先の草木の命に触れた一句になる。傍らであそぶ雀の姿までみえてきそう、だ。 本句集の魅力は川島葵という俳人のきわめてオリジナルな感性が、俳句の定型に徹底的にしごかれながらもきわめて自由に繕いもないように自然と表出されているということだ。それはあまりにも無造作に詠まれているようにみえる。しかしどれも新鮮な表情をしている。あるドラマ性をもったハッとさせられるような一句がたくさん収録されているが、つまるところそれらは季語に収斂していく、のではないかと。言ってみれば川島葵さんにとって、季語が終着駅なんだとわたしは思う。季語をあたらしい見方でみせてくれる俳人が川島葵ではないかと。 そういう意味でつぎつぎと面白い句が展開していく。が、安易な鑑賞を拒む、そんな句もありそれが魅力でもある。たくさんの好きな作品があるが、ここでは数句にとどめる。 葉桜のずしりずしりと吹かれをり 露の世の眼鏡が割れてしまひけり 手のひらのさらさらとして新学期 ハンカチを返さなくてもいいと言ふ 夜業して船人のごと星を見る 百円を握りて草の芳しく 春障子あつといふとき破かるる ボクシングジムごと枯れてゐたりけり シャボン玉なんてやりたくないのかも 冬の日を射落とし風呂を沸かしけり クロールの人の心とすれ違ふ はんぺんをなだめてゐたるおでんかな 古雛を冷たく暗く飾りけり 青麦の丈のまぶしくなりてをり てのひらで雨を見てゐる涅槃かな 「涅槃」が季語。2月15日の釈迦入滅の日であり、この日は二月の満月の日であり一年の農事の取りかかりの日でもある、と歳時記にある。わたしたちは「涅槃」と聞けば、かの「涅槃図」を想像してしまう。釈迦が横たわりそのまわりで弟子たちや動物たちが大泣きをしている図だ。涅槃とはまず仏陀の横たわる身体をわたしたちに思い起こさせる。涅槃とは身体にかかわることだ。「てのひらで雨を見る」という行為と「涅槃」にはいっけん関わりがないように思えるが、生きている人間が手のひらに落ちてくる雨を確かめるその行為、そしてそのてのひらが仏陀の横たわる身体を呼び起こし、すでに冷え冷えとした手足をもった身体へと繋がっていくような、てのひらによって呼び起こされた涅槃なのである。そして雨、大地をうるおす雨であり、それはまた、弟子たち、動物たちの慟哭の涙を呼び起こす。「てのひらで雨をみてゐる」という措辞は誰にも詠めるが、「涅槃かな」はちょっと出て来ない。まさに「涅槃」が新しく呼び起こされるための上五中七なのである。 キリストも我も冷たき者なれば なんという冷たさ。しばし、この冷たさの前に立ち尽くしてしまう。これも心ひかれる句であるが、解釈がきわめて難しい一句である。小林秀雄だったか、「解釈を拒絶して動じないものこそ美しい」と何かで書いていたような気がするが、そんなことを思ってしまう一句である。作者の心のいかなるありようで詠まれた一句なのか。しかしひとたびこの句を目にすると心が釘付けになってしまう。なにゆえキリストは冷たきものなのか、そして我も。この冷たさとは身体の冷たさなのか、心の冷たさなのか、あるいは深い悲しみゆえに血がかよわなくなってしまった冷たさなのか、「冷たし」は冬の季語。感覚的なものとして「冷たし」を用いる。と歳時記にある。転じて「人の心の冷たさ」「人情の薄いこと」にも使われる、とあるが、この一句はどうだろう。この一句を目にしたときにそこはかとない悲しみをわたしは感じるのだが、ほかの人はどうだろう。世界は凍りついてもはや救済のなきそんな絶望感?そういう大仰さはこの一句には感じられない。もっとひそやかなひそやかな何か。。。。である。 空き地の雑草が気になるようになった頃、季語を知った。アレチノギクもある。「歳時記」は動植物民俗学辞典だ。なんと楽しい辞典だろうか。季節というより時間そのもの。人の喜怒哀楽と無関係に在りながら、季語に重心を置いても、気持ちは救われる。季節がいつも頰をかすめている。 「あとがき」である。 この「あとがき」もある意味自己完結をしている。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 君嶋さんには、ペーパーバックスタイルであっても、帯を太くカバーのようにするように頼んだ。 帯カバーとわたしは呼んでいる。 帯カバーを外したところ。 装丁が斬新って褒められますって葵さんがメールをくださった。 わたしが思い描いていたとおりの一冊になったことが嬉しい。 川島葵という俳人がその底にもっている野性が見え隠れするような一冊にと願った。 尾つぽだけ返事をくれてあたたかし 好きな一句である。省略の効いた一句である。川島葵さんは人の心より動物や植物の心に近くいる人ではないかって思った。この「尾つぽ」の持ち主は、犬だろうか猫だろうかあるいはタヌキか、それはどうでもいいことだ。作者とこの動物との関係性が素晴らしい。対等であるよりもさらに愛おしく自分を支配するそんな関係性を思わせる。尻尾をみつめる人間はきっと人間の孤独というものや淋しさを嫌というほど知っているのだ。だから「あたたかし」は救済となる。詠めばこちらまであたたかくなってくる。この背後にひりひりするような淋しさをわたしは思ってしまうのだが、それがわかるわたしも淋しい人間かもしれないと言ったら葵さんは笑うだろうな。。。 #
by fragie777
| 2018-10-09 20:18
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10月8日(月) 体育の日 寒露 旧暦8月29日
矢川緑地の鴨の池。 台風後の荒れた感じが残っている。 鴨たちもどこかに身を潜めて台風をやりすごしたのだろう。 今日は体育の日である。 わたしは午後は仕事場の机で過ごす。 一冊にすべく読まなければならないテキストがあった。 午後から夕暮れまでそれを読みとおす。 一度セブンイレブンに飲み物を買いに行く。 「豆乳アーモンド」と「胡麻麦茶」の二本。 それらを交互に飲みながらテキストを読む。 疲れると上野公園のパンダ・シャンシャンライブ映像をみて、(かわいいなあ)とため息をつく。 目を休ませるため数10分の間目を閉じて、午前中にiPhoneに落とし込んできたバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番を聴いた。第1楽章を繰り返して聴く。わたしのCDはシェリングのものだ。やっぱりいいな、とわたしの五臓六腑がうっとりしている。 トイレにたつこと一度のみ。 ほぼ机で過ごす。 途中で友人たちからラインが入るが、返事をしたり、返事をしなかったり。 体育の日なのに、運動とは無縁の一日となりそうである。 今日はこの辺にして、ラインの返事をしなくてはいけなかった友人のところに立ち寄ってから帰ろう。 #
by fragie777
| 2018-10-08 18:23
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10月7日(日) 旧暦8月28日
秋暑の一日となった。 久しぶりに矢川緑地をあるく。 水澄む季節である。 湿原へと通じる森に入っていく。 森はどことなく台風の痕跡を残している。 これは、台風24号にやられたものだ。 見事な倒れようである。 しっかりと道をふさいでいる。 こちらにも倒木が。 名札がついたまま倒れている。 ヤナギである。(◯◯◯ヤナギって名札にはあったんだけどすっかり忘れてしまった) さらに歩いて行くと。。。 ややや…… これは。 地面がめくれあがっている。 「案外根って浅いのね」 友人とそんな話をしながらただただ驚いている。 どんな木が倒れているかと、まわってみれば、 桑の木や胡桃の木かそのほかにもに倒れている。 ここは桑の実がたくさんなるところで、ここの桑の実はかつて鳥と競って食べた。 台風の痕跡のすさまじさに衝撃をうけた湿原歩きだった。 白鷺も倒木を見ている。 台風のとき、彼らはどうしていたのだろう。 きっと、怖かっただろうな。 何年もこの湿原には来ているが、このような風景は始めてだった。 今日は秋の雲が美しい一日だった。 9月28日(金)に「赤旗」の「俳壇」コーナーに日下野由季さんが村上鞆彦著『芝不器男の百句』を紹介してくださった。タイトルは「あなたなる」抜粋して紹介したい。 不器男俳句の大きな魅力は、その抒情性であろう。「白藤や揺れやみしかばうすみどり」「人入つて門のこりたる暮春かな」「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」などはよく知られた不器男の句だが、そのナイーブな詩情は今もなお人々に根強く愛されている。 この本の著者は村上鞆彦。彼もまた若くして俳壇から注目され、三十代にして「南風」を継ぎ、若き主宰兼編集長として活躍している。 村上は不器男俳句の特長は「声調の美しさ」「ものを見る目の確かさ」「洗練された時間」にあるという。例えば、「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」の句。「二十五日仙台につく、みちはるかなる伊代の我が家をおもへば」の前書を踏まえ、「郷里を思い遣りながら、はるばると辿ってきた道のりを顧みたとき、ふと心に浮かんだのは途中で目にした『夜雨の葛』だった」と解釈した上で、句に流れている時間に着目し、「意識は、仙台から伊予へと自らの辿ってきた道のりを空間的に遡行する。それはつまり時間的にも遡行することであり、(略)意識はとりとめもなく過去の時間へと遡ってゆく。それが望郷の念として、この句に抒情味を与えている」と鑑賞する。一句の時間が単層的ではなく、重曹的であることで生まれてくる抒情。夜雨にけぶるようであった一句が、村上の鑑賞を得て、にわかに輪郭が浮かび上がったと言えよう。 #
by fragie777
| 2018-10-07 20:11
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