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11月2日(日) 楓蔦黄(かえでつたきなり)
井の頭動物園のワシミミズク。 去年の11月3日に写したもの。 15年以上も前に読んでふたたびおもしろく読んだ本がある。 外山滋比古の『思考の整理学』だ。その中に「触媒」という項目があって、とりわけ興味深かった。 T・S・エリオットの「芸術的創造における個性との関係」についての論を紹介しながら、「編集行為とは何か」ということまで話を展開させているのだが、わたしは、へえっーって思いながら興味ふかく読んだ。 20世紀に、「詩歌の創作とは個性の表現である」というそれまでの一般的な通念に否をとなえ、「伝統と個性の才能」において「詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。藝術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である」と、エリオットは語った。 欧米において画期的だったこの「没個性説」は、外山氏にいわせると日本の詩歌、とくに俳句においてはさして珍しいものではなく、俳句は個性の生な表出をきらい、洗練された方法論のもとに作品を作り出してきたという。 エディターシップにおいてもしかり、であると外山氏は言う。 編集の機能を、表現する筆者と、受容する読者との手をつながせることであるとするならば、エディターシップは、自分の才能を縦横に発揮してケンランたる誌面をつくり出すことにあるのではない。むしろ自分の好みなどを殺して、執筆者と読者との化合が成立するのに必要な媒介者として中立的に機能する。 うん、そうだような…ってうなずくわたしは、基本的にこの考え方で編集稼業をやってきたように思う。 しかしながら、この『思考の整理学』が刊行されたのが、1986年でありもういまから20年以上も前のことだ。 「芸術と個性」との関係はともかくとして、出版のありようも大きく変わりつつある。編集者のありようも、ますますかわっていくのではないかと思う。表現者=編集者=読者である、ということもある、これからどんどん「者」と「者」との境界がなくなっていくのではないか…。〇〇であって□□といったふうに、人間がいくつもの顔をもつ時代がやってくるかもしれない、それはそれでそれもおもしろいことだ。 井の頭動物園のワシミミズクのように、わたしは頭をかしげて今後の出版界のありようを考え続けることになる…。 今日は昼から、青山乃木坂で、大関靖博さんが主宰する「轍」の五周年のお祝いの会があり、うかがう。 大関さんとのご縁は長い。 ふらんす堂をはじめて間もないころ、彼の第二句集『風速』を刊行させていただいた。今日の挨拶でも申し上げたのだが、この本の装丁はわたしがやった。実はある人のものまねである。詩人飯島耕一さんの詩集の装丁をした詩人吉岡實さんの装丁技術を盗んだのだ。(わたしの方がシックにできあがったとおもっている。)大関さんには、評論集『ものと言葉』も刊行させていただいた。これもわたしの装丁。大好きなピカソのエッチングをつかったもの。 大関さんをはじめて知ったのはその評論による。高柳重信が編集長をしていた「俳句研究」誌上でのこと。もう30年以上もまえのことだ。(ああ、わたしってこの業界長いんだわあ…、長けりゃいいってことじゃありませんけど。でも確実にいいお歳であることは間違いなし!) 楽しく俳句作りをやっていきたい、とご挨拶をする大関靖博さん。
by fragie777
| 2008-11-02 23:22
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Comments(2)
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電車
at 2008-11-07 13:46
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共感♪ 同感♪
小生の俳句は、自然・他者と小生と読者、この三者の化合を目指してきたように思います。多分これからも・・・・・・。
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fragie777 at 2008-11-08 22:06
電車さま。
自然とわたしたちと読書。 いいですね。 過去のわたしは、自然と他者がぬけて、 本ばかり読んでおりました。 わたしにとって本の世界は現実をわすれさせてくれる 甘美な場所でしたが、いまは、案外いい感じで バランスよく言ってるんじゃないかと思っております。 コメント、ありがとうございます。 (yamaoka)
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