4月7日(土)
一日じゅう新しい洗たく機がまわっている様子を見ながら、休日を過ごしたいとおもったのであるが(洗たく機を観察するって結構おもしろい)、そんなことは許されず、午前10時には仕事場に税理士の廣田氏がみえることになっている。だから洗たく機との蜜月は許されず、車で仕事場へ。1時間ほどうちあわせをして、12時すぎには句会の取材で、「九品仏」へ。ここ九品仏へたどりつくのが、今日は大変であった。なにゆえたいへんだったかというと、ひとえにわたしがぼおっとしていたからである。自由ケ丘の駅から大井町線にのって一駅のはずが、わたしはこの一駅のあいだをどうやら夢をみていたらしい、寝ていたわけではない、人がふつうに電車に乗るように、すいている電車に腰をかけて、窓の外をながめていたのである。通常降りそこなうということは考えられない。寝てしまって、あるいは本に夢中になって降りそこなうなんてわたしには日常茶飯事であるが、ちゃんと目をあけて、何も読まず、すぐに降りられる体勢にいたはずなのに…。私のこころは十六世紀あたりのヨーロッパ中世をさまよっていたのだろうか、気づいたときは次の駅のドアが開いていたのだ。あわてて次の尾山台で降りて、いちど改札をでてふたたび反対側の電車にのって九品仏へむかう。すると、こんなことがありえようか…。九品仏の駅の手前で電車はしばらくとまり、ふたたび動き出したのはいいけれど、な、なんということか今度は自由ケ丘まで行ってしまった。「ええっ、ど、どうしたのよ」と焦るこころでちょっと反復してみると、どうやらわたしは九品仏で開かない車両に乗ってしまったらしい。手前で止まっていたと思っていたのは駅だったのである。30分ほど、おかげで楽しい時間を過ごさせて貰ったわ、ホント…。こうやって目的地にたどりつかないことが多いって、わたしだけなのかしら、それとも、みんなこんなものなのかなあ、わたしにはよく分かりません…。ようやくたどりついた世田谷区九品仏の浄真寺は桜で有名あるが、もう桜はさかりをすぎて、飛花落花の世界となってそれはそれで趣のあるさまを呈していた。ここには加藤楸邨のお墓と句碑がある。(楸邨氏が亡くなったときはここで告別式があり、参列をしたことを思い出す)俳人の木村定生さんが、今日もその句碑のところまで、案内をしてくださった。「お墓もこの墓地のすみあるんですが、とても小さなお墓ですよ」と木村さん。句碑の俳句は「しづかなる力満ちゆきばったとぶ」(ばったは漢字ですが表記できないのです)楸邨さんの小さいというお墓には行くことができなかったが、(ひとりで行ったら完全に迷う)「小さなお墓」というのがわたしにはとても楸邨らしく好ましく思えたのだった。
大切なことを忘れていた。今日の池田澄子さんの「俳句日記」、三橋鷹女の「剥落の鱗一片きらっと遅日」をふまえています。(これって間違いでした。8日のブログ参照)なぜなら今日は鷹女の忌日だからです。わたしは全然知らなくて池田さんに教えていただいたのである。今日ブログにそのことを書きますね。と言って、すっかり失念しておりました。池田さんごめんなさい。かろうじてセーフっていうところでしょうか…