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8月5日(月) 旧暦7月5日
昨夜は芦花公園〔駅名)にあるイタリアンレストランに行って食事をしたのだが、どれもおいしくてかなりの皿数を頼み、メインでお腹がいっぱいになったのでそれで終わりにすればよいものを、デザートにスイカのソルベを頼んでしまった。 これがいけなかった。。。 今朝体重計に載ったところ、おーおー結構な数字になっていた。 体重計は嘘をつかないことを改めて思った次第であった。 今日の毎日新聞の新刊紹介に二冊ふらんす堂の本が紹介されている。 鑑賞書。芭蕉の門人の作品につき、平明にして深い読みを付している。「出替(でがわり)」「日焼田」など、今ではなかなか目にすることのない季語の用例を知ることもでき、貴重な一冊となった。 第1句集。アナウンサーとしての印象と異なる静謐な作風が印象的である。 福寿草空のはじまる低さかな 更衣まだ海の色ととのはず 一枚の紙に天と地梅雨ふかし 新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル 72頁4句組 第1句集シリーズ 著者の小橋信子(こはし・のぶこ)さんは、昭和23年(1948)茨城県生まれ、現在は東京・八王子市在住。平成8年(1996)年に「泉」に入会、平成12年(2000)「澤」入会、後退会。平成15年(2003)「泉」再入会。平成22年(2010)「泉新人賞」、平成24年(2012)「泉賞」を受賞している。現在「泉」同人、俳人協会会員。本句集は1996年から2018年までの作品245句を収録した第1句集である。序文を藤本美和子主宰が寄せている。 藤本美和子主宰の序文は、「本書の著者小橋信子さんは己をひたすら信じ、ひたむきに生きる信念の人である。」という書き出しではじまる。 青梅のふくいくとして一夜過ぐ 屍の匂ひもすこし千草かな これらはいずれも初期の作品だが、純粋な写生句ではない。前句は「一夜」という時間を経てひときわ丸みを加えた「青梅」の姿、その形を「ふくいく」という一語で捉えた。後句は草原の風にそよぐ「千草」に「屍の匂ひ」を感受する。要となるそれぞれの一語に時間が取りこまれ一句の懐が作者の想像以上に豊かなものになっている。先師綾部仁喜が写実に徹することで得られる一語の発見を「認識」という言葉でしきりに説いていたことが思われる句だ。しかしながらこの「一語の発見」はそう容易いものではない。「一語」がなかなか得られぬまま、大方は空振りに終わることが多い。これら二句の陰でどれだけ多くの句が削られ、努力と研鑽の日々があったことか。座を共にした私にはそれもまたよくわかるのである。 あくがれて十一月の葱のいろ (略)これらの諸作からもわかるように作者は物に即し物を描写する、いわゆる客観写生に忠実な徒ではない。どちらかといえば主観や想念が一句の契機となり作品のテーマとなることが多い。 藤本美和子主宰は、小島信子さんの句を「写生句」にとどまらず「主観や想念」が一句に詠み込まれていると指摘する。「十一月の葱のいろ」は「主観と客観がみごとに一体となった作品」と評価する。 本句集の担当は、Pさん。好きな句は、 蜻蛉のとまりて風のやみにけり あくがれて十一月の葱のいろ ふりかへる目にあふれたる曼珠沙華 はんぺんの角こんにやくの角冬来る 極月の石鹸をよく泡立てて 川越えて梨買ひにゆく帽子かな 大年のあをぞらはただ鳶のもの はんぺんの角こんにやくの角冬来る この一句、私も面白いと思った。「はんぺん」と「こんにやく」の角を詠んでいる。どちらも堅いものではなく、はんぺんはふにゃふにゃとしてこんにゃくはぷるぷるとしていて、もとよりやわらかな食材である。共通するところはどちらも四角形であるので当然角がある。作者はその角を詠んでいるのだ。「はんぺん」と「こんにやく」の角を。やや笑える。そして季語が「冬来る」である。「冬来る」なら、おんなじ角をもつものでももっと硬質で鋭角な、たとえば鉛筆の先とかだったら読者にちょっとした緊張感をあたえて「冬来る」とおけば、おお、冬かあ、という具合になるのだが、「はんぺん」「こんにゃく」の角を持ってくるなんてなかなか人を喰っているじゃない。だが、、、である。鉛筆の先であったらどこか理に落ちてしまうけど、これらのふにゃふにゃのあるいはぷりぷりの四角と言ってもはなはだおぼつかない角を詠むことによって「冬来る」の意外性。こののどかな食材の角に対して「冬来る」である。このちょっとした裏切りがまことに俳諧的だとおもえてくるのだ。 大年のあをぞらはただ鳶のもの この句集の最後におかれた一句である。わたしもこの句は気持ちの良い句で好き。「あをぞらはただ鳶のもの」という措辞は鳶が空を舞う姿としては季節を問わず、本当にいつでもそうであると思う。この句「大年」がすばらしい。12月31日の大晦日のことだけど、「大晦日」とかであったらなんかせせこましい感じがあるが、この「おおどし」という言葉の響きと「大年」というシンプルな表記がなんとも読み手のこころをゆったりとさせてくれる。明日からはあたらしい年がはじまる、そんな晴れ晴れとした気持ちでもって空をながめていると鳶がやってきた。縦横無尽に空を舞っている。しかし、空を舞うなんていう常套句はつかわずに「ただ鳶のもの」としたことで、空と鳶しか見えなくなった。俳句でしか表現できない簡潔さだ。 そのなかのまつすぐに降る雪を見て これはわたしの好きな一句。シンプルな一句であるが、「雪」という季語が十全に詠まれているとおもった。そう、まっすぐに降る雪ってあるのよ。ひらひら、ふわふわ、などなどいろんなさまで降っている雪のなかでかなりの速度でまっすぐに降ってくるのが。そういう雪はやはり視線が行く。その雪のさまを詠んだだけなのに、情景がありありと浮かんでくる。 昼顔や虫入れかはるしづけさに この句もいいな。。「昼顔」には小さな虫がよくいるのだが、「虫入れかはるしづけさに」にが俄然うまいと思う。昼顔にはたしかにいろんな虫が出たりはいったりしている。昼顔の花って空き地の隅っことか畑のかたわらに咲いている可憐な花だ。その花でせかせかと動く小さな虫たち。しかし、あくまで昼顔の花を支配しているのは明るい静けさである。「虫入れかはるしづけさに」という措辞は「昼顔」でぴたりと決まった。 『火の匂ひ』は、一九九六年から二〇一八年までの二百四十五句を収めた句集です。 第一章は、初学から二〇〇五年までの九年間で、大方は「泉」の亡き綾部仁喜先生の選を受けたものですが、二〇〇〇年から二〇〇一年の約一年間、「泉」から「澤」へ移り、小澤實先生の選を受けました。その間の句も収めてあります。 第二章は、二〇〇六年から二〇一四年までの八年間で、綾部仁喜先生の選を受けたものです。 第三章は、二〇一五年以降、「泉」現主宰の藤本美和子先生の選を受けたものです。 一九九六年、何気なく入ったカルチャースクールの俳句教室の先生が「泉」の今は亡き石田勝彦先生でした。間を置かずに「泉」に入会し、先生や先輩、仲間たちの俳句に対する熱気に当てられながら、気が付けば二十余年が経ちました。俳句に向き合うことの厳しさと喜びを教えて下さった先生方に感謝いたします。また、一行の詩を求めて苦楽を共にすることのできる句友に出会えたことに感謝します。 最後に、ご多忙の中、選と序文を賜りました美和子先生に心よりお礼申し上げます。 「あとがき」を紹介した。 句集名は、「遠き日の火の匂ひせり雪女郎」に拠る。 ほかに、 炎天のわが影のみをみつめゆく 花野にてめつむりをれば妣のくに なめくぢり月が真上にきたりけり なにもなき空のひろがるゼリーかな 霜柱師系はるかを思ひけり 寒木のひとつの影の濃かりけり かがやける翅吸はれゆく蟻の穴 クリスマスキャロルアロエの千の棘 本句集の装丁は和兎さん 落ち着いた「火の色」となった。 流星や縄文土器の一欠片 「流星」もみな天からの恩恵。胸中にある産土の光景が作者の眼前の景となってあらわれるとき想念の花がひらく。信子俳句の真骨頂といえよう。 序文より。 絵のなかの戦争に差す冬日かな この一句、面白いと思った。「絵のなかの戦争」とあり、はじめは開かれた童話の挿絵の「戦争の絵」だと思った。しかし、これはそのようなことにかぎらず、画集のなかのピカソの「ゲルニカ」でもいいし、あるいは手塚治虫の漫画「火の鳥」の一場面でもいいし、あるいは本にかぎらず絵画そのものでもいいのである。そこに「冬日」が差しているというのだ。「冬日」とは「冬の太陽」のことであり、「光も鈍く弱いので『冬日愛すべし」ということばがある」と歳時記にある。わたしはこの句、「冬日」だからこそそこに癒やしの力のようなものを感じた。「夏日」ではもとよりダメ、「春日」では甘い、「秋日」では明るすぎる。やはり寒さの中で待ち望まれるかすかな光の「冬日」である。かすかであっても「冬日」はおだやかな暖かさがある。その静かな穏やかな光は、神の救いの光であって欲しいと願う。
by fragie777
| 2019-08-05 20:42
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