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10月31日(水) ハロウィン 旧暦9月23日
吾亦紅。 しみじみと心に入ってくる花である。 午前中は銀行まわりをした。 今日はハロウィンということであっちこっちに南瓜がころがっていた。 先週の日曜日の仙川も仮装した親子連れで賑わっていた。 イベントもやっていたらしく、もはや仙川も来たるべき新しい時代へ向けてさらにさらに変貌していくらしい。 かつて住み始めたころの畑の多いのんびりとした町はどこかに行ってしまっているようだ。 「ふらんす堂通信158」が出来上がってくる。 157号からの新連載の「こわい俳句」は、今回は小川軽舟さん。 だれのどの句を選びどう語られたか、 楽しみにしていただきたい。 「コラム」は、「今100万円もらったらどうする?」 ここだけ格調がダウンするのだけれど、君嶋真理子さんの生き生きとしたイラストで、人気のある頁だ。 わたしたちが、いったい何にしあわせを感じるか、 わかられちゃうかもね。。。 新刊紹介をしたい。 A5判変型ソフトカバー装 134頁 著者の有住洋子(ありずみ・ようこ)さんは、1948年東京生まれ、13年の滞米生活後、1996年より黒田杏子主宰指導の下で俳句をはじめる。その後、橋本榮治代表中心の句会に参加。現在「枻」同人、個人誌「白い部屋」発行。俳人協会会員。本句集は、第1句集『残像』 に次ぐ第2句集である。『残像』が2009年の発行なので、すでに10年ちかい時間が流れた。 句集名は「景色」。 「あとがき」に 景色は、私にいろいろなものを見せてくれた。 とあるように、著者の目や心に映ったものを一句詠みこんだ、その結実としての「景色」である。 「いろいろなもの」が絵巻物のようにこの一冊に展開されていく。 そこにはたっぷりとした時間の流れがあり、また著者のこころの深い奥行きを思わせるものだ。 書かれた俳句の背後にある豊かな時空が見え隠れするような句集である。 各章の見出しも、それもまた景色の一環である。 水平、死者、真下、回廊、錆、端、貌、一面、こう書いてきて、それはたまたまなのかもしれないが、「貌」以外すべてイの音がふくまれていることに気づいた。「景色」もまた然り) これは著者が計らったことではないと思うが、面白い。 白息にずんと切り倒される樫 死してなほ顎髭のびる寒旱 短日の灰の中より棺釘 最初の頁の2句目から4句目の句である。やや不穏な景色であり、死のイメージが蔓延している。 句集のはじめから全体をとおして「死」の気配がある句集だ。その死は具体的な誰それの死というのではなく、もっと普遍化された死の景色、生の裏側にはりついている観念としての死を俳句の定型のなかで組み立て直して現実の風景として見せてくれるもの、と言ったらいいのか。死ということが言い過ぎであれば無常のはりついた生というか。 蹼のうごき止まざる涅槃西風 紙を漉くおぼろを積み重ねてゆく ほほゑみの残されてゐる桜餅 ぽつかりと空見えてゐる蓮の花 仏像の足先反つてゐる野分 人逝きしことを知らせず大花野 椅子を足す十一月の死者たちへ 秋雲の一番端の額縁屋 この句は好きな一句である。額縁屋という存在がいい。いったい東京に何軒の額縁屋とよばれる店があるのだろうか、思うに21世紀のいま、たぶん20世紀よりはるかに少なくなっているような気がする。かつて渋谷の宮増坂に額縁屋さんがあって、額装をしてもらったことがあるが、今も営業をしているのだろうか。額縁を選ぶのは楽しい、額縁を選ぶということはすでにそこに入れたい作品があるわけで、その絵なりなどとその額縁が合うかどうか、額縁によって絵の雰囲気が違ってくる。この句、額縁屋の所在が秋雲の一番端にあるという。ちょっとメルヘンの世界のような青空にうかんだ白い秋雲がみえてきて、その端っこにある額縁屋さん、そうであるはずなのに、あらら不思議なことに額縁が雲のうかぶきれいな秋空をその額のなかに誘い込んでしまう、そんな景色がみえてもくる。秋雲であるから空は澄み、きっぱりとした風景だ、きっと。 秋燈の真下を拭いてをられたる 街道の途中凍つてゆく途中 雪の果死者祀る部屋空いてゐて 花冷の戸が回廊に通じをり 白昼といひ白日といひ日からかさ ギヤマンを取り出す影を残し置き 捕虫網だつたのだらうあの白は 水うすくひろがつてゐる裸足かな 歌女鳴いて夢をつぎつぎ見る夜なり 「歌女鳴く」は「かじょなく」と読み、「蚯蚓鳴く」の傍題である、とはじめて知った。「蚯蚓鳴く」は秋の季語。「亀鳴く」は春の季語。どちらも実際には鳴かないが、俳句の世界では鳴くのだ、それが面白い。「蚯蚓」のことを「歌女」と言うのもいいではないか。夢もまた華やかな色彩をまとってくるようで。わたしにとっては、「歌女鳴く」で詠まれたはじめての一句である。手元にある歳時記では一句も例句がなかった。 小食のひと日さざんくわ散りはじめ 恋猫のをとこの膝にもどり来る 雨雲のあつまつてくる木槿かな 杣人も狩人もゐる踊の輪 古書店の狭霧の中にゐるごとし 家あらば家のまはりの霜柱 剝製の禽鳥類も冬の底 その時その場に見たものは、悠久の流れの中の、移りゆく景色であれば、同じものは二度となく、またすべてが目で見たものとは限らなかった。 ふたたび「あとがき」より。 本句集は著者の有住洋子さんのたつてのご希望によって、Sam Francis (サム・フランシス)の作品を装画として使用した。 有住さんがお持ちの画集を著作権協会の了承を得てしようしたものである。 装幀は和兎さん。 こうして使用してみてつくづくと思ったのだが、たいへん良い一冊となったということ。 大人の本、という趣がある。 作品が呼び起こす力というものをわたしは思った。 「景色」というややニュートラルな言葉が、存在感あるものとして立ち上がってくるのだ。 この作品を装画にしたい、という有住さんの大人の美意識を感じたのだった。 一見、紺色が強調されているのだが、よく見るとそこはかとない紅色や黄色などがある。 当初はグラシン巻きでいく予定だったが、有住さんとご相談してグラシン巻きをやめた。 装画の持っている迫力を失いたくなかったのだ。 こういうのをあれこれ考えるのが本づくりの醍醐味だ。 帯は透明なものにして、装画をできるだけ見せるようにした。 表紙にもあしらう。 見返しは表紙と同じにして、できるだけシンプルに。 扉にも少し。 すべて和兎さんの按配である。 本文のレイアウトは天地そろえにせず、なりゆきにして上の方へ。 堂々たる一冊となった。 句集にサム・フランシスの絵を用いるのはワクワクした。 ハードカバーにせずにソフトカバーにしたのも、正寸ではなく変型にしたのも良かったと思っている。 こういう一冊になかなか出合えない。 そんな本づくりをさせてもらった嬉しい句集『景色』である。 この本は、俳句への感謝を形にしたものだが、この世で出会ったすべての方々への感謝の本でもある。ありがとうございました。 と有住洋子さん。 漆椀の冥さ藪椿の冥さ 有住洋子という人の美意識を感じさせる一句だ。『景色』を通して一貫しているのは、ときどき顔を出す著者の美意識である。この句、漆椀によく馴染んでいる人間の目を感じさせる。その漆器がもつ冥さに椿の冥さをおいた。漆塗りの美しい椀と椿。二つの間には飛躍があるようで、しかしよく似合っている。「暗さ」ではなく「冥さ」としたことによって、ふたつものの背後にある時間の流れ、死の暗闇へと導かれていくような「冥さ」なのである。美はつねにそこに死(タナトス)を宿す、と言ったのは誰だっただろうか。そんな言葉を呼び起こす一句だ。 この句集にはいろいろな景色があるのではなく、景色がみせてくれたいろいろなものがあるのである。 #
by fragie777
| 2018-10-31 20:36
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10月30日(火) 旧暦9月22日
萩がまだ咲いていた。 「まだきれいね」と言うと、 「名残の萩って言うのよ」と友人が教えてくれた。 「名残の萩ね。ステキな呼び方」とわたしはうっとりする。 しかし、昨年も教えてもらって感激したような気がする。 すぐに忘れてしまうyamaokaである。 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁 第1句集シリーズ 著者の平沼佐代子(ひらぬま・さよこ)さんは、1948年東京生まれ、2000年に井の頭公園の句会ではじめて句会に参加。福神規子に師事、橋川忠夫、橋川かず子に師事。2001年「惜春」入会、高田風人子に師事。2015年「惜春」終刊後、「雛」入会。高田風人子、福神規子に師事。2016年「若葉」入会、鈴木貞雄に師事。俳人協会会員。本句集には高田風人子氏が序句を、福神規子氏が序分を寄せている。 小春日や人生の夢大切に 高田風人子 序文を寄せられた福神規子代表は、30年以上前からのお知り合いだという。 車前草の花やうさぎを飼ひしこと 旧とつくものみないとし露の秋 ほうせん花なぜか文房具屋が好き 佐代子さんの俳句に注目するようになったのは右の作品の頃からだ。 車前草の地味な花からうさぎを飼った少女時代への想起の見事さ、そこにはやせっぽっちであったであろうシャイな作者が、童話の世界のように思い浮かぶ。うさぎを愛しく抱いた時のほのぬくい感触も臨場感をもって伝わって来る。 二句目の「旧とつくものみないとし」の措辞を受けて「露の秋」と言い止めた作品の上質な詩心にも注目した。一句は読者を忽ち銘々が大切にしている懐かしい過去へと誘い、古き良きものを大切に思う作者の行き方に繋がってゆく。「きゅう」という音の響きも切なく不即不離である。 同様に三句目も文房具類の好きな作者を知れば合点が行く。昭和二十年代生まれの我々が子供の頃は、ほうせん花は身近な花だった。花を摘んでは爪を染め、種が出来ると弾いて遊んだ。その少女時代のほうせん花の記憶から、今様ではない一軒の小さな文房具屋さんが浮かぶ。 著者のかたわらにあって、しずかに著者の俳句を見つめ続けてきた福神規子氏の心の籠もった序文である。 本句集は静謐な著者のたたずまいが句集を支配していて、落ち着いて読める句集である。 本句集の担当はpさん。 あたたかや園児の列のすぐくずれ 旧とつくものみないとし露の秋 桑の実や子供のやうな喧嘩して 土筆摘む鉄腕アトム唄ひつつ 空蝉の闇を見て来し眼かと 冬に入る朝の薬のひとつ増え 空蝉の闇を見て来し眼かと この句にわたしも惹かれた。空蝉の眼は不思議だってその眼をみるたびに思う。身体はまさに虚ろをつつみこんでいるが、眼には光りが宿っていて、単なる虚ろではないなにかを感じてしまう。いったい何をみつめているのか。著者はそれを闇を見て来し、と捉えた。闇がそこにあるのではなくて、闇を見て来し眼なのである。それはぬめりとしてやはり尋常でないなにかだ。それがきっと著者には見えたのである。 今生をただ唖蟬でありにけり 福神さんも序文であげておられたが、わたしはこの句に心がとまった。唖蝉に思いを馳せた一句であるが、心がしめつけられるような思いがするのはどうしてだろう。それは唖蝉の有り様を人間の生とダブらせて読んでしまうからなのか。蝉は鳴くものであるという大らかな蝉への思いを否定されそういえば唖蝉として生まれてくる蝉もいるんだということにこの句ではっとさせられるのだ。何ということか。しかし、唖蝉は自身の生を引き受けてただ唖蝉としてその生涯をまっとうする。一匹の鳴かない蝉に眼をとめこのように詠む、その作者の思いの深さに触れる一句である。 句集を編む過程で自分の句を改めて見直し、まだまだ道半ばという思いばかりが強くなっております。これからも努力を怠らず歩む所存です。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 燭灯す頃や雛のふと淋し 土筆摘む人には土筆見えてをり 手品師のやうな帽子よ木の実降る 油点草人の心の見えぬ時 虫売りのいつもの隅に荷を解きて 山茱萸黄震災語り伝へたく かたかごの花にかたかごだけの風 草の実をわざとはじいてみて淋し 少しだけ人嫌ひかもたうがらし 亀鳴くや陀羅尼助とは秘薬めき 本句集の装幀は和兎さん。 落ち着いた平沼佐代子さんにふさわしいエレガントな色である。 万緑や遥かなるもの畏れゐて 今生をただ唖蟬でありにけり 右の作品のように作者の句境は、人生観の深まりに添うように、さらに深遠な世界へと進化している。作者は俳句を初めて一番変わったことは、人間を含む自然、中でもご自身を新しい目で見ることが出来るようになったことだと仰る。そして「理科系人間の負け惜しみだが、俳句はその良し悪しを数値化・定量化出来ないことだ」とも……。それゆえ俳句は永遠に悟ることが出来ず、人は希求して止まないのだろう。 ふたたび、福神規子氏の序文より。 ストーブのほのほ見ながら告げにけり 映画のワンシーンを見ているような一句だ。「ストーブ」が季語。いったい何を告げているのだろう。少なくとも今晩のおかずのことではないと思う。「ほのほ」を見つめる眼が、(その眼の持ち主は多分女性、それも妙齢の美しい女性と思いたい、)あまりにも一途で、すこし濡れていてそこに炎が映っている、そんな眼だ。告げることもきっと一大事のこと。告げられた相手の心臓はもうひっくりかえるほど激しく鼓動している。ほんの一瞬のシーンを見事に一句に仕立てた句だ。しかし、何を告げたのだろうか。。すごく気にはなる。 今日はおひとりお客さまがお見えになった。 すこし前にお会いしたときに、「そろそろ句集を」とおっしゃって下さってわたしは心待ちにしていたのである。 荒井八雪(あらい・やゆき)さん。 持参された句稿は、第3句集のためのもの。 八雪さんは、いまは「草蔵」(佐々木六戈代表)に所属しておられる。 俳句歴はながく、もうすでに30年以上、「童子」の辻桃子氏のところではじめられた。 「俳句をはじめた頃はもう楽しくて楽しくて……」と眼を輝かせられた。 だが、お話をうかがっていくと、今もどうやらとても楽しそうである。 六戈代表は、お仲間たちにかなり高度の宿題を出すらしい。 八雪さんは、手帳をとりだして見せてくださった。 「ほらね、たとえば、何もいわない句をつくること、とか、あるいは、動作の途中の句をつくれ、とか、それはもうたいへんなのよ」って。 しかし嬉しそうである。 荒井八雪さん。 三宅一生のプリーツプリーツを上手に着こなしておられる。 今回の句集のタイトルの候補がふたつ。 うかがえばどちらもとても良い集名である。 ここに書きたいのだが、ちょっと内緒にしておきたい。 ふたつともあまりにもステキな集名なので(ひとつはわたしがはじめて知った言葉)決まるまでは発表できない。 「六戈さんに相談して決めます」と言ってお帰りになられたのだった。 (どっちになるのかなあ、どっちもいいけど、わたしはあえていえば◯◯の方かな) ちょっとお知らせです。 明日のNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「新発見!晶子と白蓮 情熱の女たち」に、「短歌日記」を連載してくださっている松平盟子氏が出演されます。 ご本人曰く、「あくまでもちょっぴり出演ですが」と。 明日の夜の10時25分からです。 #
by fragie777
| 2018-10-30 19:50
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10月29日(月) 旧暦9月21日
町中で見る菊より空気が冷たく澄んでいるせいか、その色がいっそう鮮やかに思える。 今朝のテレビで、ミスチルの曲がいまの30代のひとたちに圧倒的に人気があると放映していた。 ミスチルか。。。 そういえば子育てをしているときに子どもたちもミスチルを聞きながら育ったかもしれない。 だから、それなりに耳に入ってきた。 今日のテレビで熱狂的にかたる彼らの話を聞きながら、あらためてその歌詞を聞いてみると、 やはりわたしはもうひとつのれない。 で、ふと思ったのだが、わたしの若かりし頃は「しらけ世代」などと呼ばれていたことを思いだした。 つまり、どこかしらけているのである。 ミスチルが人生を語り頑張っていこうよと、若者を元気づけていく歌詞にも、フンって思ってしまう自分がいる。 そんなきれいごと言っちゃていいんかい、などと白々としてしまうのだ。 それではわたしにとって青春の思いを代弁してくれた歌手は? ああ、 それは、 吉田拓郎かもしれない。。 ややだみ声で、 ♪♪ わればまだ人生を語らず ♪♪ などと叫ぶように歌うと、異議なし!ってグッときちゃうのである。 新刊紹介をしたい。 (新刊紹介というにはいささか時間が経ってしまったが) 四六判ソフトカバー装 408頁 俳人・福田甲子雄(1927~2005)の全句集である。 収録は、既刊句集7冊(『藁火』『青蝉』『白根山麓』『山の風』『盆地の灯』『草虱』『師の掌』)、「自句自解100句」、評論「遠方の花」「俳句をささえるもの」「飯田龍太十句撰」、著者解題、年譜、初句索引、季語別索引。 福田甲子雄氏が亡くなってより13年ぶりに刊行委員会(保坂敏子・瀧澤和治・斎藤史子)の方々を中心にそのお仲間たちの意志と尽力によって上梓されたものである。栞に宇多喜代子、友岡子郷、三枝昻之、井上康明、福田修二の各氏が文章を寄せている。 全句集に着手してから、2年以上の時間を必要とした刊行となったが、それぞれの刊行委員が忙しい時間を割いての編集作業だった。わたしも年譜づくりなど微力ながらお手伝いをしたのであるが、各総合誌に寄稿したその精力的な仕事ぶりにはあらためて驚いたのだった。作品や年譜や書かれたものを読んでいるとあらためて福田甲子雄という俳人のあたたかな人柄に触れる。作品や書かれたものはその人間を語る、ということを実感した作業だった。 父はふるさと山梨の自然を愛し、風土、文化を愛し、その方言を愛し、人を愛しました。そして最後はふるさとの土に帰ってゆきました。 ご子息である福田修二氏が栞によせた言葉である。 本集の特徴は、自句自解100句を収録したことと、評論三篇を収録したことであると思う。 自句自解は、句のみならずその鑑賞によって、俳人としての甲子雄のみならず生活者・福田甲子雄がよく見えてくる。仕事のこと、家族への思い、彼をとりまく生活の風景のこまごまとしたこと等々、福田甲子雄の肉声が伝わってくる自句自解となっている。これを収録したことによって、福田甲子雄が読者にとても身近な存在となったのではないだろうか。評論三篇は、飯田蛇笏論、俳句論、龍太論であり、それは福田甲子雄にとって三位一体ものである。師系につらなるものとして自身の俳句をどう読むか、そこに迫ったものだ。これは当初は全句集に収録する予定ではなかったものであるが、保坂敏子さんが「刊行が遅れてもいいから入れたい」といわれ、収録したものである。わたしはまたまた刊行が遅れてしまうと一瞬困ったが、しかし、収録して正解だったと思う。師を思う心、保坂さんたちさすがである。 作品を紹介したいが膨大である。 いくつかの作品にとどめる。 是非に全句集を紐解いていただきたいと思う。 褐色の麦褐色の赤子の声 盆ちかき妻の裁ち屑火のやうに 霧の夜の荒濤こふる蘇鉄の実 生誕も死も花冷えの寝間ひとつ 桃は釈迦李はイエス花盛り なにに触れても音たてて寒の谷 子の背広買ふ歳晩のまばゆき中 ふるさとの土に溶けゆく花曇 竹を伐る音真青に雨のなか 斧一丁寒暮のひかりあてて買ふ つぎつぎに子が着き除夜の家となる 稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空 身を捨てて立つ極寒の駒ヶ岳 猫の子と通夜の僧侶を迎へに行く 蛇笏忌の田に出て月のしづくあび 山中の吹雪抜けきし小鳥の目 仏壇の花より落ちし蝸牛 飲むだけの水汲みおきぬ冬銀河 子育ての乳房のはづむ青田中 風呂落す音のきらめく初昔 母郷とは枯野にうるむ星のいろ 天辺に個をつらぬきて冬の鵙 どこからも見られ枯野の人となる 久女読む夜明けの冷えを肩におき 死者にまだ人あつまらぬ寒夜かな 追伸の一行を恋ひ聖五月 年輪をかさねて一位は涼しき木 抽斗の鉛筆にほふ年の暮 凍(こほ)る田をめぐる老婆より殺気 花月夜死後もあひたきひとひとり 芒野の月光を吸ふ厨口 凍返る谷は奥歯をかみしめて 瘦身の少女鼓のやうに咳く 下萌ゆる死は公平に一度きり 玄関に雪掻きのある彼岸かな つぎつぎに星座のそろふ湯ざめかな 煮凝の底の目玉の動きけり 明日植ゑる田の波立ちてこぼれをり 万緑のかむさつてくる喪中かな 明星の映るまで畦塗り叩く 曼珠沙華死は来るものを待つのみか 桜桃の花純白を通しけり あけぼのの湯タンポにおくいのちかな わが額に師の掌おかるる小春かな 多くの方々からご要望のあった『福田甲子雄全句集』がここに成ったことを、ご遺族並びに刊行委員会、関係者全員の喜びとするものです。この一集により、福田甲子雄の作品の数々が更に広く、且つ末永く親しまれてゆくことを願って止みません。 刊行委員の方たちの願いである。 本句集の装画は,山梨在住の銅版画家今村由男氏が福田甲子雄全句集のために制作された作品である。 装幀は和兎さん。 表紙。 扉。 本文は11句組の二段組である。 天アンカットにして栞紐をつけた。 稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空 こんな句は、山梨に住んでいる人でなければ理解されないであろう、と思っていたので高柳重信さんが、『現代俳句全集』(立風書房)のなかで認めてくれたのには驚いた。こうした失礼な考え方を瞬時でも持ったことに恥じ入った。 山梨は、小鳥にとって宝庫であるらしい。まだまだ乱開発が進んでおらず山々に木の実の類がいっぱいあるためだ。稲刈りが終わる十一月になると、いままで見ていた鳥の姿が消えてしまい、代わって冬鳥の姿を空や木の枝で見かけるようになる。冬を越すために外国から渡ってきたり、山からおりてきたりする冬鳥は色彩が鮮やかですぐに目につく。ホオジロ、マヒワ、シロハラ、キレンジャク、ジョウビタキなどがやってくる。それにかえて、ツバメ、カッコウ、ホトトギス、ヨシキリなどの姿が見えなくなってしまう。稲を刈り終わった盆地には、いち早く冬の気配がただよう。 「自句自解100句」より一句のみ紹介した。 今日の讀賣新聞の「枝折」はこの『福田甲子雄全句集』が紹介されていた。 元読売俳壇選者(2002~2005)で蛇笏賞作家の既刊句集7冊を収録。郷里・山梨の厳しい自然と暮らしに育てられた詩心。自句自解100句も掲載。 あらためて『福田甲子雄全句集』の刊行が成ったことを喜びたいと思う。 #
by fragie777
| 2018-10-29 19:57
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10月28日(日) 霎時施(こさめときどきふる) 旧暦9月19日
昨日は小さな山に登った。 里山の晩秋の風景である。 大きな朴の木。 大分枯れがすすんでいる。 何を見上げているのだろう。 この日さまざまな鳥声が聞こえたが、とりわけジョウビタキの声がよく聞こえた。 ときどき民家があらわれる。 二階からこっちを見ているものがいる。 シロクマだ。 いよいよ紅葉の季節になる。 今度ここに来るときはすでに冬となっているだろう。 ひさしぶりに会ったこゆきちゃん。 石田郷子さんの愛猫である。 すでに老嬢。 この椅子を占領してびくともせず、ワインをご馳走になった時、わたしはこの椅子のはじっこに座らせてもらったのだった。 たくさんこゆきちゃんを撫でることができ、大満足。 今日の朝日新聞の青木亮人さんによる「俳句時評」は、「小さな驚き」と題して4冊の句集がとりあげられている。 朝日新聞は手にはいりやすいので、全文を引用することはひかえるが、とりあげられたのは、川島葵句集『ささら水』(ふらんす堂)、堀切克洋句集『尺蠖の道』(文学の森)、三村純也句集『一(はじめ)』、岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁社)である。 抜粋して紹介したい。 俳句は短く、季語もある。小説や詩、短歌とも異なる詩型をいかに詠み、読めばいいのか。川島葵の『ささら水』所収句を見てみよう。 えんぴつに蜘蛛が片脚掛けてゐる 夏のやや整理された机上だろうか。鉛筆に「蜘蛛が片脚掛けて」じっとしているのだ。日常の無意味に近い些事を発見し、子どものように魅入る様子が平仮名「えんぴつ」にも示されている。 日常の発見でいえば、堀切克洋『尺蠖の道』も見てみよう。 桐一葉いつも位置に易者来て (略) この二句の共通点は日常の些事を興かるまなざしである。四季に彩られた日々の中にふと見える日常のひとときに出会った時、無意味とも思える自身の驚きと些事を興がりつつ詠むのが俳句の特徴といえよう。 三村純也句集『一』よりは、 鳥の巣のこんな低さに何でまた 岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』よりは、 暗渠より開渠へ落葉浮き届く を挙げ、 退屈で、見慣れたはずの日常にふと見知らぬ世界が広がっていることに驚く感性。その小さな不思議を詠み、また読むのが、俳句の醍醐味である。 と評している。 #
by fragie777
| 2018-10-28 18:38
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10月27日(土) 旧暦9月19日
昨夜のドラマ「昭和元禄落語心中」で、師匠の八雲が弟子の菊比古に言う。 「おまえさんはまじめすぎていけねえよ。だいたいお前さんにはスキがない。色気がねえんだよ」 「いいかい、色気ってえのはな、人間にスキがなくっちゃうまれねえんだよ」 なあるほど。。。 とわたしは身をのりだして聞き耳をたてた。 しかし、である。 わたしはこんなにスキだらけで、ワキが甘いのに、 なにゆえ色気がないのわけ? ええっ。 どうしてよ。 教えて欲しい。。。。 今日はひさしぶりに石田郷子さんが暮す飯能・名栗で晩秋の一日をすごした。 さまざまなものを見、触れ、味わったが、まずは「実」シリーズで。 ひよどりじょうごの実。 雨しずくが垂れている。 今日いちばん印象的だった。 指輪にしたいっていつも思う。 山葡萄の色合いに似ているので思わず撮ってしまう。 あちゃ。 こくさぎの実って、郷子さんに教えてもらう。 はっとするほど鮮やかだ。 花梨の実。 あらわにされたフォルム。 必ず会う犬。 必ず吠えてくれる。 誰もいない材木所。 向き合う椅子ふたつが人のいた気配を感じさせる。 柿の実。 「これは吊るし柿用だな」って誰かが言う。 見事な柿。 しかし、渋い。 すでにしなびかけている。 良き色。 秋の色である。 川沿いをあるく。 小さな馬頭観音。 晩秋の名栗川。 じつはこの名栗川には主(ぬし)がいる。 幻の白い鯉である。 その鯉を目撃した。 これ。 わかる? 大きな真っ白な鯉である。 うっすらと白いでしょ。 1メートル近くはあるんじゃないっていう大きさ。 たった1匹で夢のように泳いでいた。 川沿いは蝮も出るのである。 山の気をたっぷりと吸い込んで、わたしたちは里山の行く秋を惜しんだのだった。 穏やかな晩秋の一日だった。 #
by fragie777
| 2018-10-27 23:27
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